理由



冷たい風が、開け放した障子の向こうから入ってくる。先の即席飲み比べ大会の終了と共に、賑々しいばかりであった宴も静まって、水を打ったように落ち着いた酒の席となっていた。

濃厚な酒気は晩秋の冷気に浚われ、室内から障子の向こうに丁度月が見えることで、月見酒でも飲んでいる気分になる。

祭りの後、ならぬ宴の後の静けさが場を取り巻いており、穏やかというよりもどこか騒音を許さぬ厳粛さが空気を濃密にしているようだ。

潰し役兼傍観者に徹していた永倉は、休憩にと転がってそのまま狸寝入りを決め込んでいたが、背を向けていてもその沈黙に息苦しさを感じていた。
背中の向こうから感じる凍った気配が誰のものかなんて、怖くて振り向こうとも思えない。
半ば、判っていたとも言える。


「・・・得体の知れねぇ・・・」


ぼそり、と喉を鳴らし、如何にも苦々しそうな土方の呟きに、予測を確信に変えて、永倉はそれ以上自分の好奇心が疼きださない内にと眠りに入った。







彼女が生み出した沈黙は、どこか静かな怒りによる緊張感と酷似していた。


「・・・おい」


肩が凝りそうな空気を破ったのは、これ以上ないくらいに仏頂面になった土方であった。彼としては、障子の縁に座り込んでいる斎早に声をかけたつもりなのだが、相手は全く反応せずに外を向いたまま酒を呑んでいる。


「聞こえねぇのか」


苛立ちを酒気で覆って再度呼びかけると、今度は振り向かないまま


「私は“おい”なんて名じゃないわ」


ときた、当然である。酒の席を共にしているとはいえ、斎早の土方への親しみの度数は最低の位置にあるのだ。赤の他人に突然おいと呼ばれても誰も答えやしないだろう。


「睦木」
「総ちゃんは名前で呼ぶのに、私は呼ばないのね」


ああ言えばこう言う。しかも聞き方を間違えれば嫉妬した女の戯言の様だが、彼女に全くその気がないことは元より明らかである。
大体、口元が揶揄うみたいに吊りあがっているのだから、勘違いなどしようがない。


「そうよね、名前も読めない様じゃぁ呼べる筈ないのよねぇ」


遠慮無く昼間の失態をつつき、くすくすと笑う表情には、昼間の底抜けな明るさと小気味良い意地の悪さが戻ってきていた。小気味良いと思っているのは、傍で聞いている総司ばかりであったが。


「・・・睦木」
「斎早よ、と・き・は・や。なぁに、道場の師範代モドキは人の名前も覚えらんないの?ダメねぇ」


ほら、言ってごらんよ、土方歳三クン。

わざとらしく姓名で呼んで、彼女は盃の中身を全て煽って、タンッと軽い音をさせて畳の上に置いた。

完全におちょくられている。

ふつふつと怒りが湧き上がり、土方は肩を震わせるが、怒鳴ってしまうのはあまりにも情けない。怒ってしまっては図星なのだと表明しているようなものだ。
ただ、呼ぶことに抵抗がある。自分でも違和感を覚えるほどに。ただそれだけだ、怒っては負けなのだと、額に青筋を浮かべながら今更なことを考え必死で堪えていたが隣で笑いを堪える総司の姿に、余計にむかつきが助長されてそろそろ堪忍袋の限界を感じていた。
元より堪忍袋の緒はか細く短くできているのだ。


「・・・睦木」


多少ドスの利いた声で、唸るように名字を呼ぶ。ここまできたら意地の領域である。
梃子でも動かないという土方の態度に、呆れたのかはたまた揶揄うのに飽きたのか、斎早はやっと聞く気になったらしく、


「はいはい、なぁに?」


とまるで小さな子供に対するように苦笑し、軽い調子で訊ねて体ごとこちらを振り返る。


「・・・お前、どうしてこんな所に来た?」


こんな、というとこの場所を大切にしている近藤に悪いかもしれないが、こんな片田舎の貧乏道場で、村のある種の荒くれ者が集まる場所に、好き好んで来たがる女など大概いない。
賄などなんだのは流石に女手に任せているが、門下として女が剣を握るために立ち居ろうなど、まず有り得ないのだ。
そうだ、あり得ないといえば。


「なによ、私の剣の腕では不満?」


甘い声音に、僅かに責めの響きを持たせて小さく笑う。まだここに居ることに反対するつもりかと。
土方にしてみれば、彼女の自負する通りに立ちすぎる剣術も、相当有り得ないものであったが、女であるとはいえ強い剣士は道場に歓迎できる存在だ。
だから、ここでの話はそういう論旨ではない。


「違う、何故ここに来たのかと聞いてる」


彼女の行動について、疑問を上げ連ねたらキリがない。いつの間にか着替えていた枯葉色の上着と濃緑の袴にしても、初めに来ていた着流しにしても偉く上物であったし、時折見せる仕草はかなり洗練されたものであるのに、面構えに甘さは無く凛としていて、下町の男ですら言葉に詰まるほど口が悪い。
でたらめに強い剣術にしても、身の軽さにしても、どこの流派か掴めない上、次の行動も全く読めない。どこの生まれでどこから来たのかはおろか、年齢だって不詳である。
簡単に言うと、完全に不審人物なのだ。なのに、妙にするっと溶け込んでいてそういう面をあまり感じさせない態度の所為か、何故か道場の者たちは気にした様子が無い。実際気にしようと思うほど考えてないだけなのかもしれないが。


「土方さんには言わなきゃダメなの?それとも、あんた自身が聞きたいの?」


前半は綿菓子よりも軽く冷たく、後半はとろけるように甘く胸中の熱さを乗せたように囁く。どちらの答えであっても罠に嵌められるような気がしたが、土方は敢えて自分の真意を取った。


「・・・俺が聞きてぇんだ」


室内に視線を流すと、いつの間にやら起きているのは自分達三人だけになっていた。確か先程まで山南あたりが隅のほうで飲んでいた気がしたのだが、自室に戻ったらしい。


「・・・面白くない話よ。酒の肴にもなりゃしない」
「話せ」


有無を言わせぬ口調に溜息一つ。それは教えようと心を決めるまでの間であった。恐らく、自分が聞きたいという本心(私情)を出さなければ、気づけぬ内に誤魔化されてしまっただろう。土方が彼女を試衛館(身内)に受け入れていると前提して、やっと答えの明かされる問いだったのだ。


「ごめんなさいね、総ちゃん。酒が不味くなっちゃうわ」


そこの繊細さの欠片もない無神経男の所為にしといて?
眉尻を下げた彼女はどこか困った顔をしていて、総司は首を振って、


「勿論ですよ。気にしないで下さい、早さん」


と湯呑みを手で包みながら微笑む。心象の悪さも冷めた茶の苦さも、ばっちり土方の所為にする気のようだ。自分の発言が招いた気まずさとはいえ、どうしても貧乏くじを引いたような気がするのは何故だろうか。

それにしてもこの二人、いつの間に徒名で呼び合うようになったのか。初対面の時から総司は斎早に対して妙に好意的だったし、たった一日の間に確実に親密度を増している。

斎早は確保してあった一升瓶を傾けて盃に手酌で注ぐと、乾杯でもするように軽く掲げて、くいっと一息に飲み干した。

空気が変わる。土方は他愛も無い考え事を放棄し、全神経を斎早に向けた。開け放した障子の外には、傾きかけた月。障子の桟に軽く凭れた彼女は、干したばかりで艶々と光る朱塗りの盃の底を見つめた。


「―――――――――――――――」


紅を差さずとも赤い唇が小さく開き、低めの声が詠うように紡ぎだす。まるで詩の朗読でも聴いているようだ。形式に捉われず、特有の言葉遣いが混じるそれは、紛れも無く彼女の真実なのだと解る。――その様にしか、答えられないのだと。

木々が鳴る。吹き込む風に、覆いをしていなかった灯が大きく揺れて、一時、深い闇が室内に満ちた。丸い月のみが光源となって、視界が殆ど利かなくなった中でも、斎早が射るように此方を見据えているのが解った。
数瞬、闇の中にも紛れえぬ視線とぶつかり、強烈な力で以って絡み合う。


「・・・っ」


隣から、静寂には大き過ぎる息を呑む音が聞こえ、総司も自分と同じものを見ていることが知れた。
朝に見たものと、同じ光景を。


「・・・お前、は・・・」


声が掠れている。そう自認していても、湯呑みを取ってカラカラに乾いた喉を潤そうとは思えなかった。手が、膝頭をきつく握り締めたまま硬直していた。

風で弱まっていた灯は一寸で元の勢いを取り戻し、小さな明かりで闇を室の隅へと退けている。全く何も無かったかのような光の穏やかさと共に、彼女が生んだ息の詰まる緊張感も次第に薄れていったが、十分な時が経っても尚、土方の心身の強張りは解けず、その全身を締め付けていた。


「風を、執るのか?」


執る、とは操るとも書き、手足のように使うことを示す。風はあくまでも自然の成す力なのだと理解しているが、それでも彼女の意に因って吹いているのではないかと思える場面に、彼は今日一日だけで何度も遭っていた。
彼の理性としてはかなり不本意にも、若干の畏怖が混じった問いに、特別な関心もなさそうに彼女は盃に視線を落し、そこに満ちた酒を手中で回してうっそりと微笑む。


「さぁ・・・どうかしらね・・・?」


灯りの届かぬ闇を背負った姿は、どこか底知れず、踏み込むものを一切許さぬ冷たさがあった。


「一つ、教えておいてアゲる―――――――」
「――・・・っ、お前は――」


徐に開かれた唇から零れた言葉は、本来ならば真意を追及せずにはいられぬもの。だがそれよりも、土方は真っ先に出そうになった愚かな問いかけを喉元で呑み込む。
初対面の時からずっと溶け出て凝り、肥大していた疑問であったが、今は決して聞いてはいけないものだった。
この、衝動的に目眩を引き寄せる闇の如く正体不明の女を、土方は何一つ知らないのだから。

胃袋の奥に冷たい塊を残して夜は更けていく。茶ばかり飲むのを止めて漸く口をつけた酒は、上物のはずなのに酷く苦かった。










「早さん、注ぎますよ」
「・・・・・・総ちゃん」


口から湯気を立てている淹れ立てのお茶が入った急須と、新しい酒瓶――『八咫烏』を持って、総司は相変わらず元の位置から動かずに飲み続けている斎早の傍に座った。
いつの間にか手元の『幻』は残り少なくなっていて、気づかぬ内に総司が席を立って取りに行ってくれたらしかった。

土方はと言うと、数口飲んだ酒が余程苦かったのか、それとも少量の酒気で酔ってしまったのか、自室に引き上げていて広間にはいない。
あれ程賑やかだった宴席も、今広間で起きているのは、彼ら二人だけになっていた。


「聞いてしまって、良かったですか?」


湯気を立てる茶を眺めながら、総司は徐に一升瓶を引っ掴んで片手で呷っている女に尋ねる。昼間、彼女の肩の治療をしていた時、総司は確かに“今抱いている疑問の答えは求めない”と口上したのだ。


「・・・いいのよ、総ちゃんが気に病むことはないの。全部あの無神経単細胞石頭の所為にしておいたらいいわ」


信念と好奇心の狭間に立って、自らの約定を越えてしまった罪悪感を、斎早は穏やかに宥めた。たかが他人の秘密を知った位で、総司が負い目を感じる必要は無い。

ゆったりと微笑みながら、斎早は『幻』の瓶を置いて、盃に『八咫烏』を受けた。
室中から聞こえてくる寝息が、高いびきから深い呼吸に変わっている。そういえば、皆稽古に仕事にと相当疲れているのだ。疲れも放り出して気を高ぶらせ、そこに酒を入れてしまっては、深く寝入ってしまうのは道理である。

カツン、形の良い爪が盃の縁を弾いて軽い音を立てる。彼女は音に反応した総司に、口元にも瞳にも笑みを湛えて視線を流した。


「・・・じゃぁね、総ちゃん。さっきのは全部内緒にしてね、――必要な時まで」
「・・・はい。―――ありがとうございます」


総司は彼女の気遣いに、滲むように微笑んだ。彼女が残り少ない盃の酒を干すのを待って、新しく注ぎ、漸く自分の湯呑みに口をつける。

秘密を知ったことに自分が罪悪感を抱くのならば、彼女の重みをほんの少し受けてくれと言っているのだ。しかも、いつでもその荷物を落していいのだと保障まで付けて、斎早は総司にお願いの形で彼女の内側への介入を許した。
今日会ったばかりの、名前以外何も知らないような自分に。

熱く湯気の立つお茶が臓腑に沁みて、酒を飲まずとも体が熱く、酔った気分になれた。
天鵞絨の闇にはぽっかりと満月が浮かび、木の影が葉擦れの音を乗せて揺れており、虫の声が耳に涼やかに聞こえてくる。
夜気は冷たく、皮膚の表面から熱を着実に奪っていくが、秋の夜はここまで美しいのだと魅せる景色を障子で隠すのが惜しくて、彼らはそのまま長い時間、外を眺めながら快い沈黙を味わっていた。






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