今回は、前回に引き続きARMYの話をお届けしよう。

KID RECORDSの記念すべき第1弾のカセット「PACK-1」は地元福岡の自主盤を扱ってるお店に置いてもらうと 同時に、ミュージックマガジン、フーズメイト、ロッキングオンなどのロック雑誌にも送った。
幸いなことにミュージックマガジンの自主盤のコーナーに取り上げられ、おいらも参加していたプライベートアイ ズは結構な評価をもらった。それで通信販売も含め数百本は売れた。
これに気をよくしたおいら達は、すぐに第2弾「UO」というユニットのカセットをリリースし、さらに’83の秋においらの ARMYのフルアルバムカセット「幻惑まなこ」をリリースした。
同様にロック雑誌にも送り、同じくミュージックマガジンで取り上げられた。「この手のビート・ニューウェイヴ系のバン ドにしては珍しく声が通ってて歌詞が聞き取りやすい」などという誉めとも貶しともとれる評をもらった。
このKID RECORDSの活動を通して地元のアマチュアバンドからのコンタクトもくるようになり、ジョイントでライブな どもするようになった。そういった意味で、レギュラーで出ていたライブハウス以外にもライブ活動の場があり、月に1 本以上のライブをこなしていた。特に学園祭シーズンは毎週のようにライブをやった。また、地元のラジオにもライブ が2度程オンエアされた。
ARMYも脂がのってきた大学3年の冬、新年早々行われた軽音楽部主催の年の一度のコンサートホールを借切っ てのROKIN’ KID ’84では、ARMYの中では演奏、ステージングともにピークとも言えるものが出来た。
大学4年になった’84年、音楽的な好みも若干変わってきて、ギター一色のサウンドから、XTC、P−MODELのよ うなオルガン、シンセのキーボード系の音も欲しくなった。それで、クラスメートであった、ムカイをキーボードに迎え5 人編成のARMYがスタートした。
ライブ活動はこの頃から、就職活動、卒論などの為に段々と減ってきた。(建前では)
ただ、KID RECORDSを通して知り合った、地元アマチュアバンドで、オムニバスのソノシートを出そうという企画が 持ち上がり、それに向けて着着と準備を進めた。しかもその中の社会人バンドの人達がかなり協力的で、ソノシート 製作に当たり費用面でかなりの援助をしてくれ、録音スタジオでプロのような16chのマルチトラック録音をし、’84 の冬も近い頃ソノシートは完成した。
KID RECORDSはその頃には、4、5本ほどカセットを出しており、取扱店も博多のみならず、熊本、北九州、東京 まで広げていた。そのルートを利用し、4バンドで片面1バンドずつの2枚組オムニバスソノシートアルバム「ばあ」は 発売された。その時のARMYの収録曲はニューウェイヴバラード的な「不条理」、蛭子よしかずの漫画をモチーフに した、ハードコアパンクな「NO THINKIN’」、ラップのようなアジテーションのような「IMAGE」の今聞いても凄いと 個人的には思う、気合いの入った3曲であった。
アマノ、カヤマンそして、おいらの3人はそれぞれ東京の家電メーカーに就職が決まり、ARMYも解散することにな った。
解散ライブを’85年3月に大学の軽音サークルの部室兼練習スタジオの通称「暴音室」でライブにいつも来てくれる 常連の客や友達を集めておこなった。今までのライブでは持ち時間が30〜40分だったが、この時は、ヒストリー・オ ブ・ARMYって感じで、今まで4年間作曲した約60曲の中からの選曲で、25曲くらいの約2時間のステージをした。 (ちなみに全部おいらの作詞作曲である)

’85年の4月就職して、生まれて初めて東京に出てきた。しばらく1年くらいはバンド活動はしなかった。
しかし、今まで生活の一部のようになっていたバンド活動から縁を切れるわけはなく、東京に居るアマノ、カヤマンに 電話をかけ、東京で、ARMYをARMYのコアメンバーといえる3人で’86年に再結成した。練習スタジオで昔の曲 をやってるうちに新曲も何曲か出来たが、ライブをしてるわけでもなくいまいち勢いが無かった。また、東京という大 都市で活動するには知識が無く度胸も無かった。まあ、ヤマハの主催するコンテストのようなものに出たり、大学時 代の先輩(プライベートアイズのメンバー)の結婚披露パーティーでライブするのがせいぜいだった。
その頃、ボウイ、ブルーハーツ、ジュンスカイウォーカーズといったジャパニーズパンクポップといったバンドが台頭し てきたが、おいらは、毎日の満員電車の通勤がいやでARBやストリートスライダースをウォークマンでいつも通勤 の間、聞いていた。そんな社会人になって作る曲はただ、酒を飲んで愚痴をこぼすみたいなのばかりで、その昔の ARMYのカラーとはまったく異質なものになってきた。
大学の4年間に築かれたARMYの、貧乏だけど自由奔放で好きなことをしたいという訳の分からない非現実的な 夢を見てたアグレッシブなイメージと、少しは自由になる金はあるけれど日々の仕事に縛られた生活の中で、悶々と 暮らしている自分の現実というものを目の当たりにするうち、ARMYというブランドでは今感じてることを表わせない と思うようになり、閉じるべきだと感じるようになった。
そういう思いを持っている’88年のゴールデンウィークに奈良博があるというのでサディーとや水産の居る大坂に ARMYのメンバーで遊びに行った。
おいらたちのことだから、飲みまくる。かなりの飲兵衛ばっかりだから、安くていっぱい飲めるところがいいということ で、その当時大阪ではかなりメジャーな伝説のライブハウス「バーボンハウス」に行こうということになった。何故かと いうと、その当時サディーが会員権を持っていて、会員は飲み放題だった。バンドは何であれ、飲めればいい、しか もそこは、大阪ではいいクラスにランクされてたメジャーなライブハウスだったので下手なバンドは出ないということで どんなバンドが出ようがまあ、間違いないということで行った。
その日にブッキングされていたのが餃子大王であった。これが、飲酒兄弟結成のトリガーとなった。

(続く) 11・26・98

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