今回も引き続き、飲酒兄弟の話。
’90年の1月27日ついに、TBS系で全国ネットで放送されていた深夜番組の「いかすバンド天国」という勝ち抜きア
マチュアバンド合戦のようなTV番組に出演した。バンドの演奏シーンだけは別な日にスタジオで録画してたが、あ
とは全部番組自身は生放送だった。その出演日は何故か風邪をひいていて高熱を押しての出演であった。しかしな
がら、その結果は悲惨なもので、審査員の吉田健からは「何だよ、これ」とまでいわれた。最初から番組的にオマヌ
なバンドの一つとして組み入れられてたのかと後になって思った。まあ、それでも主演料としてバンドで3万円貰った
ので良かったが。しかし、眠いのを我慢してテレビを見た身内のみんなには、散々言われた・・・
さすがのおいら達もこれには、すこしめげた。だが、ほとぼりも雪解けと一緒に冷め、その年の夏には、7月に2本、
8月と9月にそれぞれ一本ずつライブをこなした。7月のライブの一つはケンチャンの会社のバンドコンテストの出演
だった。
特に8月のライブは思い出深い・・・労働組合系の連合が主催する社会人バンドのイベントだったが、新宿駅東口
(新宿アルタ前)にある野外ミニステージのステーションスクエアでやったため数多くの通行人が飲酒兄弟に遭遇す
ることとなった。演奏が終わった直後、客に居た身も知らずの日雇い労働者の風貌のおっさんが、感動したぜ、と缶
ビールをおいらにくれた。
勢いを持ったかのように見えた飲酒兄弟だが、この頃からだんだんマンネリ化の渦に呑み込まれていった。特にライ
ブをするわけでもなく、曲を作ってスタジオで練習するのみという状態がつづいたのだった。
ギターのイッシーも曲を作って持ってきたが、ハードロックが好きなくせに作る曲はいまいちニューミュージックのよう
な、やわでひねり(ひねくれ)のない感じの詩と曲で、おいらには馴染めなかった。おちゃらけロックバンドをやってる
とはいえ、やはり、ロックというものにこだわっているおいらの心の琴線には触れるものが少なかった。直接的だけど、
物の見方考え方が人とちょっと人とは同じじゃないぞ、ぶっ飛んでるぞてなのを詩にも音にも求めていた。音に関し
ていえば、手数は控えめで効果的なシンプルなフレーズ一発で決めるというのがおいらが求めるカッチョイイロック
バンド像である。その辺がイッシーの好みとは食い違う所だった。
’90年4月に再び、ケンチャンの会社主催のコンテストの応募の時期が来て新曲を録音して応募した。しかしながら、
久々に出来たカッチョイイ曲(「商売・商売」;後の飲酒兄弟のライブでの定番の一つ)が出来たと思ったにもかかわら
ず予選には落ちてしまった。これを機に、だんだん練習もしなくなり、遂にはメンバー間の音楽性の違いというありふ
れた理由でかどうか判らないが殆ど自然消滅のような状態となった。
バンド活動もないまま1年が過ぎようとしていた頃、たっちゃんが大学時代にやっていたバンドの一度限りのリユニオ
ンライブがあった。そのバンドは、メンバーの都合で、続けることが出来なかったが、その中のメンバーの一人が新し
いバンドをやりたがっていてたっちゃんに誘いをかけてきた。そこで、たっちゃんがおいらに、今ちょっと暇だから冷か
しでいいからちょっとやってみる?と電話をかけてきた。まあ、バンドはやりたいし、何と言っても音を出したかったの
で、いいけど、ギターで参加だよ、と返事をした。高校以来10年ぶりにバンドでギターを弾いてみたいと思ったのだ。
’93年の冬初めて練習した。最初はフリーやポリスのコピーをしていた。そのうちオリジナルもやりたいねということ
になったが、たっちゃんの大学時代のバンドメンバーだった、この新バンドの主催者が結構いい加減な奴だったため、
だんだんみんな嫌気がさし、夏になる頃には、もう解散することになった。
ちょうどその頃、おいらの会社に売り込みに来ていた電子部品メーカーの営業さんの一人が、うちにもロック好きで
ギター弾く若いのいますよ、とエノカツを紹介してくれた。そのあと、彼と会ってちょっと話をしたら、結構音楽の好み
は似ていて、しかも関西出身なので、御笑いセンスもあるというので、バンド一緒にやらないかと誘った。たっちゃん
にもこの事を話し、ちょうどたっちゃんの部署の新人で、学生時代バンドで太鼓経験のある、シュウという奴が居ると
いうので、そいつも誘おうということになった。
この新バンドの名前は、おいらとたっちゃんの中では飲酒兄弟に決まっていた。自然消滅したはずの飲酒兄弟の復
活である。つまり、おいらとたっちゃんの好みに合う新メンバーを待っていたのである。おいらとたっちゃんの飲酒コ
アが居る限り、飲酒兄弟なのである。
新飲酒兄弟は、’93年夏にさっそく練習を始め、この新メンバーで’94年1月にはさっそく目黒のライブハウスで復
活をした。
(続く) 12・10・98
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