今回は、おいらが大学に入って作ったパンクバンド、ARMYの話をしよう。

’81年4月、大学に入るとすぐ、クラブは何の迷いもなく軽音楽部に入部した。そして、新入生同士で、メンバーを探 してバンドを組むわけだが、まず見た目、格好で、自分の趣味に合いそうな奴に声をかけた。
「好きな音楽は?」「ロックンロール」「よし、俺とバンドやろうや」「いいぜ」
それで、めぼしそうな奴が俺を含め4人集まった。
「ところで楽器は?」「ギター」
みんな担当楽器はギターだった。困った。
「俺、ちょっとだけどラムやったことある」「よし、おまえドラム決定」
「じゃあ、ちょっと、ギター弾いてみよう」みんな俺よりはるかにうまかった。
「俺、コピーバンドじゃなくて実はオリジナルの曲がやりたいんよ。俺の曲やるなら俺ベースでもいいぜ」 ということで、おいら即、ベース決定。その日の夕方、楽器屋に行って一番安いフェルナンデスのプレシジョンベース を買った。
その時のメンバーはおいら多霧山(B、Vo)、カヤマン(Dr)、イイジマン(G)、ファッキー(G)であった。
そのメンバーで、俺の曲をアレンジして練習をし始め、新入生バンドであるにもかかわらず6月にあった学園祭に出 演した。その後、地元博多出身のファッキーが組んでいたロックンロールバンド「ダンス」にメンバーが足らないので とイイジマンとおいらが誘われた。練習を何回かやった後で、あまり乗る気でなかったおいらはそのバンドをクビにな った。
そのバンドはそのうちライブハウスにも出るようになり、イイジマンとファッキーはARMYの練習にはあまり乗る気で ないように見えた。その年の秋も深まってきた頃、今度は、おいらが、彼らをクビにした。
ギターがいなくなって、新しいギターを探さなくてはならなくなった。同じクラスの中で、ジャズすきもの会に入っている 奴で実はニューウェイヴもすきな奴がいるという話を聞いて、そいつに声をかけた。そいつに声をかけたのは入学以 来それが初めてであった。そいつが柳ジョージ似のすげー地味な奴、アマノであった。
さっそく奴のアパートにARMYのテープとコード譜を持って行きギターを弾いてもらった。
凄い、一発で、弾きやがる!しかも自分なりにアレンジまでしてる!げっ!コードまで自分で作ってる!
即刻、メンバーにした。アマノのギターが、後にARMYのキー・サウンドになるとはその時は全然思わなかった。
それから、3人で新生ARMYを再開し、毎年1月にホールを借切ってやる軽音の恒例コンサートのRockin' KID '82に出場した。その時持ち時間はセッティング込み15分しかなかったが、なんと6曲もやった。1曲当たり2分以下 である。大きな会場でやるのは初めてだったので、かなりの緊張があり、リハーサルでは、みんな走りまくり、余りの 速さについていけない状態だった。それで、本番ではゆっくり落ち着いてやろうということでやったが、後でテープを 聞いてみると今までで一番速いテンポで演奏していた。
そのコンサートで、パンクながらも軽音の先輩達にも一応一目置いてもられるようになった。
そのコンサートからちょっとして、イイジマンが、実はおれはARMYでやりたいからもう一度いれてくれないか、ファ ッキーのバンド「ダンス」は抜けるから、という申し出があり、奴の再加入を認めた。
大学2年になった’82年、自分達の学園祭や、近所の女子短大の軽音の開くミニコンサートに出演するようになり、 活動範囲も広がっていった。
その頃おいらのベースもある種おいらなりの色が出てきて、8ビートをダウンピッキングのみでゴリゴリ弾くというスト ラングラーズのジャン・ジャック・バーネルのようなスタイルが定着してきた。(それしか出来なかったたんだが)それ を買われて、大学院生の先輩のPrivate Eyesというバンドに参加を誘われその先輩が卒業するまでの約半年間 参加した。その先輩のダサンは不思議な人だった。勉学優秀な人だったが、時折変な行動をするように、ギターも基 礎を一通りマスターしてるくせに、アバンギャルドなフレーズを好んで弾くという人だった....
その’82年の秋、20曲近く溜まったオリジナルを自分達で、部室の練習場で1発録音した。
そうして、活動範囲を広げるため、ライブハウスにそのデモテープを持っていき、’83年の2月公開オーディションを 受けた。何とか、オーディションは受かり、初夏ごろから1〜2ヶ月の周期でライブハウスに出るようになった。その店 は今では、随分と大きくなり九州に何店舗か支店を持つようになった「徒楽夢」という店であった。
ARMYも活動範囲を一応博多の中で着々と広げていく中で、たまに近辺の大学の軽音の似た傾向のバンドともジ ョイントコンサートなどもするようにもなり、名前が少しは通るようになってきた。しかし、ハードコアパンクをやってると いう風にいわれたときには、ちょっと違うぞと思ったが、まあ、見た目は恐かったと、その当時、女子大生でARMYの ライブに通ってくれてた女の子達は語っていた・・・
おいらは軽音のニューウェイヴ系のバンドをやってる連中と、そういった活動には飽き足らず今度は、その当時日本 全国で動き出したインディーズの波に合わせるかのように自主制作レーベルを作ろうということになり、大学3年にな る’83年の春頃「KID RECORDS」というレーベルを起こした。
とりあえずカセットでの供給であれば何とかできるということで踏み切った。旗揚げ第1弾はA面がPrivate Eyesの ラストライブ、B面がARMYとCUeというシンセバンドのスタジオ録音のカップリングだった。
さらにそのグループで’83年の後半頃、「壁新聞」なるものを発刊した。その記事の内容はラジカルで、パンクアート ワーク的な構成を取った新聞を作り学内の掲示板に貼っていた。自分達の活動範囲を音楽だけでなくそれ以外にも 広げたかったのだ。

(続く;次回はこの辺をもう少し掘り下げてお届けしよう。) 11・18・98

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