吉野宮(宮瀧遺跡)
 
 吉野川の上流にある宮瀧は,縄文時代後期(約三千年前)から生活していたことが知られている。
 この宮瀧という地名は,「万葉集」の中に“滝の宮処”などという言葉が見られる。はっきりと文献に登場するのは,平安時代前期,昌泰元年(八九八)のことで,宇多上皇が宮瀧に行幸された時の記録が「日本紀略」,「帝王編年記」,「扶桑略記」などに記されている。

 宮瀧に眠る遺跡は,大きく四つの時期に分けることができる。

  第一期:七世紀中頃
  第二期:七世紀後半から八世紀初頭
  第三期:八世紀前半から中頃
  第四期:九世紀末から十世紀初頭

 ここでは,奈良時代に相当する第二期から第三期を中心に説明する。
 宮瀧遺跡中でも,第三期の遺構群が最も規模が大きく,120m〜150mの方形の区画の中に収まると思われる。
 蓮華文の軒丸瓦と唐草文の軒平瓦の組み合わせは,平城京から出土する瓦によく似ている。
 瓦は,大型と小型の二つの型があり,文様も二種類に限られており,その形式からみて二つ同時に使用していたと考えらることから,第三期の建物群が機能していた時期は,さほど長い間では無かったことがうかがえる。
 飛鳥時代から奈良時代前半にかけて,宮瀧の台地のほぼ西半分を平坦にするための造成工事が行われているが,最も大規模な工事は,第三期に行われている。

宮瀧遺跡の碑  斉明二年(六五六)に,吉野に宮を造ることが「日本書紀」に記されており,宮瀧に遺跡が出土するのもこの時期にあたる。
 第一期の遺跡は,宮瀧集落の中ほどよりやや東に寄っており,遺跡の中心地からは吉野の水神を象徴する水分山が見えることから,水神を祀っていたのではないかと思われる。

 宮瀧の歴史で最も興味深いのが,大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で挙兵するまでの八ヶ月余りをこの吉野宮で過ごしたこであろう。
 天武天皇は即位後,草壁皇子大津皇子高市皇子,河嶋皇子,芝基皇子を伴って一度だけ吉野宮に行幸している。皇子達に「継承の争いを起こすことのないように」と盟約させた「吉野の会盟」が有名である。
 持統天皇は,在位中の九年間(六八九〜六九七)に三十一回,前後の二十二年間に三回,合計三十四回も吉野宮に行幸している。この数の多さについては諸説あるが,明確な答えは出ていない。
 行幸回数は多いときで年に五回にものぼるが,特定の月に偏るということは無かった。滞在日数で多いのが八日間で七回。最も長いのが二十日間で一回。最も短いのが三日間で二回。これらを総合して考えても単なる避暑,遊覧ではないと思われる。
 「日本書紀」には『吉野宮』と記載されていた名称が,「続日本紀」には『吉野離宮』と変化している。この変化は,編者の意向もあろうが,宮自体の機能や性格が変化していったとも考えられる。

吉野宮復元模型(吉野歴史資料館蔵)  持統朝の吉野宮は,第一期を踏襲して拡張したとみられる第二期の遺構群と考えられるが,この時期の建物はよく分かっていない。ただいえることは,一定の範囲の中に建物群が整然と並ぶという状態ではなかっただろうということであり,第三期との間には位置,方位とも大きな相違点がある。
 「続日本紀」の中で注目されるのは,天平四年(七三二)に「京および畿内に二監」を設置した記事がみえることで,天平五年には「芳野監」の名も現れる。
 「監」とは,国に準ずる行政単位で,面積,財力とも小規模ながら芳野と和泉に限って天平十二年(七四○)までの八年間存在した機構であり,どちらにも離宮があったことから,それらを管理する直轄地のようなものであったと思われる。短期間のうちに機能を終えた第三期の遺構群と,この文献の内容はみごとに一致する。
 第三期の遺構の中心が,それまでと比べて西に移動して水分山を望めない位置となり,正面には象の中山を望む位置になる。これは,斉明,持統朝の吉野宮が祭祀的な性格から聖武天皇が各地に造営した離宮と同じ性格へと変化したことを示していると思われる。

 現在の吉野川。(平成15年5月撮影)
 ゆったりと流れるその川は,今も往時の姿を忍ばせる。吉野宮を思わせる証は碑のみだが,山間の中に静かにたたずむ町並みは,斉明天皇が,持統天皇が愛した吉野宮を彷彿とさせる。
 草壁皇子が,忍壁皇子が川遊びをしたであろう吉野川は,今も川遊びのメッカであった。

参考文献憧憬古代史の吉野−記紀・万葉・懐風藻の風土−
監修:桐井雅行 発行:奈良県吉野郡経済観光課 平成四年三月発行

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