柳里恭(りゅうりきょう)
柳澤藩の重臣で元録16年(1703)江戸誕生し、父は権太夫で、5、000石の知行と柳澤の姓を許されていた。
宝永7年(1710)年父の隠退により兄保誠(安信)は、3、000石、里恭、7歳の時馬廻役として2,000石をあたえられている。里恭の名は、主君吉里の1字を拝領しているが、初めは貞貴(さだたか)、字は広美、通称 帯刀(たてわき)図書(ずしょ)などと替わり、家代々権太夫も称した。
博学多芸でとくに書画を得意とし人の師となったのは、16にも上ったと古書に記されている。
また、20歳の頃に、著した随筆「ひとりね」は、多才ぶりが伺える。交友のあった知巳師友の数が非常に多く、特に画家 池大雅との交遊があった。
高僧慈雲の著述に序文、挿絵を描き南都の寺僧から経巻の講義を乞われるほど仏教学に精通していたと言う逸話もある。
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