飲酒兄弟は、若いメンバーを入れることで、再び活動を始めた。
いつも練習していたスタジオペンタの主催していたオムニバスライブにまずは応募し、94年の1月に目黒のライブハ ウスでやった。職場の人たちにチケットを買ってもらうことで何とかチケットノルマはこなした。新・飲酒兄弟の初ライ ブは何とかこなしたもののやはりまだかみ合っていなかった。
その後、アマチュアバンドのコンサートを斡旋している事務所の存在を知り、そこが主催するコンサートに4月に出た。 ちょうど、そのあとゴールデンウイークには大阪遠征ライブをやることになっていたので、それに向けてのウォーミン グアップにもなった。さすがにこの頃には、練習も気合いが入っており、バンドのノリも確立されていった。 大阪のライブの話は、サディーの後輩が持ち掛けてきた。やはり、バンドでライブをやってる限り、いつも同じ所では なく知らない人の居るほかの場所でやってみたいものである。ツアーをやってみたいという憧れもある。しかし、実際 東京から大阪に行くにはかなりの旅費が必要だ。若い連中にとってその旅費はかなりの痛手である。そこで、夜行 バスで行くことにした。これがまた、ツアーをしてる感じがして良かった。
その大阪でのライブだが、はっきり言って受けた。確かにサディーや、や水産の友達関係も来てくれたおかげもある が、この大阪でうまく行ったことがその後の飲酒の活動に滑車をかけたことは確かである。
その後7月、10月、翌年95年の2月にライブを渋谷のラ・ママでおこなった。順調に約3ヶ月おきにライブをこなして いたが、社会人バンドの辛さというか宿命というか客は職場関係者がほとんどであり、更に練習も週一なのでそんな に頻繁にライブも出来ず、職場の人に頻繁にチケットを買ってもらうには気が引けてこのようなライブ周期になった。 当然ながら職場関係者以外のファンはなかなかついてくれなかったが、ライブハウス通ってる系の短大生(専門学 校生?)の3人組みがファンになったといって通ってくれた。
この頃になると、たっちゃんと二人で始めた初期のころのお笑い路線から少しは曲調もステージングも長くやってき て洗練されてきた感はある。コミカルで、ラジカルな歌詞だがストレートなロックンロールの「GO!GO!マグロ星人」に 代表される曲や、「愛してる」やエノカツの「坂の上のガソリンスタンド」のようなラブソングなどもレパートリーになって いた。
ちょうどその前後、おいらは、マンネリな毎日の仕事の事で少し悩んでいて、ちょうどそのころアメリカに赴任してみな いかという話がありその話に乗ってみることにした。春から夏頃に赴任だろうといわれていたので、ライブをどうする かに迷っていた。時期的にこれが最後のライブになりそうなので、たっちゃんと話し合って赴任日の詳細が決まって ライブをする日を決めることにした。
おいらの赴任日が8月2日に決まり飲酒兄弟の最後のライブは7月30日に原宿ロスアンジェルスというライブハウ スですることが決まった。おいらが、ロスのちょっと南に位置するサンディエゴというところに赴任することになってい たので、それにマッチした名前のライブハウスだった。
ライブは、盛り上がり、その後の打ち上げも盛り上がり、盛り上がりついでに原宿の路上でアンプも無しで酔っ払い のおいら達は路上ライブを始めた。飲酒の終わり方にふさわしい終幕であった。
ライブの翌日のめちゃくちゃ暑かった7月31日にアパートの荷物をアメリカに送り出し、アパートを出た。 そして、8月2日にアメリカ、カリフォルニア州のサンディエゴに着いた。

実は、その後も日本に残った3人で飲酒兄弟は続けられていた。
しかし、たっちゃんとシューもおいら同様に96年4月に赴任することが決まった。赴任先は台湾である。
それで、本当に最後のライブを96年の2月にやるという知らせが来た。都合よく日本に来ればゲストで出させてやる という。当然おいらは自費で最後の飲酒を見ようと東京に行った。
出番はトリだった。リハが終わって近所の居酒屋で飲んだ。今までは本番前まではライブに差し障りがあるからそん なに飲まなかったが今回おいらはゲストなのでずいぶんと呑んだ。ゲスト紹介されてステージに上がってマグロ星人 のギターを弾こうとするが指が動かない。歌詞も思い出せない。(これは現役の時からずっとだが)
醜態をさらしてしまった。この醜態は大学時代にARMYでやって以来だ。(この時はARMYの時ほどひどくなかったが)

この後、たっちゃんとシューは台湾に赴任し(シューは今現在日本に帰任している)、エノカツは大坂に転勤した(そ の後、ほかの会社にかわった)。

(続く) 12・31・98

戻る