栄との対面を済ませ、夏希にバイトの内容を伝えられた上で押し切られた後。
ひどく憂鬱な気分で屋敷の中を見て回っていた健二は、いつの間にかぐるりと一周して元の場所――栄の部屋の前まで来ていたことに気づいた。
先程までしていた詰め碁の続きだろうか、パチリと小気味良い音を立てて石を置く音が廊下まで聞こえてくる。
親族さえ遠慮して静寂を保っている一角のくつろいだ穏やかな雰囲気を壊したくなくて、そっとその場を離れようときびすを返したのだが、
「誰だい?」
気づかれてしまったらしく、中から誰何の声を掛けられれば答えないわけにもいかない。
「あの…小磯です」
ちょっと通りがかってと小さく付け足すと、「こっちへお入りなさい」と招かれてしまった。本当は通りがかるだけで済ませたかったのに。
先程は夏希と入った栄の部屋に、今度は一人で踏み入れる。箪笥に囲まれた部屋の奥では、先と同じように途中になっている詰め碁の碁盤を脇に寄せた栄がこちらに向き直って座っていた。
その背にはきちんと揃えた便箋と筆の小箱がいくつかの手紙に添えて置いてあり、健二はにわかに、彼女の大切な一人の時間を邪魔してしまったのではないかと不安になる。
「あの、すみません。…お邪魔じゃなかったですか…?」
「詰め碁をしていただけだからね、大丈夫。…健二さんとは一度、差し向かいで話したいと思ってたのさ」
「えと、夏希…さんと一緒じゃなくても…?」
「そう」
「………」
力強く頷かれ、たらりと冷や汗が背中に落ちる。さっきは勢いでああ言ってしまったし、この人も誤魔化されてくれた様子だったのだが…なんだか、見透かされている気がする。
先輩って呼んじゃだめよ、と楽しげに笑って釘を刺されたのを思い出す。彼女のバイトの内容は、新幹線に乗る前に示された注意事項と相俟って相当無茶な要求の数々だったが、最たるものは目の前の人の眼差しだと痛感した。
「東京とこの辺りは随分違うでしょう」
「はい、空気が全然違って…空が広くて驚きました」
「街からも離れているからね。近隣との距離は遠いけれど、その分人と土地に対する情が深い」
「……はい」
それは、この家の人々を見ていてもよく解ることだ。大おばあさんの誕生日に、日本各地からこんなにも人が集まることからでも、恐らく言祝ぎが認められているのだろう、文机に置かれた彼女宛の手紙を見てもよく解る。
だからこそ、この土地を大事にし、家族を大事にしている栄についている嘘が余計に心苦しくなった。
見つめられる眼差しは真摯で力強く、夏希の頼みでなければ思わず懺悔したくなる威力を持っているのだ。
「あたしだって家族を大事に思っているし、そうと認められる人も同じように大事にしたいと思ってる」
それは夏希も同じだろうね。
「…はい」
彼女の言葉にずきりと胸が痛むのを感じながら、実感を持って頷く。なんせ今回の嘘は、目の前の人を喜ばせようと考えられた嘘なのだ。
慈愛に満ちた声音、柔らかく笑ませた視線はこんな自分にすら向けられている。偽りのない言葉だと解るからこそ痛く感じる好意もあるのだと、遠く親元から離れたこの地で健二は初めて知った。
「だからね、あんたにもあの子を…この家を大事に思ってもらいたいのさ。あんたはもう、あたしが認めた陣内家の一員なんだから」
「はい…は、い…っ」
声が詰まる。熱い塊が喉と目頭を灼いて、溢れ出しそうになるのをお腹に力を込めて必死で堪える。でも、差し出された手を縋るように取って――ほっそりした手の温かさに、ポロリと落ちる大きな一粒だけは止めることが出来なかった。
「それでも、けじめは必要だから敢えて聞くよ?…アンタ、夏希の婿さんじゃないだろう」
それも、婿さんになれるはずもない。
言葉は断罪でも、声音はあくまでも慈悲に溢れている。簡単に振り払えてしまう程の力で包んでいる彼女の手が、そこから抜け出ることもなく。
「………っ――」
ただ無言の内に、健二は再び大粒の滴を頬に滑らせた。
何か言いたいのに言葉が空回りして、健二はただじっと見据えてくる栄と真正面から視線を合わせる。その瞳にあるものが侮蔑でも責を問うものでもないと理解して、引き攣る喉を抑えるために強ばらせていた力を緩めた。
「……約束、します」
彼女にとっては突拍子もないことだったのだろう。視線だけで先を促され、健二は両手を栄に預けたまま、丸めていた背筋をしゃんと伸ばした。
「…夏希…さんは、僕の憧れで、大切な人です。僕は夏希さんにたくさんの幸せをもらっていて、少しでもお返しがしたかったんです。…こんな僕でも、少しでも役に立てると思ったのが、嬉しくて」
去年の夏前の一時、いつも一緒にいる佐久間がたまたま学校自体に来れなかった頃に部室に飛び込んできた夏希は、たった一人の静かすぎる部室に差した一条の光のようだった。――本人にすれば些細なことだったかもしれないが、健二にはそれが救いの光のようにさえ見えた。だから、
「……僕には、きっと決定的には夏希さんを幸せに出来ないでしょう。…でも、夏希さんが倒れないように…いつも幸せでいられるように、悲しまないでいられるように、そばで守っていきたいと思ってます。だから――」
「婚約者役を頼むような愚かな娘だが…そばにいてやってくれるかい…?」
萎んでいく勢いとともに声を詰まらせてしまった健二に、全て解っているよと言うように光をにじませた微笑みで尋ねられ、思いの溢れるままに見開いた目から大粒を降らせ、はいと思いの限りで頷く。
ひとしきり許容されることの幸せを噛みしめて栄の手を離そうとすると、今度は節張った手を重ねられ、ぽんぽんと言い聞かすように叩かれた。
「夏希のことがなくたって、健二さんと陣内家の縁は、もうきっちり結ばれてるってこと、忘れないでおくれね」
「〜〜っ、…ありがとう、ございます…!」
それは、栄自身が"夏希の婚約者"としてだけでなく、健二自身を受け入れてくれたという何よりもの証だった。
止まらなくなってしまった涙を懸命に拭い、なにかせめてものお返しができないかと考える。
この温かい人にもらった幸せを少しでも知ってほしくて、ようやく涙が止まる頃、一つ初対面からずっと言い損ねていたことに気づいた。
「あの…栄、さん」
「おばあちゃんって呼んでくれていいんだよ」
「はい、あの…栄、おばあちゃん」
「なんだい?」
優しい声と、相変わらず穏やかな瞳に目を合わせ、健二は強ばっていた頬を緩めて精一杯の笑顔を向けた。血の繋がりー確かな物証ーもなく、栄の保証一つで成り立つ不安定さよりも、今は懐に受け入れてくれた寛大さに心からの感謝を。
「90歳のお誕生日、おめでとうございます」
たくさんの思いを込めた言祝ぎには、落ち着いた「ありがとう」とにっこり歯を見せた晴れやかな破顔が返されたのだった。
貴方に言えない、言えなかった、たった一言。
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