【 関ヶ原古戦場 】
【関ヶ原古戦場 】
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成中心の反徳川方とが、美濃関が原で行なった合戦。
徳川はこの戦勝で覇権を握った。
因みに、戦後の処分は、
西軍大名の内
改易91家420万石
減封4家221万石
東軍大名
加増115家671万石だった。
不破の関跡
壬申の乱(672年)の翌年、天武天皇は都を守るためこの地に不破関を置き、越前の愛発、伊勢の鈴鹿とともに日本に三つの関所を作った。
島津義弘(惟新)の陣跡
三成の誘いに応じ1000名の兵をもって出陣。勇猛に戦ったが西軍の敗走を見て家康の本陣の前を突破し伊勢に逃れた。
史上に名高い敵中突破です。
大谷吉継(吉隆)の墓
吉継は西軍の配色が濃厚となり、家来の湯浅五助に醜い首を敵に渡さぬよう頼み自害した。五助が首を埋めている所を東軍の藤堂仁右衛門に見られたが、武士の情けと自分の首を渡し内密にしてもらったという。
西 首 塚
9月15日、戦いが終わり家康は陣場野で敵の首を実検して東西の2ヶ所に埋めた。
東に比べ規模が大きく、胴塚とも呼ばれている。
徳川家康の床几場
こんな解説表示もありました