CAMEL be obstinate

 

 

 

「五日後が締切りやから、俺。しばらくかまってやれへんけど、拗ねたらあかんで、センセ?」
「何言ってんだか。『行き詰まった、どうしよう』って真夜中に叩き起こして下さったのが、過去何回ありましたっけ? 先生」
「今回は別や。一番しんどい処はもう通り過ぎてるし。もう、余裕」
 自信満々に言う割には、既に締切り五日前だし、これから自宅とはいえ缶詰宣言としか聞こえないような事を言ってるは、これでどこをどうして胸を張れるのか判らない。
「へぇ…余裕、ね。なぁアリス、そういえば知り合いに、何回かに一回はそんな風に大口叩いて揚げ句に最後の最後でつまづいて他人の安眠を妨害したり、編集者に迷惑をかけたりするような不届きな推理作家がいたような気がするんだけどさ、お前知ってるか、そいつ?」
 このセリフには、噛みつかんばかりの「火村っ!」という怒鳴り声と、ソファーのクッションが三つばかり勢い良く時間差攻撃を仕掛けて来た。
 有栖川有栖宅のクッションの数が増えているのにどういう理由があるのか、なんて事は追求しない方が賢明な話題と言えよう。
 ともあれ、アリスからの電話はその日からピタリと止まり、加えてこちらから締切り間近な推理作家を担ぎ出す程の用件もなく、五日間、電話は沈黙を守りきった。

 

********

 

 そして、六日目。
 五日目が締切りとはいえ、最悪でも六日目には脱稿はしただろう、と教授連中の飲み会の誘いを適当な言い訳を見繕って断り家路に着きつつ、自分は馬鹿かもしれない、と火村は思っていた。
 別に、教授連中との飲み会なんて、嬉々揚々と行きたいものではないし、はっきり言って面倒臭いものでしかない。
 しかし。アリスからの電話がかかるかもしれない、なんて理由でいそいそと帰宅している自分なんてのは、なんだかとてつもなく情けないと思うのだ。
 格好のつけようもない。
 疲れた気分を背負い込み、北白河の下宿まで辿り着いた火村を迎えたのは、更に脱力を促す底抜けに明るく、且つ呑気な、そしてとてつもなく良く知った声だったのである。
「あー、おかえり、火村。煎餅よばれてんで」
「……………………」
 この第一声には、ノブに手を掛けたまま、しゃがみ込みそうになった。
 一間強しかない火村の部屋で、寝そべって他人の煎餅を事後承諾でもごもご頬張っているのは、間違いようもなくかれこれ十数年来の付き合いになる彼だった。
「……アリス、お前な」
 火村の剣呑な視線にちっとも怯む様子もなく、アリスは、ああそうや、と起き上がって座り直す。
「ばぁちゃんが入れてくれてん。お茶とかも煎れてくれようとしてくれてんけど、悪いから火村のとこでなんかよばれるからって言って、取り合えず上がって来てんやけど。なぁ、火村、この胡麻煎餅めっちゃ美味しいな。どこの?」
「ああ、それは、知り合いの旅行土産で貰った奴だよ……じゃねぇだろ! 何しに来てんだよ、こら」
 アリスのペースに巻き込まれかけて、慌てる。
 胡麻煎餅なんか、この際、どうでもいい。
 上着を脱いで、だかだかと室内に入って来るのをアリスは妙な位ご機嫌で、へらへらしながら見ている。
「何って、脱稿祝いの酒盛り。ビール、冷蔵庫に入ってるから、後でな」
「ラガーなら飲まねぇぞ」
「判ってるって。アサヒの生とモルツとビール工場、好きなん選ばしたるから」
「にしても普通、余所様のお宅を訪問する時は、あらかじめ連絡してお伺いするのが礼儀ってもんだろ。いきなり来て、俺が用事で帰りが遅くなったり、しばらく帰らなかったらどうするつもりだったんだ?」
「んー…脱稿した時点で電話しようかと思ったんやけど、昨日の三時やったら君まだ大学やろ? そのまま眠気に負けて、目が覚めたら午後一時やってん」
「二十二時間も寝てて、よく目が溶けなかったよな」
「三十六時間までは大丈夫って、実験済みやから」
「そうかよ」
 会話のあまりのバカバカしさに、すっかり呆れて肩から力が抜けた。
 所詮、有栖川有栖とはこういう男だ。
 頭に血を昇らせても、馬鹿を見るのはこっちなのだから。
 気がつくと、先刻放り出した上着を、アリスが勝手知ったるなんとやら、とハンガーに吊しながら、振り返る。
「まぁ、おらんでも遅くなっても、いずれは帰って来る訳やから、待ってたらいいかと思って」
 ぽつんと付け加えられたそれが、先程のやり取りの続きだと理解した所で、何と返していいかまでは、火村には判らなかった。
 こんな事をさらりと言ってのけれる辺りも、やっぱり彼は有栖川有栖で。
 何故火村が黙ったままなのか、なんて事にも頓着しないのだろう……アリスだから。
 こんな一言で、不覚にも少しばかり幸せな気分になれてしまい、火村は驚いていた。

*   *   *

 「お腹が空いた!」と途端にうるさくなったアリスと、夕飯を食べに出かけた。
 いきなり天ぷらが食べたいだの、かき揚げが食べたいだのと、TVの旅行番組を見て彼が騒ぎ出したのが原因で。
 そして、来ると予測していなかったアリスのリクエストを叶える材料が、火村の部屋の冷蔵庫に詰まってはいなかった。ごくシンプルな理由である。
 部屋に戻って来たら、時計はもう九時を回っていた。
 それから何という事もなく、各自勝手に動いていて……その間アリスが何をしていたのかよく判らない。
 ぽつぽつとさして重要性の高くない会話を交わしながら、次に気がついた時には時計の針は十一時をいくらか過ぎた場所を指していた。
「そろそろ飲もか」
 お腹の方も和んできたのか、そう言ってアリスは冷蔵庫へと向かう。
 それを追いかけ、火村は台所でつまみを物色する……出て来たのは『柿の種・ピーナッツ入り』と『さきいか』、そして『サラミ』に『6Pチーズ』。
「ま、こんなもんか」
「上等、上等!」
 アリスは笑いながらビールを抱えてそう言う。
 二人して畳に座り込んで煙草と灰皿を引き寄せて、セッティング完了。
 ビールとビールをぶつけると、間抜けなベンッという音が響いた。
「脱稿おめでとさん」
「どうも」
 一口飲んで、アリスはさきいかの袋を開けて早速口に放り込み、火村は適当に一口大にしたサラミをぱくつく。
「で、来月のに載るんだよな」
「そうらしい。短編やから別にええで、見んでも」
「仕方ないさ、友人の鑑だよな? この付き合いの良さは」
「覚えているか? 『推理作家ってのは言い訳するのが商売みたいだな。だから俺は推理小説なんて読まないってんだよ』って奴」
「珍しく記憶力がいいな、どうしたんだ先生?」
 アリスは憮然としたまま茶化しにも、のって来ない。ビールを口元に運びつつちろりと睨んで来る。
 それをさらりとかわして、煙草に火をつけて深く吸い込む……煙がふわりと漂う。天井を目指して。
 折れたのはアリスだった。二本目のビール工場を煽って「まぁええわ」と呟く。
 会話がスローペースで続いてるところからしても、それなりにいい気分で飲んでるのかもしれない。
 目元にほんのり朱がかっている程度なら、まだ序の口である。互いの家での酒盛りは店で飲むのと違ってストッパーがかからない分、限界がない。どちらかがもう寝ると言い出すまで、酒盛りは続くのだ。
 無論、今晩アリスが泊まって行く、っていうのも自明の理だった。
 明日、3コマ目からで良かったな、とぼんやり思っていると、なぁ、と小さな声がかかった。
 いつの間にか、アリスは壁際に移動して飲んでいる。
「そういえば、大学ん時……最初に会った時から、君、他人の小説読んどったよな。もしかして、俺の書くのは推理小説やと思てへん、なんていうオチはつかんやろうな」
「いいな、そのオチ。……ほら」
 手を伸ばして来たアリスに、畳の上のキャメルを向けてやる。
 小さな灯が二つになった。
 飲むと吸いたくなるのだと言う。吸わない方が珍しい自分には、よく判らない感覚である。そのくせいつも他人にもらって吸っている所を見ると、もらって吸う、というシュチェーションが気に入っているのかもしれない。
 部屋の中は随分煙って来たが、不思議と、空気を入れ換えようという気にはならなかった。
 この空気を動かしたくない、壊したくはないと思う。
「火村」
 横たわっていた数分の沈黙は、別に怒ってはいなかったらしい。
 昇っていく煙を目で追って、アリスがふと思いついたかのように呼びかけて来る。
「君、いつからキャメルやっけ?」
 灰皿に、灰を落としながら、アリス。
「さぁ、いつだっけな」
 対する火村は、素っ気ないほど、簡潔な台詞。
 しばらくそこでビールと煙草を交互に嗜み、また口を開いたのもアリスだった。
「もう、結構長いことキャメル一本やん? 何か、これ吸ってたら火村やなあって思って。そしたら、大学の時とかはどうやったんかなあって…なんか、思い出せへんねん」
「俺だって覚えてねぇよ、そんな前のこと」
 これは嘘。
 とぼけて、かわして、さり気なく別の話題を振ってみたりして…アリスもこだわっていたようだが、それ以上の追求はなかった。
 聞かない優しさも、存在する。
 彼が眠ったのは、真夜中を過ぎ、飲み始めてから四時間以上が経過した頃だった。

 

********

 

 大学二回生の五月にアリスに出会って、多分それは六月位の事だったのだろう。
 アリスの友人達とも面識が出来て、その日、コーヒーでも飲んで帰ろうってな話でアリスを含む数人と道を歩いていて気がついた。
 ポケットの中の煙草が切れている。
「悪い、ちょっと…」
 煙草買うから、と丁度見つけた自販機の前で声をかけると、彼らも三々五々に歩みを止める。付き合いのいい連中らしい。
 と、小銭を探している火村の横に、アリスが寄って来た。
「君、いつも何吸ってるんや?」
「別に、何って事も」
 その時はKENTで、その前はセブンスターやらLARK、ラッキーストライク、他にも色々吸ってはみたけど、特にこれというのは決めていない。
 そう答えると、にやりと笑ってアリスは十本の指を突き出した。
 ボタンを押して。
「これでお金入れたら、どれが出ると思う?」
「あのな…」
 ガキみたいな事を、と呆れたのは火村だけで、友人連中は面白がって一緒になって横から後ろからボタンを押さえた。
 やれやれ、と小銭を入れ……その瞬間、なんの拍子かアリスとばっちりと目が合う。
「あ…!」
 途端、カサンと小さな音と共に、膝辺りに登場していたのは、キャメルだった。ラクダの絵柄で、一目でそれと判る。
 友人達の大笑いの中で、独り慌てるアリス。彼の左手の中指が、キャメルのボタンの前でわたわたと踊っていた。
「う…嘘っ! 今、俺手ぇ放したのに…!」
 急に泣きそうな顔になって、火村の手の中のキャメルを見つめる。
「ごめん! どうしよ…っ、君これ吸えへんのやったら」
「吸うけど?」
 強引に言葉を割り込ませる。その間にも手はパッケージをめくって、一本抜き取ると彼の目の前で火をつけて見せた。
 そんな火村の様子を、アリスはぽかんと見ている。
 赤い灯が灯って、火村は歩き出したアリスの友人達の後を追いながら、煙を燻らせる。それはもう、嫌味な程、ごくごく自然に。
「火村…キャメルも吸うんか?」
 戸惑ったようなアリスの声に、ポーカーフェイスで「まぁな」とだけ応えて。
「そうか…火村、キャメルも吸うんか」
 独り言めいた呟きに視線を動かすと、アリスのほっとしたような安堵の表情とぶつかった。
 初めて口にするキャメルを横くわえに、にやりと笑って見せる。
 癖のあるその香りに拘りを持った理由を、だからアリスは知らない。

 

 そして、ずっと知らないままだろう。

 

 

『むぎゅ。』より◆1998.01.15初版◆


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