薄暗い青のライトが照らす牢獄の中、あの時自分は絶望を知った。





















政庁の替わりに押収されたアッシュフォード学園の地下室の一角、静まり返った牢獄の中。

ライクシャータやセシル、ニーナと他愛もない会話を交わしている間、ロイドはじわりじわりと自分の内臓が冷え切っていく感覚に耐えていた。

自分がここにいる理由を何度も自問しながら。



「そういえばプリン伯爵、あんたがブリタニアに残った“理由”はあの後どうなったのよ」

「・・・一度は、繋ぎ直したんだけどねぇ・・・」

「はぁ?」



何気ない質問に自分でも苦しいほどの切なさを込めて返すと、意味が解らないとでも言いたげな怪訝そうにラクシャータが声を返した。


それに小さく苦笑し、ついと左手の小指を見据える。
今はまだ、繋がっている糸。


――本当は、こんな場所に押し込められている場合ではないというのに。


いくら掲げて見せても他者には見えず、しかも恐らく背中合わせに座り込んでいる彼女にはどうしたって見えないものだろうが、それでも確かにある細い糸。

いっそ儚くも見えるそれを確認し、ロイドはだらりと伸ばしていた両膝を折って左手を抱えるように身を縮こまらせる。

もう物理的には繋いだ先に手を届かせることのできない自分は、その時が来るのを――もしくは過ぎるのを――じっと待つしか術はなかった。



「ねぇ、ラクシャータ?唯一とは、どうやって知れると思う?」

「なぁに言ってんのよ、プリンが」

「ロイドさん・・・?」



喪失を防ぐために紡いだ糸だった。常に近くにいるために繋いだ糸だった。
なのに、こんな・・・こんな、



「糸が切れるだけなら、また繋ぎなおせばいい。
でも・・・繋ぐ糸がなくなったら?」



喪失の瞬間をこんな所で安穏と知らされるために繋いだ糸では決してなかったのに。


彼が課したミッション。全てを見通し、それでもその道を選択した彼の、文字通り最後の大舞台。

叶うことなら――彼の命令に逆らってでも――破壊しつくしてしまいたかったもの(エンディング)



「ロイドさん・・・どうしたんです!?」

「ロイド先生!?」



ミッション(彼)の真実を知る二人の焦ったような声が、密度が低く反射率の高いリノリウムの壁に響き渡る。だがそれもロイドの耳を素通りするだけで中に届くことはなかった。



「プリン伯爵・・・まさか、あんたが言ってた“理由”って・・・」



何かを悟ったようなラクシャータの声音。それは大よそ間違いではないが、彼女の憶測を肯定してやるほどの気力も既にない。


遠く、遠くに意識を飛ばす。

気象情報によると、確か今日は晴天のはずだ。彼はしっとりと草木を潤す雨も好きだったが、妹君たちと外でのびのびと過ごせる澄んだ晴れの日も好んでいた。


何度も何度も練習して、自分にも一つくれたシロツメグサの首飾り。

華やかな薔薇よりも優しい色合いの多いコスモスを好んだ彼が、バレンタインにくれた香りのいいチョコレートコスモス。

美味しいと喜び、珍しく“もう一つ”を強請ってくれた手作りのプリン。


一つ一つ、甘美な過去を噛み締めるように思い返していたロイドは、不意にすうと白い天井へ視線を流した。

そして強く強く小指を握り締め・・・ついに、



ぷつり、糸が切れた音が、体の奥で微かに響いた。



それは確かな絆の証だった。

誰よりも近くに、と自分が求めた唯一と繋いだ糸。


それが、とうとう切れて・・・その先を失ってしまったのだ。


果てのない虚無が、体中を埋め尽くす。


自分が“人”であるための唯一の喪失を知った瞬間だった。



「あ、あ・・・・・・・」



ぱたり、きつく握り締めていた手が力なく落ちた。指先の体温は冷たい床に熱を吸い取られる余地もないほど冷え切っている。

気づかず、全ての気力を削がれたような声が零れていた。

過去を負っていたアイスブルーの瞳は、今は何を映すでもなく虚ろに宙を見上げる。



「―――・・・」



彼は、安らかに逝けただろうか。

無知な大衆が上げる愚劣な歓声よりも高らかな天の呼び声を聞いて、かつて彼自身が望んだとおりの晴天の下で逝けただろうか。























たった一人のためにあった研究者(騎士)が隣の独房で嘆く気配に、最後のミッションの真意を知らされていた三人は訝しむラクシャータを他所にただ瞑目した。


悲痛なうめき声は静寂を奏でる牢の中を荒らすことなく響き、内部を照らす青いライトを更に薄ら寒いものに感じさせる。


終焉とそして始まりの音。世界の悪を演じて見せた彼を包む場違いな歓声が、こんな場所まで届くはずもないのに遠くで聞こえるような気さえする。

解放と歓喜に沸き立つ表の気配に対し、この場の静謐は・・・この一時だけは決して乱してはならない痛々しい神聖さを醸していた。


晴天の空の下、天地が鳴らす祝音(ファンファーレ)を聞きながら、彼が安らかに逝けたことを・・・旅立てたことを、見届けることすらできないこの場所で彼女らはただ祈ったのだった。























「――――」



喉が渇いて張り付き、彼を呼ぶ声がうまく紡げない。

この声がもう彼に届かなくても・・・この切なる思いだけでも届けば。


あの、ルルーシュ()による皇帝宣言の直後、スザクについてブリタニアに舞い戻った――自分は彼の傍を得ようと戻ったのだが――自分たちを、彼は何の保障(ギアス)も使わず近くに置いてくれた。彼の命を狙ったニーナですら傍に置き、仕えることを許してくれた。

当然だ、自分が傍にいて、彼への裏切りを周囲の人間に許すはずもなかった。


――許すはずがなかったのだ。


何故、言われるままにあんな最終局面の瀬戸際まで彼と違った陣営でいたのだろうか。いれたのだろうか。

もっと早く、彼の言葉も聞かず馳せ参じていれば、きっと彼を一時的な孤独から救い上げることだって出来た。

無垢だった瞳に、あんなにも深い傷を負わせることだってなかっただろう。

・・・こんなにももどかしい永遠の別離を許容することも、なかっただろうに。


息が空回りして声にならず、ひゅうひゅうと彼を呼ぶ声が掠れた異音に潰れた。

それでも彼の名を紡ごうと苦心し、必死に耳を澄ます。




声は聞こえないか。

かつて彼が聞いたという天に召し上げる悪魔の声は。

早く早くと、彼を読んだという忌まわしい讃美歌は。



心は今すぐにでも全てを断ち切って彼の元へ逝きたいと軋んでいるというのに、なぜこの体はしぶとく活動を続けているのだろう。

思いが枯れる兆候すら見せず、溢れ続けるのだろう。




・・・・・・ルルーシュ陛下・・・否、


「ルルーシュ、様・・・」



漸く紡げた彼の名は、あまりにもみっとなく掠れていて。



「ルルーシュさまぁ・・・」



それでも、一度滑り出した舌は絆の在り処を紡ぐことを止めなかった。止められなかった。

彼が彼であるならば、小さな子供でも大罪人でも、ただの学生でもいっそ化け物であっても良かったのだ。

なのに、“傍にありたい”、それだけでいいと捧げた忠誠は、もう当の本人には届かなくなってしまった。



切れた糸の先を辿っても、もうなにも在りはしない。

そして失われたまま、誰かと繋ぎ直されることもないだろう。



愛しています、あいしています!

何度叫んでも思いは尽きず、



「あいしてっ・・・!」



声に出せば喉が詰まって滑稽なほど震えて聞こえた思慕は、喪失の傷跡から溢れて零れ――このまま、好みが朽ち果てても構わないとも思えた。
いっそ、そのほうが本望だった。



















遠くから煩わしい大衆の歓声がこんなところまで届く。
癇に障る浮かれた雑音が、地下に向かって地響きすら起しながら近づいてきているのを聞いて、ロイドはこのささやかな追悼の時の終わりを悟った。


さあ、嘆きの時間は終わりだ。こうして彼の死に沈み立ち止まることを彼は決して望みはしないだろう。


ロイドは隣の牢からセシルやニーナが鼻を啜る音を捉え、自らも涙に濡れた頬を些か乱暴に拭った。












そうだ、あなたが生きよと命じるならば、ついては来るなと仰るならば、私はこの身を生かすことを約束しよう。





例え、

この魂が 貴方の影を求めても
心が 時と共に廃れても



生きよと
    貴方が望むのならば、







天命に導かれるその時まで 生き抜くことを約束しよう

ああ、なんと残酷な命なのか


だから、



「そっちに逝ったら・・・笑って迎えてくださいねぇ、ルルーシュ様・・・」


そしてまた、私と糸を繋いでください。











小指で繋がれたその糸の名は・・・