風邪引きアリス

 

 

 

ACT.1 休日アリス

 兆候が現れたのは、ちょうど二日前のことだった。
 抱えていた締切りをやっとこ仕上げ、次の長編について担当編集者と一時間以上話し込んで、そろそろ受話器を置こうかというその頃に、ふと彼が言いだしたのである。
『あれ? 有栖川さん、なんか先刻から声おかしくありません?』
「え…そうですか?」
『変です。喋りずらそうな感じ。締切り終わって気が抜けたんじゃないですか? 風邪引き込んだりしないで下さいね』
「大丈夫ですよ。心配症やなあ、片桐さんは」
 笑いながらそう言うと、耳元からも伝わって来る、笑いの波動。
『心配ですよ、そりゃあ。ここで倒れられたりしたら、珀友社は有栖川先生にどんな無茶なスケジュール組んだんだって思われちゃいますもん』
「特に編集長に?」
『きっと大目玉ですよ! ですから、ね、体にはくれぐれも気をつけて下さいね』
「はい、はい」
 だから大丈夫ですって、と繰り返してみせて、もう一言付け加えることにした。
「夏風邪なんか引いたら、絶対バカにしそうな奴も身近におることやし」
 ひとしきり笑い合って『では火村先生にも、よろしくお伝え下さい』と、彼の決まり文句を締めくくりに……良く考えると、それを私に告げることは大いなる筋違いなのだが、この一つ年下の担当編集者はいつも笑って取り合ってくれないので、その件に関する議論は諦めてしまっている……東京〜大阪間の長電話は終了した。
 そして二日を経て、私はようやく事態の深刻性に気づかされたのである。
 七月半ば、ふと気づけば窓の外はすっかり真夏の様相を呈している。暑そうだ、と思っても室内は冷房が効き適温なので、今一つ実感はわかない。便利な時代になったものだ。
 ぼんやりと過ごしていた午後のひととき、有栖はせき立てるように鳴り出したベルの音に、現実へと引き寄せられた。
 慌てて受話器へと飛びつく。コールは三回。
『よお、アリス』
 耳に飛び込んで来た声は、聞き慣れた臨床犯罪学者の、いつもの通りのバリトン。
 「何や、君か」と、そう応えようとして気がついた。
「……ひ…ら?」
 声が、出ない…!
 慌てて喉に手をやるのと、耳元で火村の怪訝そうな声が響くのは、ほぼ同時だった。
『アリス? どうかしたのか?』
 どうした、と問われても応える為の声が出て来ない。
 『あ』や『う』に濁点のついた音が辛うじて喉から漏れるが、単語までには発展しない……内心のパニックはほぼ頂点に達した。
 異常を察したのか、一瞬の間を置いて助教授はもう一度口を開く。らしくなく妙に、真摯な声で……確認の為の。
『声が出ないんだな? ……すぐに、そっちに行く』
 返事を待つ気がない事を露わにした台詞を無造作に投げて寄越して、火村は受話器を下ろしたらしかった。途端に切り換えられた、永遠に続きそうな、ツー、ツー、という無機質な音に十秒ほど付き合って、私も受話器を戻す。
 あーあーあーと、発声練習の要領で唸ってみせて、声の出ない事を再確認すると、そのままぐったりとソファーに沈み込んだ。

 

 

ACT.2 鈍感アリス

 『そう、風のように』
 えらく早かったな、と思いがけず早く現れた彼に言うと、そんな言葉が返された。
 だが、今回は下手をするとその時以上に驚かされた。
 いつの間にかうつらうつらとしていたらしく、けたたましく鳴らされた玄関のチャイムに慌てて飛び起きると、時計の針はたった二十分かそこいらしか進んではいない。
 火村…?
 にしては、幾ら何でも早すぎる。
 そう冷静に考えている心のどこかを無視して、体は勝手に動き出す。
 覗き窓すら使わずに、手は勝手にチェーンを外し、重たいドアを引き開ける……不用心だ、と理性は警報を鳴らしているというのに。
「…!」
「おっ、熱烈歓迎だな」
 火村、だった。
 目も覚めるような相も変わらぬいつもの白のジャケットに、首にぶら下げているだけのネクタイ、白髪まじりの前髪をくしゃりとかきあげて、口元には小さな笑み。
 上がるぞ、の一言もなく、当然の顔をして火村はすたすたと玄関を横切った。そして、ジャケットを脱ぐとソファーの背に投げ捨てて、くるりと反転。
 その頃になって慌てて取って返した私の前に、火村が立ち塞がる形になって、ぶつかりかけた所で彼が手を伸ばした。
 顎に手がかかる。
「ほら」
 彼が何を言っているのか判らずに、ぽかんとしてしまっていると、火村は意地の悪い笑顔を浮かべて、顔を寄せて来る。
「お口、あーん、は?」
 ぴしゃりと顎にかかった手を軽く叩いて、それを返事に代えておいた。
 声の出ない哀れな友人を捕まえて、からかった方が悪い。
 取りあえず意思の疎通を図るべく、手近にあったメモ用紙とボールペンを引き寄せてカリカリと始めると、火村も向かいから有栖の手元を覗き込む。
「なになに……来るのが早すぎる? 呑気なとこにこだわってくれるなよ」
 呆れたように呟く火村を軽く睨みつけると、彼は肩をすくめて口を開いた。
「人に会う用事があって、梅田まで出てたんだ。さっさと済んじまったから、センセのご機嫌はいかなもんかと電話したまでさ」
 彼の言葉に、成程、と頷く。
 梅田からなら、地下鉄の御堂筋線で乗り換えなしに十五分ほどだ。
 電話の後で飛び乗って、まさしく駆けつけてくれた訳か、と友人を有り難がっているといきなり、額を小突かれる。
「そんなとこで感動してねぇで、喉の方はどうだ?」
 声が出ない、と簡潔に応える(書く)と、いつから、と返される。一瞬考えて『二日前は喋ってた』と書き添えると、火村は眉根を寄せた。
「じゃあ何か? 二日前に喋ってから今さっきの電話まで、誰とも話してなかった。だから、いつから声が出なくなったのか判らないって?」
 他に答えようがないのでコクンと頷くと、火村は何か言いかけて飲み込んでしまった。
「…とりあえず、見せてみなさい、先生に」
 先生は先生でも、医者ではなく助教授だ。が、おとなしく従って口を開ける。
「ははー…腫れてる腫れてる。これだけ真っ赤なのに、痛くないのか、アリス?」
 面白がっているような口調に、上下の頷きで返すと、ヒューと口笛が上がった。
 ような、ではなく絶対面白がってやがるな、と睨むが、火村はどこ吹く風で矢継ぎ早に質問を浴びせかける。
「ああそう、痛くない、ね。咳や痰は? ……少々。じゃあ、寒気は?」
 顎から手が外れたので、紙にペンを滑らせる。
 内容は『クーラー入れてたから、それで寒いんやと思ってた』だ。
「熱は?」
 ちょっと小首を傾げてみせた。そして紙には一言『計ってないから知らん』。
 これに、火村は大きく溜め息を落としてみせる。
 仕方なく、それ以上責められない内に、と体温計を発掘することにした。
 そして、私が検温している間に、火村は勝手知ったるとばかりに台所でアイスコーヒーをさっさと作り、一人で喉を潤している。
 と、ピッピッピッ、と小さな音がして、体温計が自己主張を始めた。
 寄越せ、と火村が無言で手招く。
「ふーん、7℃ちょい、か。熱あったのも気づいてなかった訳な」
 しみじみと呟いて、私を見やりそのまま完全に呆れモードに入る。
「まぁ…こりゃ、風邪だろうな、多分。鈍い鈍いとは思ってたが、アリス、ここまで鈍感だといずれ命取りだぞ」
 ぼろくそである。
 反論をしようと紙を引き寄せようとした、その一瞬前に火村の腕が横からペンごとかっさらう。あ、と口を開けて固まった有栖を置いて、火村はさっさと立ち上がる。
「……?」
 火村? と、口を動かすと『行くぞ』と軽く返された。
 彼の手には、いつの間に握られたのか、愛車・青い鳥の鍵……行く先は流石に想像がつくが多分、今日ばかりはハンドル権を主張しても、聞き入れられることはないだろう。
 財布と保健証を掴んで、どうやら玄関で待ってくれているらしい、火村を追いかけた。

 

 

ACT.3 風邪引きアリス

 火村が向かったのは、夕陽丘の我が家からそう遠くない、M大付属病院だった。前にも来た事はあるので、診察券も持っている。
 だが、駐車場へ向かう火村を見送って院内に入った所で、私はそのミスに気づいた。
 受付に冷たく鎮座ましましているのは、『午前中の診察は終了致しました。午後の部は五時よりです』の看板。
 まだ一時間はある。
 結局、軽く食事をしてから出直す事になった。
 前には国道が通っているし、病院の建物の近くには入院や見舞い客狙いのコンビニや、ファミリーレストランが軒を連ねている。時間潰しには事欠かない。
 身振り手振りと火村の洞察力とで、会話はなんとなく成立していた。まるで、外人と喋ってでもいるような物だろうと思うのだが、ともあれめでたい事である。
 そして、病院に戻ってからも、我々は三十分以上待たされて、ようやく診察室へと入ることが出来た。
 が、中に入ってからは、実質十分も診てはもらえない。日本の病院の仕組みなんて、こんな物だ。
「どうだって? 風邪だろ」
 診察室から出てきた私を捕まえて、火村がそんな風に尋ねて来た。
 受付に戻りながら……まだ会計をすまし、薬を貰わなくてはならない……私は素直に頷きを返す。風邪自体もそう重くないので、薬も一週間分だけだそうだ。
「やっぱりな。夏風邪はなんとかが引くとかいうもんな、そうだと思ったんだ」
 随分、楽しげに言ってくれる。悔しいが、反論の材料はない。
 会計に待たされている間に、私は電話の横からメモ用紙を拝借して、火村からペンを奪うと、詳しい診察結果を記して手渡した。ここまで付き合わせた事もあるし、今後のこともあるので、報告がてらだ。
「風邪だけじゃない? へえ」
 声帯を少し痛めているらしい。一週間は喋るなと言われた、と書くと火村も少しは以外だったらしく、片眉を引き上げた。
「良かったよな、会社勤めの一般人辞めててさ。でなければ、えらいことだぜ?」
 確かにその点では、小説家は便利である。あるが……一般生活を考えると、どんな物だろうか?
 名前を呼ばれて会計を済ませた私に、火村はじゃあ行くぞ、と示してとっとこ病院を後にした。何故だか主導権を取られっぱなしで、保護者同伴の気分である。
 ブルーバードに乗り込んで、当然のようにハンドルをきる火村の横でペンを走らせる……迷惑をかけて悪かった、と書き信号待ちの時に見せると『なんの』と呟きで返してくる。
「食い物買ってかなきゃな。ちょっと寄り道するぞ」
 どこへ? との口の動きを読んで、火村は近くのスーパーへと寄せる。
 アイスコーヒーを作りがてら冷蔵庫チェックまでしとったんか…確かに今、ガラガラだった筈だ。それにしても、どういうつもりでいきなりそんな事を言い出したのか、と不思議な気分で見つめていると、キィを抜きながら肩をすくめてみせる。
「しょうがねぇだろ、喋れないんだから。一週間くらい付き合ってやるよ」
 さらりとえらく簡単に言ってのけられて、私は驚く。そうしてもらえれば助かる、と思いはしたものの…そこまで甘えるつもりはなかった。
 第一、彼だって学校がある。暇な筈がない。
 口をパクパクして、慌ててそう伝えてみる……ぽんぽんといつものように話せないのがこれほどもどかしいとは思わなかった。
「ばーか!」
 その返事がこれでは、あまりにあんまりである。かっくりと首を落とした所に、言葉が追っかけて来た。
「大学には夏休みなんていう便利なもんがあんだよ。留守電の代わりくらいなら、なれるだろ?」
 随分かさばって、しかも一日三食を要求する、すごい留守電だ。
 そう思いつつも、どこかでほっとしている自分がいる。
 『今度好きなものおごる!』……火村は笑って、頷いた。
 こうして、約束と年月は積み重ねられていく。

 

 

『ミステリー強化週間』より◆1997.06.02初版◆


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