身を刺し貫く痛みの次に、体中を満たしたのは
途方もない安堵だった。
じわりじわりと肉体を貫通する異物を伝って溢れ出ていく血液。失血による急激な寒さに襲われたが、目前にした終わりの気配が、確かな安らぎを齎したのだ。
人生で一番の幸福がこんな時とは、なんと皮肉なことだろうか。
最愛の妹のこと、共犯者のこと・・・自分に忠誠を誓ってくれた騎士たちのこと・・・
わずかばかりの懸念はあったが、全てをやりきったという満足感がそれらを遥かに凌駕していた。
遠く澄んだ青空に吸い込まれるような錯覚。
表裏一体の愛憎を世界中に振りまいて、過去の痛みは全てこの身に収めよう。
さあ、世界は 壊れたか
世界は――生まれたか
深夜。
街や政庁の明かりが消え、戦時下であったかつてならば四六時中誰かしら仕事に励んでいた研究所でさえ、戦後調整の段階に入って造るものが兵器から工場機械や医療機器に変化して、“それなり” の忙しさを保ちその明かりを消した頃。
一人忘れ物を取りに来たセシル・クルーミーは、主任室の明かりに目を留めて思わず顔を曇らせた。
「まだ仕事を・・・」
何事にも緊急性を要した戦時下すら仕事をサボりがちであった彼女の上司は、戦後に入ってからは休む間も惜しいとばかりにこの一ヵ月半の間、寝食を削って自分が生み出した兵器たちの別途改良に励んでいるのだ。
ここ数日は彼が寮に帰っているところはおろか、仮眠をとっている姿すら見ていない。
そろそろ力ずくでも眠らせなければ本気で倒れるどころの話ではなくなってしまう。
セシルは上司を“力ずくで”眠らせようとしている彼のいるであろう仕事場へと足を踏み出したが、
「あれぇ〜?セシルくん、君帰ったんじゃなかったぁ〜?」
その途端、耳に馴染んだ声が碌に電気の点いていない前方から聞こえた。会いに行こうとしていた本人が歩いてきているらしい妙にリズミカルな足音が響き、薄暗い非常灯が届く辺りになってぼんやりと男のシルエットが浮かんでくる。
闇に溶けぬ白がふらふらと浮かぶ様に、びくりと自分の肩が強張るのがわかる。
別に近づく姿がホラーじみていて怖いとか言う意味ではない。セシルは闇に慣れた目に
浮かぶ白に酷い違和感を感じたのだ。
ロイド・アスプルンドという男は、そのイメージカラーを聞かれればまず九割方が“白”と答えられるような男だった。
青みが掛かった銀の髪に、アイスブルーの瞳。ブリタニア人特有の白い肌は研究生活で日にあたらない所為か青白く見えるほどで、戦時下においては上着に制服代わりの白衣を着ていたものだからその印象に一層拍車が掛かっていた。
しかし、
「ちょっと・・・忘れ物をしてしまって」
「ああ、そうなの?早く帰りなよぉ〜もう遅いんだしねぇ」
「ロイドさんは・・・」
「うん?ボクはもういくよぉ」
「・・・・・・・・・ロイドさんが白衣を着てるの、久々に見ました」
夜の薄暗い研究所で、何かに対する達成感とも違う晴れやかな笑顔に再び違和感を感じながら、白衣への疑問を晴らそうと問いかけた。
終戦してこの一ヵ月半、彼は特徴の一部であった白衣を脱いで、ずっと黒の上下を纏って生活していたのだ。
黒といえば、世界を解放に導き次世代を率いる立役者として挙げられる黒の騎士団の団服やゼロの衣装を思い出させるが、彼のそれはそんな万民的な象徴としてではなく、ただ純粋に喪に服するために纏った色だった。
それが、あの日から丁度一ヶ月半が経ち、世界情勢も安定し出した頃になって、彼は久々にかつて彼に定着していた白を着て姿を現したのだ。
「なんとか間に合ったからねぇ、もう白を着てもいいんだよぉ」
まるで答えになっていない返答。
この男は真実を・・・内心を決して明かすつもりはないのだと気づき、セシルはふと胸に湧いた不安が確かな形を持っていくのを感じた。
そして、終戦後数日が経った頃に、この上司と交わした会話を思い出す。
『不思議だねぇ』
しみじみと呟かれた言葉。
あの時は丁度、フロートシステムの簡略化に成功して、車椅子などへの利用転換を進めていたのだ。
「これでナナリー陛下の不自由も緩和されますね」
と一息吐いたセシルがどこか上の空のロイドに話しかけ、返ってきたのが先の言葉だった。
『不思議って、何がです?』
『この世界がやけに平穏なことが、さぁ』
『そりゃぁ・・・彼の君が命懸けでお創りになった世界ですもの』
『・・・・・・あの方は優しすぎたんだよねぇ・・・本当に、残酷なくらい』
浮かべられたのは、彼が見せるには珍しい自嘲気味の笑み。真っ白な、美しく優しい世界の中で、自分こそがそれを汚す一粒の点であろうとしているような。
それが彼の痛みであるのだと呼ぶには、この男は余りにも厭世的で、その笑みは余りにも情に酷薄だった。
「ずぅっとさぁ〜不思議だったんだぁ」
不意に、丁度思い出していたものと同じ台詞を繰り返した上司に、思わずセシルは過剰に肩を揺らした。
「なにが、不思議だったんです?」
かつてと同様の問いを繰り返しながら、言葉遊びのようだと思う一方で、「不思議だった」と過去形で言う男に不穏さを感じた。
「ボクがこうして生きてることが、さ」
「ロイドさん・・・?」
「あの方がいないのに、ボクが生き続けてることが――至上の命令だったとしても、それに従っちゃったことが・・・騎士でありながら、どこまでも主と共に往けず何のための“騎士”なんだろうねぇ」
コツ、コツといつものふらふらした掴みどころのないものではなく、軍人の・・・騎士の鑑と言えそうな均質で安定した確かさを以って足音を響かせ、ロイドはこちらに近づいてくる。
「ロイドさん・・・まさか・・・」
そうだ、シュナイゼル皇子どころか先々代皇帝にすら礼を払わなかった彼は、唯一彼の皇帝にだけは臣下の礼を取ったのだ。
彼が全ての舞台を整えるために決戦に赴いた、至上の姿をまともに見る最後の場となったあの時に。
「あの方がいないのに、世界は知らない振りで時間を進めていく。そんな場所に生きてる苦痛を理解しろとは言わないけどさぁ、も〜ぅ限界なんだよねぇ」
口調だけはいつも通りなのに、彼が纏う空気が諌めるための言葉を噤ませた。たった一人を追い求める男がこれから取ろうとしている行動を正確に理解しているというのに、引き止めるための手を伸ばすことができなかった。
そして、告げられる最後通牒。
「ばいば〜い、セシルくん。やることやって義務も果たしたしねぇ、ボクはもうサヨナラさぁ」
心底清々したと言わんばかりの口ぶりに、なぜか突然悔しさが込み上げて、セシルは一歩彼に向かって足を踏み出す。
「世の中にはまだ、あなたの頭脳が必要です!」
だからまだ、
「でも、ボクにはもうこの世に用はないからねぇ」
彼女は抜け駆けして先に彼の処に逝っちゃったし。
セシルの希望は憎たらしいほど飄々とした彼の言葉に遮られ、遂に二人の距離をあと一歩の所まで詰めた彼は、場違いなくらい溌剌とした笑顔で彼女の肩を叩いた。
こと男が言う“彼女”の見当はつかないが、間近で見た本気の眼差しがもう決して止められないのだと突きつけてくる。
「我が君は優しくて強くて・・・寂しがり屋な方だからねぇ、早くボクも傍に逝きたいのさぁ」
ひょいっと肩から離れた手をふらふらと振り、薄暗い中でも鮮やかに浮かぶ白衣を翻して、彼はセシルの視界から消えた。別人めいた足音を一定のリズムで響かせ、遠ざかっていく。
静謐にさえ感じる気配の希薄さがやがて途切れ、足音の反響すら聞こえなくなり、ゆっくりと足元から蛞蝓が這うような冷たさが這い登ってくる。
それはじわりじわりとセシルからその場に立つ力を奪い、遂には暗い廊下に跪かせた。
嗚呼、息苦しさに負けて弱々しく呻く。
――体はこんなにも寒いのに、顔を覆う手に触れた、苦痛を伴う熱さにも気づかなかった。・・・気づけなかった。
皇帝ナナリーによって再びかつての美しさを取り戻しつつあるアリエスの離宮。
密かに立てられた皇妃マリアンヌと先々代皇帝シャルルの墓。
中華連邦・・・今となっては合衆国中華から移譲されたままの蓬莱島を上空から眺め、再建が進められているアッシュフォード学園と辿り・・・
式根島を経て、皇帝ルルーシュが起った場所だという神根島に来た。
深夜に始めた彼の軌跡を辿る道行は、文明の利器を駆使すれば皮肉にも四半日で終着まで来てしまったが、彼の在った過去を追っても求めた本人がいなければ何の意味もなかった。
――元々、死に場所を探していたのだから、そういう意味では充実していたのかもしれないが。
彼が逝ったあの日と同じ、晴天の青空を見上げる。主の死を模すならば、いっそ街道のど真ん中で逝っても良かったのだが、無闇に死体を見せびらかすこともないだろうし、そんなことをしても彼は喜ばないだろう。
彼の魂に少しでも近い場所で、と散々迷ってこの場所を選んだのだ。
「晴れて良かったですねぇ、ルルーシュさま」
あなたの二度目の道行きに。
ボクがあなたを追う始まりの日に。
島を一周し晴天の青を惜しみながら、見つけてあった洞窟の中へと踏み込む。視界が一気に暗くなり、瞳孔の拡張に瞬きしてひんやりとした石造りの洞穴を進む。
明らかに天然ものではない精緻な回廊。遠鳴りする波と風の音。脆く崩れかけた洞の箇所箇所から落ちる外の光で視界を確かなものにし、辿り着いたそこは。
「ここに・・・いらっしゃいますかぁ?」
自然に朽ちたのではなく、破壊された鳥の紋。
石の扉を開錠するためらしい機器は意味を成さなくなり、硬く閉ざされている。
幾筋も落ちる柔らかな日の光が、ロイドの旅路を祝福しているようにも見えて。
彼には怒られるかもしれない、けれど。
「ルルーシュさまぁ・・・今、参りますからねぇ」
怒られてもいい、追いつけたときには、傍にいさせてもらえれば。
恍惚とロイドは愛しい主の名を呼んで、静かに短身のレイピアを掲げ目を閉ざし――
ずぶり、体の中、丁度心臓の位置に異物が沈みこむ音を、聞いた。
嗚呼、なんて
なんて幸福な解放感
あなたがいない違和感
そんな世界に自分が未だ生きているという不思議
悪寒すら感じる息苦しさから解き放たれて
「―――――・・・」
ロイドは口元に笑みを刷き、声にならない呼び声を紡いで、冷ややかな石畳にその身を落としたのだった。
ロイド・アスプルンド脱走の報は大事になりはしなかったが、密やかにブリタニアの上層・・・仮面の男と現皇帝の元に届いた。
「ロイドさ・・・アスプルンド伯が?」
「ええ・・・本日未明、研究所から出る所に行き会いました。・・・止められませんでした」
かつての呼び名を直し、声を硬くさせる姿に寂しさを感じながら頷くと、何かを考え込んでいた様子のナナリーが悲しげに目を伏せて静かに首を振った。
「そっとしておきましょう」
「ナナリー陛下?」
「ロイドさんというのは、最後までお兄様に仕えて下さった方なのでしょう?それに・・・お兄様が最初に騎士として認めた方ですから」
「・・・先帝の騎士はナイト・オブ・ゼロ一人だけのはずでは・・・」
「公式の誓いではありませんでしたから。それでも、確かにお兄様に騎士の誓いを立ててくださったんです。――昔の話ですけど。今も、誓いを覚えてらしたなら――」
その方が去ったのも解る気がする、と彼女は幼い体に纏った漆黒の衣装を手の甲で撫でた。
悲しみに沈むセシルと無表情な仮面の向こうで動揺が伺える“ゼロ”に小さく微笑む。
「今日は・・・四十九日ですから」
彼の死を正しく見据えた数少ない人々が集う日。
悪虐と呼ばれた彼を悼み、思える回忌の日。
彼の魂が、次の世へと旅立つといわれる日。
ナナリーは暗く沈む二人をその姿と気配で察しながら、明るくなった視界に映らない存在に嘆く思いの隅で、ぽとりとインクの如く滲んだその感情に目を閉ざして堪えた。
こんなに早くあの人の下へいけるなんて―――なんて、狡い。
知っている。これは嫉妬だ。最愛の兄が全てを懸けてくれた優しい世界で生きる、羨むものなどなにもないはずの自分を汚す醜い感情。
この“優しい世界”に生きることを固定された自分が向ける、自由な離別を許された男への・・・
「お兄様・・・」
胸に収めきれない思いを愛しい名に託して、枯らした涙で心の奥に嘆きの泉を作り、ナナリーは静かに目を開いた。
「さぁ、今日は大切な日です。皆様をお迎えする準備をしましょう」
せめて、悼むこの心だけでも彼に届けばいいのに。
切ない思いを隠して見上げた空は、痛いほどの青を少女の目に焼きつけ広がっていた。
そこは、自然のままに素朴な草木があり、最小限の手で整えられた優しい場所。
郷愁を誘う光の思い出。
彼らの居場所であった、アリエスの離宮。
冷えた空気を緩和するように明るい日差しが降り注ぎ、柔らかな風が楓の枝葉を揺らしている。
ピンクの姫とミルクブラウンの姫が元気に走り回っている傍らで、体力のない彼がお茶の準備するのをいつものように手伝っていた。
『ねぇ、ルルーシュ殿下ぁ。殿下は騎士を持つとしたらどんな騎士がいいですぅ?』
『どうしたんだ、突然』
『ちょっと、今後の参考までに聞いておきたかったんですよぉ』
『シュナイゼル兄上の騎士になるのなら、兄上にお聞きすれば・・・』
ガチッ。
彼の発言にショックを受けすぎて、不覚にも手に取っていたポットを落としそうになった。
『あんな腹黒の騎士なんて頼まれても命令されても拒否しますよぉ!』
大げさなくらいにぶんぶんと頭を振って、落としかけたポットを今度は慎重にテーブルに置き、茶菓子の入った籠を置いた彼の小さな手を取った。
柔らかく、暖かい手だった。自分の存在が彼の中で許されているのだと知れて、それだけで歓喜できた。
それでも、予想以上に速い速度で成長する彼に、焦る心が、求める体が、自然と彼の前に跪かせた。・・・誓わずには、いられなかった。
『・・・ロイド・・・?』
『教えてください、ルルーシュさま。ボクがあなたの理想になって見せます。あなたの守りたいものまで守れる盾となり、隣で戦う剣となり、常に傍にいる唯一に・・・』
『僕は・・・まだ騎士を持てる身じゃ・・・』
『騎士の誓いは実質本人たちの意思一つで決まるものですからぁ、外聞や形式なんて関係ありませんよぉ〜』
彼の騎士になれるなら、伯爵としての身分も軍人としての地位も何もかも捨ててしまって構わなかった。逆に、彼が必要とするならば、利用できるもの全てを引っさげて彼の下へ行っても良かったのだ。
『僕の・・・?』
『そうです、・・・あなたの、騎士に』
小さく震える手の甲を撫で、一身に彼を見上げた。今すぐにでもこの手にくちづけてしまいたいのを必死で堪えていた。
『・・・僕の、傍にいてくれますか?』
『もちろんですよぉ!だめって言われても貼りついていきますからねぇ!』
そう断言して、向けられた笑みはとても柔らかなもので。
彼が妹たちに向けるものとも違う、ロイドが焦がれた信頼を宿した笑みだった。
『ロイド・アスプルンド・・・貴殿を、我ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの騎士であることを、認める』
額に触れた指先。震えながらも略式の印を切られ、彼の手に唇を落とすことを許された瞬間。
ロイドが、ルルーシュが、各々の唯一を手に入れた瞬間だった。
穏やかな昼下がり、立会人のいない誓い
柔らかな風が吹いていた
小鳥が秘めやかに囀っていた
目の前にはお互いがいて、手を取り合うことを赦された
認め、契ることができた
それだけで十分だった
美しい思い出。光は彼と共に
彼さえいれば、そこは光に満ちていたのだ。
恋より深く 服従より甘く
不変の思いを
あなたに
それが、騎士としての私の誓い
管理人コメント
最終話観て、一回やっときたかった後追いネタ。ロイドさんは密かにルル様の騎士なのです。
どうもロイドさんをぶっ壊しちゃうのが大好きなようです。しかしナナリーがほの黒い・・・
ロイドさんは正気のときは”僕”ちょっとイっちゃってるときは”ボク”一人称でお願いします。