傷痕


 朝一番の騒動が、土方の一言と原田の掛け声で収束の気配を見せ、突然現れて力尽くの押し入りを果たした少女を歓迎する雰囲気が満ちる中、永倉は未だ右手を沖田に掴まれたままの彼女に近づいた。


「睦木サン」
「斎早でイイわよv何?」


拘束されている右手を特に取り返そうともせず、彼女はどこか神妙な表情の男に軽い笑顔で呼び方を訂正し、先を促した。


「んじゃ、斎早サン。あんた・・・」
「そうですねv」


促されるまま気遣わしげに眉を顰めて、少年染みた容貌の彼は口を開いたが、呼びかけただけで何故か即座に沖田によって遮られてしまった。

何も言っていないのに同意を得たような言い草をされても微妙である。永倉は間近にいた第三者を、ぽっかり口を開いたまま徐に眺めたが、しかしそこは割りと長めの付き合いを続行させているだけあって彼らは何やら目だけで交信し、にやりと笑って頷く。無言で数瞬のやりとりであった。

そして、斎早は決して強くは無いが逆らえない手に相変わらず掴まれたまま、笑顔の沖田に引っ張られた。笑顔だけ見れば天真爛漫、あれでもちょっぴり冷気が・・・


「ちょっと沖田クン!?」
「総司です」
「一体何・・・」


手を引かれるままに歩きながら後ろを振り返ると、したり顔の永倉が「総司頼んだぞー」と暢気に笑って手を振っている。
のんびりと歩く彼らを後ろから追い抜かし、道場へ戻る者たちが、新入りに「あんた強いな!」「また手合わせしてくれや!」などと様々な声を掛けていく。
先程暴言を吐かれたばかりなのに、器が大きいのか呑気なのか莫迦なのか。
量ろうとするほうが寧ろ馬鹿馬鹿しく思えて、彼女はあっさりと考えるのをやめた。










彼女が連れてこられたのは、道場からやや離れた母屋の一室、沖田の部屋であった。八畳ほどの室内は物が少なく、すっきりと片付いていて、あるのは小さな文机と行李、簡易な燈台だけであり、稽古に使う木刀と竹刀が一振りずつ壁に立てかけられている。

小さな音を立てて障子を閉め、沖田は中に招いた彼女を振り返ると、室内をのんびり眺めている。変わったものなどは置いてないのだが、何かを探るような視線に訝りながら、真っ直ぐに行李に近づいて薬箱を取り出して、言った。


「左肩、見せてください」


有無を言わせぬ笑みにきょとんと目を瞠った彼女は、数度瞬きして苦笑を零した。気づかれていると思っていなかったらしい。文机の近くに胡坐を掻いて、何の抵抗もなくするりと着流しの左肩を落すと、白い肩にうっすらと赤い痕があった。
白い手が、特になんでもなさそうにまだ真新しい痕の上を撫でる。沖田はこの時初めて彼女が胸にサラシを巻いていることを知った。


「永倉クンとやりあった時に、ちょっとね」


躱しきれなかったの。

丁度永倉の名を当てた時だ。名を言い当てられても淀む事無く繰り出された突きは、肩の関節からずれた所に浅く掠ったのだ。傷を負った瞬間を思い出しているのか、それとも剣を交えた興奮を想起したのか、微笑みながら言う彼女は妙に楽しそうだ。


「腕は――」
「多少痛むけどちゃんと上がるし、骨にも支障はないわ」


こんな怪我をするのにも慣れた様子で、彼女はゆっくりと肩を回してみせる。沖田は傷に触らないように肩に手を当てて、慎重に布を巻いていく。
細い肩だった。真剣で突けば容易く貫けるようなそれは、しかし直に触れると、薄いながらもしなやかな筋肉が付いていることがわかった。この細い腕と薄い肩であれ程の力が出るのかと布を巻きながら感心していると、心を読んだように彼女は小さく笑った。


「ムキムキの筋肉武装するだけが強さじゃないでしょ?」
「確かに、そうですねぇ」


肩から背中、腕、胡坐をかいて露になった脚だけ見ても、余分な脂肪や筋肉は一切付いておらず、彼女の俊敏な動きを可能にする軽快さと力強さが備わっているのが見て取れた。

一見優男に見られる沖田の体も、似て非なる無駄の無いしなやかな筋肉の付いた体をしている。彼の場合は、幼い頃から長けた剣術に、より増した速さと正確さを補い極めるためのものだ。

遠鳴りのような竹刀を打ち合う音がする。丁度素振りが終わる頃だろうか。時々野太い悲鳴が聞こえるから、不機嫌になってしまった土方の八つ当たりが炸裂しているのだろう。予測済みの事態からしっかりと逃れた沖田は、それの餌食になっているかもしれない永倉に後で愚痴られるかもなァ、と一笑する。すると、
ぱらっ


「「あ」」


笑った途端に、緩めに巻いていたサラシが解けてしまい、二人同時に声が上がった。慌てて巻きなおそうとする手を留めて、彼女はサラシの端を口に咥えてするすると手際よく巻いてしまう。


「・・慣れて・・・るんですね」
「君は意外と不器用ね、惣次郎クン?」


あれ、何か言いにくいな。

サラシの端と端を強めに結びながら、彼の戸惑いを物ともせずに軽く流して、彼女は更に相手を揶揄って混乱の種を投げた。そして目の前の相手に対し(彼女にとって)適したあだ名を考え出す。


「惣次郎・・・総司。総司クン?・・・」


着流しを元に戻しながら首を傾げると、束ねたままの真っ直ぐな黒髪がさらりと肩を流れて胸元に落ちた。障子から漏れる光に透けて、色が薄くなって茶色に近くなるのかと思えば、逆に更に深い別種の黒になって布の上に影を落す。

どうして――。

思考の隅に浮かんだ疑問も置いて、不意に彼女の髪に触れたくなった。なんとなく、そうしてみたい。衝動に近い感情に身を任せて手を伸ばそうとするのと、彼女がぽんっと手を打って


「じゃぁ総ちゃんね!」


と嬉しそうに宣言したのはほぼ同時だった。

そこまで縮まったか。

虚を突かれて、彼女を改めて見ると、言った本人はとても満足げに笑っている。妙に邪気の無い笑顔にふっと肩の力が抜けて、漸く自分が酷く緊張していたことを知った。そしてごく自然に手を伸ばし、彼女の肩にかかった髪を払いながら、


「なら僕は早さんって呼びますね」


と笑い返す。指に通した黒髪は、どこか掴み所の無い彼女の気質のように、あっさりと指先から離れていく。

沖田がお返しのように付けた呼び名は、親しみを込めて自然に出てきたものだった。自ら彼女をそう呼ぶことで、彼女が付けたあだ名を受け入れた意味もある。


「・・・聞かないのね?」


彼女に対する疑問。余りにも自然に彼女が振舞っていたが故に、軽く聞き流してしまいたくなる多くの謎は、この一言で意図的に撒かれていたのだと教えられる。また、疑問に解答を求められる覚悟が有ることも。・・・棘のように締め付ける緩やかな痛みを纏っていたけれど。
聞くことは簡単だった。言葉にすることは。だが――


「今、僕が聞くべきことじゃないでしょうから」


貴方が言いたくなったら、その時に

何の感情も帯びず、ただ見つめてくる彼女の髪にするりと指を通し、流れるのに任せて手を放した。冷たい髪の筋の感触がさらさらと心地よい。彼女はその手に気持ち良さそうに目を細め、綻ぶように口元を緩めた。


「――――」
「それは―――」


どういうことですか?

声無き声で、淡い空気に乗せて届いた言葉に、沖田は僅かに眉を寄せたが、彼女はやはり何も答えずにただ笑顔を向けて素早く立ち上がった。


「総ちゃんってばイイ男ッ!あーんな陰険男なんかよりよっぽど大物になるわよぅ♪」


スパァンッ!

滑りの良い障子を勢い良く開くと、彼女の姿が開けた光の中で影となって背を見せている。手にはいつの間にか愛用らしい木刀を握っていたが、その背中は先程対峙していた時では考えられないほど酷く無防備だった。


「手当て、アリガトねっ」


ひらひらと手を振って礼を言い、鼻歌交じりに眩しい昼の光の中へ歩いていってしまう。向かった先は、方向からして恐らく竹刀と木刀の音が入り乱れる道場である。

余りにもはっきりした足取りにそのまま見送ってしまった沖田は慌てて立ち上がり、後を追おうと縁側に出たが、既に彼女の姿は見える範囲には無く、代わりに道場からは新参者を迎える歓迎の声が届いた。
軽い痛みを伴う程度の怪我(らしい)とはいえ、一応それなりに打ち合いには支障が出る筈・・・なのだが。

間髪いれず、小気味良い打ち合いの音と、男の派手な呻き声や悲鳴が聞こえてきて、ふと彼女が礼を言いながら振っていた手が左腕だったことに気づいた。
本当に、もう何でもないということだったのだろう。


「男前だなぁ・・・」


ついつい感心の呟きがポロリと漏れる。日々男らしさを研究するような男たちよりも極自然に男前である。
否、女性だから女前?

妙に楽しい気分になって、どうでもいいことを考えながら沖田は声に出してクスクスと笑いつつ道場を眺め、空を見上げる。


鱗雲が遠くに見える、よく晴れた空だった。





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