気付いた事がある。
それが今になるまで思い至ってなかった辺り、自分でもかなり間抜けだと思いはするものの……。
何せ彼……火村英生との付き合いは、もうかれこれ十四年にも及ぶ……大学時代に端を発している。
なのに、今、彼の言葉を何気なしに追いかけながらコーヒーを口元に運んでいて、初めて私はその事に気付いたのである。
夕陽丘のマンションの一室、702号室の部屋主である私、有栖川有栖とその友人である京都・英都大学社会学部助教授の火村英生……ちなみに『臨床犯罪学者』という呼び名を私は密かに多用している……とが、さしたる用件もなしに互いの部屋でごろごろとしている図というのは珍しくもなく、今日もその例にもれなかった。
私は丁度切羽詰まった締切りを抱えてもおらず、火村は毎週水曜日はフリーなので、必然的にその日によく顔を合わしてはごろごろとしている。勿論、それ以外に電話の一本で各地へと飛び出して行く場合も多く、その際は私は彼の助手という名目に早変わりするだけである。
そして今日の名目は家主と友人、ようするに前者のほうであった。
どちらが先に言い出したのか、とあるミステリー作家のトリックについてああだこうだと始めたのはいいものの、思いつきでつつきまわした会話は次第に有栖を丸め込み火村の独壇場へと相なったのである。
次から次へと流れるように現れるそのトリックの詰めの甘さの指摘に、どうせ自分の作品ではないのだからと反論の気力もなくして、ふてくされた気分でコーヒーを胃へと流し込む。
その間、助教授の手の中のコーヒーはどんどん冷めていっていたようだが、どうせ彼は猫舌だし、と多少意地の悪い気分で忠告を差し挟むのをやめておいた。
火村はそれに一片の意識を向けることもなく、片手にキャメルを遊ばせながら言葉を続ける。
「……と、こうなる訳だ。この時点でアリバイは成立しない。これで判らなきゃ、推理作家のセンセは廃業した方がいいぜ? アリス」
あ、とその瞬間に気付いた。あまりに意表をつかれたような顔で、まじまじと彼を見せる私に、火村は露骨に顔をしかめてみせた。こういう時は特に、容赦のない態度で接して下さるのが、このセンセの常だった。
「待てよ、おいアリス。まさか……?」
「あ、いや! それは判った! ……んやけど」
慌ててそう叫んだものの、単にそれは火村の表情に、疑惑を水増ししただけの結果に終わった。今の受け答えでは、致し方ないというものではあるが。
火村は呆れたように、溜息を落とす。
始まりはどうだっただろう?
改めて考えると、よく判らない。
『〜だよな、アリス』
そんな風に、彼は誰しもに言いはしない。それは確か。
『おい』とか『なぁ』とか、『おまえ』や『君』なんていう言葉を使う代わりに、『アリス』と呼ぶ。
それも、あまり意識したことがなかった故に気づかなかったが、その呼びかけは非情に頻繁に活用されていた気がするのだ……思い返してみれば。
傍に誰かいる時も、いない時も。
昔は、名前の事で酷くからかわれて……有栖川有栖はどうしたことかまったく嘘偽りのない本名であったので……『アリス』と呼ばれるのに多大な抵抗を感じていた。
一体、それはいつからだったのだろう。
そう呼ばれるのに、すっかり慣れてしまったのは。
どこかで、安堵を感じていたのは…?
「おい、アリス?」
本気で遠い世界に行ってしまっている有栖に、火村は顔全体に胡散臭げな表情を張りつけてそう声をかけ、手にしたままだったカップをテーブルに委ねた。
まるで、今の今までその存在を忘れていたかのように、一口かそこらしか口をつけた様子のない、それを。
カタンという微妙な音で、完全な上の空状態から、私は我に返る。
まただ。
「ああ…うん、いや」
返事にならないような返事を間に挟んで、こみ上げてくるおかしさにたまらず吹き出してしまう。
また、今もだ。
「何でもない。ちょっと気づいた事があったんやけど……」
「なんだってんだよ、気持ち悪いな」
自分は隠し事を山ほどする……現に今もしているだろう癖に、されると気分を害するのだから子供のようだ。
何だかおかしくなって、からかってやった。
「内緒や。どうしても知りたいなら、お得意のフィールドワークの本領を発揮してみればいいやろ?」
「話になんねぇよ。データが少なすぎる」
「まぁ、そこが火村先生の腕の見せ所って訳だ」
「こらこら、アリス。ちょいとおだてたら、誤魔化されてくれるだなんて思うなよ? ああ、くそ。煙草まで切れやがった!」
キャメルの空箱を握りつぶして八つ当たり気味に部屋の隅のごみ箱へと放り込むと、火村は大儀そうに腰を上げる。
ふてくされたような、顔のまま。
そして、ジャケットを手にすたすたと玄関へと向かう。
「火村?」
問いかけた私に、『煙草を買って来る。うまいコーヒーでも入れて待ってれば、誤魔化されてやるよ』とジャケットを一振りして、大上段に構えたセリフだけを寄越す。
「アホ!」
背中を目掛けて投げた言葉には、楽しげな笑い声だけが返されて、そのまま見えなくなった。
当たり前のように交わされるやり取り……その中に散りばめられた数々の小さな、そして時には大きめの、謎。
互いに全てを解きあかすのではなく、こうして執行猶予を与えるように、ぎりぎりまで踏み込まない微妙な関係が成立している。
おいしいコーヒーのためにやかんに天然水を注ぎながら、有栖はなんだかおかしくて堪らない。馬鹿みたいに笑いがこみ上げてきて、しょうがなかった。
火村は無意識なのか…聞いてみたい気もする。
それは本当に些細なことだから。それでいて、どこかくすぐったいような、何だか幸せな気分になれる、小さな発見で。
いつか話してもいいかもしれない……火村がそれに、気づかないなら。
ささやかな謎。
名前はただの、記号じゃないってこと。
|