今回は、社会人になって結成したバンド「飲酒兄弟」についてだ。

’88年のゴールデンウイークに大阪に遊びに行ったとき、飲みに行くつもりで、入ったライブハウスで「餃子大王」と いうアマチュアバンドがライブをやっていた。アマチュアバンドの割には店は満員だった。客層は結構どころか、かな り若い中高生くらいの客が多かった。それでどんなバンドなんだろうと期待をした。
フィンガーファイブの「恋のダイヤル6700」に乗せてバンドのメンバーが踊りながら登場してきた。
何だぁ?コミックバンドかぁ?演奏もそんなにうまくない。少しがっかりした....が、さすが大阪のバンド、MCがめ っちゃおもろい!そのMCで分かったのだが、このバンドのメンバーの大半が現役の教師で、客の一部はその教え 子達だった。そんな毎日の教師生活の中でのエピソードを話し、それを曲にしていた。やっている側も楽しそうで見て いる側も十分楽しめた。
これだよ、今おいらがやりたいのは。サラリーマン生活がなんか退屈で窮屈でつまらないとぼやいてみた所で、所詮 何も変わるわけもなくつまらないままだもんな。それよか、それを笑い飛ばして、もっと楽しくやればいいじゃん。会社 には自分以外にも変な奴いっぱい居るし、それを歌にしたらネタには困らんよな、きっと。もやもやした状態で ARMYはこれ以上続けられんし、ARMY自身がコミックな方向へは行けんしな、これで、もう閉じよう。その時そう 決心し、新しい方向性を見出した。
東京に戻り、会社の同期で、酒飲み友達で、バンド経験もある、おいらの会社での唯一の親しい友達のたっちゃんに この事を話し、彼もこの話に乗ってくれた。そして即刻バンドを結成した。おいらのアパートで、酒を飲みながらバンド 名はどうするなど話しながら、その夜のうちに2曲作った。バンド名は、最初パンクブラザースなんてのはどうかと言 っていたが、日本語のバンド名がいいなあ、二人とも大酒飲みだなあという安易な理由で「飲酒兄弟」に決定した。 その時出来た「さすらいドランカー」と「僕の委員長」という曲を持って、さっそく練習スタジオを借り、二人で練習を始 めた。その時のドラムはリズムマシーンの打ち込みだった。
ARMYのほかのメンバーにはその後、正式に解散しようということを告げた。なぜ、ARMYのメンバーで、飲酒兄 弟をしなかったのかというと、そのままのメンバーだと180度バンドの色が変えられないのと、そんなことはやってく れないだろうということからだった。技術的にはギターが殆ど初心者のたっちゃんより、アマノの方がはるかにいいに 決まっている。しかし、それではバンドの色は、ARMYのままで変わらない。うまいへたは別にして、自分達が楽しく 演って、見てる人も楽しくなって、それでいてばかばかしいくらい印象に残るような餃子大王のようなバンドをやる為 には、たっちゃんしかいないと思ったからだ。
飲酒「兄」のおいら多霧山と、飲酒「弟」のたっちゃんの二人だけの飲酒兄弟の初ライブはすぐに実現した。結成して 2ヶ月もたたない’88年の7月に会社内で七夕コンサートというミニコンサートがあり、それに出た。二人とも化粧をし て出た。今のビジュアル系のようなカッコイイ化粧ではなく、酔っ払った状態をイメージし、目の周りを赤く塗り、おでこ には筋肉マンの「肉」マークよろしくそれぞれ「兄」「弟」と書いた。ばかばかしい格好とMCと曲で会場の笑いはつか んだ。スタジオで漫才のようなMCも練習していたので狙い通りうまく行った。
それから、曲も増えて行きリズムマシーンでやっていくには限度が来た。その当時のマシーンはメモリー容量が少な く、5曲も入力するとすぐにメモリーフルとなってしまった。それから相手は機械であるから、おいら達のファジーなリ ズムには融通が利かない。それで、やっぱ、人間の太鼓叩きを探さなきゃということで、ケンチャンをドラムに誘った。 ケンチャンはおいらの大学の同級生で東京の会社に就職していたが、彼は大学時代フュージョン系のバンドで太鼓 をやっていたが、音楽の気色は違うがおもろそうだからと興味を示してくれすぐに参加してくれた。
3ピースのバンドとして練習をしていくうちにやはり、たっちゃんのギターが弱いためバンドサウンドとしていまいちぱ っとしなく、特にアレンジ面で幅が出なかった。そこで、同じくおいらの大学時代の同級生で、リッチー・ブラックモアを 師と仰ぐ、イッシーを誘った。彼は、ハードロックギターはうまいのだが身長が低く、長身のケンチャンとの対比が視 覚的に面白そうだという意味でも誘った。彼は飲酒の趣旨に賛同しすぐに参加した。(そして、彼はその後、ステージ 用に15センチのヒールのロンドンブーツを買うことになった)
このメンバーで、練習を重ね、曲を作り、ケンチャンの会社で毎年夏に行われる社内バンドコンテストに応募した。惜 しくもそのコンテストの予選のテープ審査には落ちたが、主催者の一人が気に入ってくれ、社内のミニコンサートが あるので、出ないかと誘ってくれた。当然出た。’89年の春、飲酒兄弟、バンドとしての初ライブであった。結果はま ずまずで見に来てくれた人は面白かったと言ってくれた。
夏になるまでには40分ぐらいのステージは出来るくらいの曲もできてきたので、おいらの4chのMTRで、練習スタ ジオで徹夜で自分達でデモテープを録音した。おいら達もライブの快感を覚え、ライブハウスに出たいという思いが 日々募り、無謀にも都内のライブハウス数軒にそのデモーテープを持っていった。
時同じくして、春の初ライブのときに知り合ったバンドに貸しきりジョイントライブをやらないかと持ち掛けられ、二つ 返事で了承した。そのジョイントライブの直前、原宿の「クロコダイル」という有名なライブハウスから、取りあえずオ ーディションだけどで出てみないかという電話がかかってきた。信じられなかった。
8月のジョイントライブでは、たっちゃんは弦を切るほどのノリノリな演奏を見せ、その時クロコのライブ宣伝をした所、 9月のクロコのライブでは、大半の客は各メンバーの会社の身内であったにもかかわらず、ギャラが出るほど客が集 まった。ただ、そのクロコでの対バンは、初期の爆風スランプから脱退したばかりのベースの湯川ほーじんのバンド で、相手は殆どプロだったので、非常に緊張した記憶がある。
そのあと、順調に10月、下北沢の「屋根裏」というライブハウスに出た。調子づいたおいらたちは、その当時盛り上 がっていたTV番組「イカ天」に応募し、出演することになった。 (続く) 12・3・98

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