今回は、おいらのバンド遍歴について書いてみよう。

ギターを初めて手にしたのは、確か中1の頃だった。
父親が途中で挫折したガットギターを押し入れの片隅から引っ張り出し、取りあえずはその頃流行っていたフォ ークから始めた。
その当時「GUTS」という初心者向けのギター雑誌があってどうコードを押さえるか、丁寧な図解入りでその当時 流行っていた揚水、拓郎、かぐや姫などの曲が簡単なアレンジに直され紹介されていて、それで、簡単なコード は覚えた。

しかし、アクースティックギターだから日本家屋で弾くには音がでかい。下手な奴に毎日毎日弾かれた日にゃあ、 そりゃあ、近所のみならず家族でもうるさいだろう。
さすがにピアノの先生をやってた母親にも近所迷惑だからと太陽が出ててるときにしか弾くなといわれた。当然、 そんな事やってる暇があったら勉強しろとも。
そうこうしてるうち、友達で、エレキを持つ奴も出てきて弾かせてもらったら、こりゃまた弦のテンションが低くてF のコードなんかも楽々押さえられる。しかもアンプを通さなければ音も小さくて家で練習するにはもってこいであ る。ロックに傾倒し始めたこの頃エレキしかないと思った。

高校に入り、何とか親をだまして資金援助をしてもらいエレキギターを買ってもらった。
コードだけ弾いていれば何とか様になったフォークだがロックとなればリードも取らなければならない。しかもアド リブなんかも決めなければさまにならない。この頃の定期購読雑誌は「ロッキンf」だった。コピー譜あり、その当 時は自作エフェクターの記事ありで、理系の音楽ファンには中々楽しめる雑誌だった。(雑誌自身は今も健在だ が高校卒業以来購読していないが・・・)
そのロッキンfにロックのソロに必要なスケールの話が載っていてそれで、ペンタトニックとかブルーノートスケー ルとかを学んだ。それのスケールを弾いていれば、何とか形になることを感じたおいらは、それ以上の努力をす ることはなかった。
コードも弾ける、適当なアドリブも出来る、これ以上何をすることがあろうか。しかし、コピーはうまく出来なかった。 今のようにCDだのMDだの無い時代である。ましてや、新曲が出ると同時にコピー譜が雑誌で紹介されるなん て無い時代である。コピーは、レコードからカセットにダビングして、何回も巻戻して聞いてやる時代である。 ある程度コード進行は取れるがソロとか細かなところまでコピーするというそんな七面倒くさいことおいらの性分に合 ってない。だからオリジナルの方向に向かった。

これも最初は、闇雲にコードを押さえなんかしっくりくるコード進行を探るやり方だったが、そんな試行錯誤をやっ てるうちに何らかの決まりがあるのに気づいた。
まずは、スリーコードの存在。それから循環コードの存在。
そんなことが分かると一気に曲が作れ出した。
曲を作るといっても、いくら母親がピアノの先生で妹もピアノもやっててもおいらは譜面が読めないし書けない。 だから、ラジカセに録音した。録音ってモノにも非常に興味があった。
いまでこそMTRとかで手軽に多重録音出きるが、その当時はそんなもの夢のまた夢って感じで、自作のパッシブ 型ミキサーで、妹のラジカセを使いピンポンしまくりで自作の曲を多重録音をしていた。 当然、高校時代にバンドというものを初めて組んだが、やはり田舎の高校、おいらを筆頭にそんなにうまい奴はいな い。(うまい奴もいたが、おいらの趣味とあわないというか相手にしてもらえなかった) 高校の頃は、メインにハードロックよりの曲を目指して作ろうとしていたが、パンクと出会いちょっと、アナーキーでラ ジカルな歌詞とシンプルなフレーズに傾いた曲を作るようになった。(作詞もするようになっていた) 聴く音楽もそういう気色のものが増えていった。
そんな事してたので大学受験に一回失敗し、浪人時代には、母親にギターをどこかに隠された。 浪人生の1年間ギターに触れず、ますますパンクバンドをやりたい気持ちは高まった。 そして1浪の後、大学に入りついに念願のパンクバンドを結成した。 それがARMYである。

あれ?前回と同じ結末やん?
てな訳で、次回こそ、ARMYの話が始まります。
でもこの調子だとARMYの話も長くなりそうやね。
ま、ええか。
それじゃあ、ARMYの皆さんスタンバイお願いしま〜す。

11/11/98

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