蘇我入鹿暗殺事件
〜日本書紀に大化改新前夜のクーデターを追う〜
読み下し文は岩波書店 日本古典文学大系 『日本書紀下』から


 皇極天皇元年(642年)の春正月の条
元年春正月丁巳朔辛未。皇后即天皇位。以蘇我臣蝦夷為大臣如故。大臣児入鹿。更名鞍作。自執国政。威勝於父。由是盗賊恐懾。路不拾遣。

元年(はじめのとし)の春正月(むつき)丁巳(ひのとのみ)の朔(ついたち)辛未(かのとのひつじのひ)(十五日)に、皇后(きさき)、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。
蘇我臣蝦夷為(そがのおみえみし)を以(も)て大臣(おほおみ)とすること、故(もと)の如(ごと)し。
大臣の児(こ)入鹿(いるか)、更(また)の名は鞍作(くらつくり)。
自(みづか)ら国(くに)の政(まつりごと)を執(と)りて、威(いきほい)父(かぞ)より勝(まさ)れり。
是(これ)に由(よ)りて、盗賊(ぬすびと)恐懾(おぢひし)げて、路(みち)に遺(おちもの)拾(と)らず。

恐ひしげて…恐れくじけて。おじけること。


■入鹿殺害の現場となった飛鳥板蓋宮伝承地
 発掘調査により掘建柱(ほったてばしら)や石敷き、大井戸跡等が発見され、その後の調査により3時期の宮殿遺構が重なる複合遺跡であることが確認されました。
上層の第V期は天武天皇の飛鳥浄御原宮と天智天皇の後飛鳥岡本宮、中層の第U期が皇極天皇の飛鳥板蓋宮、そして下層の第T期が舒明天皇の飛鳥岡本宮である可能性が強くなってきました。


■アクセス
 飛鳥板蓋宮伝承地へは近鉄橿原神宮駅から奈良交通バスで約15分、
バス停 「 岡天理教 」 下車、徒歩約5分です。



■忠実に復元された大井戸跡
       飛鳥板蓋宮伝承地(奈良県高市郡明日香村大字岡)


■蘇我氏の横暴
 〇 天子だけが行なうことが出来る舞である「八(やつ)らの舞い」を蝦夷がおこなう。
    「八らの舞い」は64人の方形の群舞で、これを行うのは天子の特権とされている。
 〇 かってに多くの民を使い、自分達(蝦夷と入鹿)の墓を造って大陵(おほみささぎ)・小陵(こみささぎ)と言わせた。

皇極天皇元年是歳(642年)の条 ■は私のパソコンでは表示できない漢字。
是歳。蘇我大臣蝦夷。立己祖廟於葛城高宮。而為八■之舞。遂作歌曰。
野麻騰能。飫斯能毘稜栖鳴。倭施羅務騰。阿庸比施豆矩梨。挙始豆矩羅符母。
又尽発挙国之民、并百八十部曲。預造双墓於今来。一曰大陵。為大臣墓。一曰小陵。為入鹿臣墓。望死之後、勿使労人。更悉聚上宮乳部之民。乳部…此云美父。役使塋兆所。於是上宮大娘姫王発憤而歎曰。蘇我臣専擅国政。多行無礼。天無二日。国無二王。何由任意悉役封民。自茲結恨。遂取倶亡。是年也、太歳壬寅。

是歳(ことし)、蘇我大臣蝦夷(そがのおおみえみし)、己(おの)が祖廟(おやのまつりや)を葛城(かづらき)の高宮(たかみや)に立てて、八らの舞(やつらのまひ)をす。
遂(つひ)に歌(うた)を作(つく)りて曰(い)はく、

  大和の 忍の広瀬を 渡らむと 足結手作り 腰作らふも (日本書紀歌謡106)
  やまとの おしのひろせを わたらむと あよひたづくり こしづくらふも

(大意  蘇我氏の本拠である、大和葛城の忍海(おしみ)の曾我川の広瀬を渡ろうと、足の紐を結び、腰帯をしめ、身づくろいすることだ。…蘇我氏が天下を押領しようとするための軍立ちを祖廟に祈る趣という。)

又(また)、尽(ふつく)に国挙(くにこぞ)る民(おほみたから)、併(あはせ)て百八十部曲(ももあまりやそのかきのたみ)を發(おこ)して、預(あらかじ)め並墓(ならびのはか)を今来(いまき)に造る。
一(ひと)つをば大陵(おほみささぎ)と日ふ。大臣の墓とす。一つをば小陵(こみささぎ)と日ふ。入鹿臣(いるかのおみ)の墓とす。
望(ねが)はくは死(みまか)りて後(にち)に、人(ひと)を労(いたは)らしむること勿(まな)。
更(さら)に悉(ことごとく)に上宮(かみつみや)の乳部(みぶ)の民を聚(あつ)めて、墓所(はかどころ)に役使(つか)ふ。
是(ここ)に、上宮大娘姫王(かみつみやのいらつめのみこ)、發憤(むつか)りて嘆きて日はく、
「 蘇我臣(そがのおみ)、専(たくめ)国の政(まつりごと)を擅(ほしきまま)にして、多(さわ)に行無禮(ゐやなきわざ)す。
天に二(ふた)つの日無(な)く、国に二(ふたり)の王(きみ)無し。何に由りてか意(こころ)の任(まま)に悉(ことごとく)に封(よさ)せる民を使(つか)ふ 」 といふ。
茲(これ)より恨(うらみ)を結(むす)びて、遂に倶(とも)に亡(ほろぼ)されぬ。是年(ことし)、太歳壬寅(みづのえとら)。

百八十部曲… 数の多いことを称したもの
並墓… 瓢形墳か。大小2つの円墳が連接し、各円丘に横穴式石室を築き、石棺を合葬する。
今来… 奈良県御所市東南、古瀬、水泥と吉野郡大淀町今木の境。
乳部… 皇子に養育料として授けられた部。
大娘姫… 山背大兄王の妻、舂米女王(つきしねのひめみこ)のことか?


 〇 天皇のごとく紫冠(むらさきのかうぶり)を子入鹿に授けて、大臣の位に疑する。

皇極天皇二年(643年)十月壬子の条
壬子。蘇我大臣蝦夷。縁病不朝。私授紫冠於子入鹿。擬大臣位。復呼其弟、曰物部大臣。大臣之祖母物部弓削大連之妹。故因母財。取威於世。

壬子(みづのえねのひ)(六日)に、蘇我大臣蝦夷(そがのおおみえみし)、病(やまひ)に縁(よ)りて朝(つかへまつ)らず。
私(ひそか)に紫冠(むらさきのかうぶり)を子(こ)入鹿(いるか)に授(さづ)けて、大臣の位に疑(なずら)ふ。
復(また)其の弟(おとと)を呼(よ)びて、物部大臣(もののべのおほおみ)と曰(い)ふ。
大臣の祖母(おば)は、物部弓削大連(もののべのゆげのおほむらじ)の妹(いろど)なり。
故(かれ)母(いろは)が財(ちから)に因(よ)りて、威(いきほひ)世(よ)に取(と)れり。

紫冠… 紫冠は十二階冠位の徳冠であり、天皇から授けられるべきものを、蝦夷は私に子の入鹿に授けたものと、従来は解釈した。しかし、紫冠が徳冠であるという証拠はなく、蘇我氏の者は十二階冠位を授けられていないことをみると、紫冠は十二階冠位以外の冠位で、大臣の身分に伴う冠であるとみるべきであろう。


 〇 皇位継承問題で蘇我入鹿は独り謀って、古人大兄(ふるひとのおほえ)を立てて天皇にしようとした。

皇極天皇二年(643年)十月戊午の条
戊午。蘇我臣入鹿独謀将廃上宮王等。而立古人大兄為天皇。于時。有童謡曰。
伊波能杯爾。古佐屡渠梅野倶。渠梅多爾母。多礙底騰衰■栖。歌麻之之能烏賦。
蘇我臣入鹿深忌上宮王等威名振於天下。独謨僣立。

戊午(つちのえうまのひ)(十二日)に、蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)、独(ひと)り謀(はか)りて、上宮(かみつみや)の王等(みこたち)を廃(す)てて、古人大兄(ふるひとのおほえ)を立(た)てて天皇(すめらみこと)とせむとす。
時(とき)に、童謡(わざうた)有(あ)りて曰はく、

  岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁 (日本書紀歌謡107)
  いはのへに こさるこめやく こめだにも たげてとほらせ かまししのをぢ

(この童謡は次の十一月条の山背王滅亡の前兆として、ここにのせてある。上宮で蘇我入鹿が上宮を焼き、白髪まじりの山羊(カモシカ)に似た山背王が上宮を棄てて深山にかくれることを喩えたと説明している。この歌謡は、本来は、わらべ歌または歌垣の歌で、岩の上で米を焼く若い女たちが、白髪まじりの老人にさそいをかけたからかいの歌であったのだろう。)
蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)、深(ふか)く上宮(かみつみや)の王等(みこたち)の威名(いきほいな)ありて、天下(あめのした)に振(ましま)すことを忌(にく)みて、独(ひと)り僣(ひところ)ひ立(た)たむることを謨(はか)る。


 〇 蘇我入鹿、聖徳太子の子で有力な皇位継承者であった山背大兄王(やましろのおおえのみこ)とその一族を滅ぼす。

皇極天皇二年(643年)十一月丙子朔の条
十一月丙子朔。蘇我臣入鹿遣小徳巨勢徳太臣。大仁土師娑婆連。掩山背大兄王等於斑鳩。或本云。以巨勢徳太臣。倭馬飼首為将軍。於是。奴三成与数十舎人。出而拒戦。土師娑婆連中箭而死。軍衆恐退。軍中之人相謂之曰。一人当千。謂三成歟。山背大兄仍取馬骨投置内寝。遂率其妃并子弟等。得間逃出。隠胆駒山。三輪文屋君。舎人田目連及其女。菟田諸石。伊勢阿部堅経。従焉。巨勢徳太臣等焼斑鳩宮。灰中見骨。誤謂王死。解囲退去。由是山背大兄王等。四五日間、淹留於山。不得喫飲。三輪文屋君進而勧曰。請移向於深草屯倉。従茲乗馬。詣東国。以乳部為本。興師、還戦。其勝必矣。山背大兄王等対曰。如卿所■。其勝必然。但吾情冀。十年不役百姓。以一身之故。豈煩労万民。又於後世。不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戦勝之後。方言丈夫哉。夫損身固国。不亦丈夫者歟。有人遥見上宮王等於山中。還■蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼。速発軍旅。述王所在於高向臣国押曰。速可向山求捉彼王。国押報曰。僕守天皇宮。不敢出外。入鹿即将自徃。于時古人大兄皇子喘息而来問。向何処。入鹿具説所由。古人皇子曰。鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍将等、求於胆駒。竟不能覓。於是山背大兄王等自山還入斑鳩寺。軍将等即以兵囲寺。於是山背大兄王使三輪文屋君謂軍将等曰。吾起兵伐入鹿者。其勝定之。然由一身之故。不欲残害百姓。是以吾之一身賜於入鹿。終与子弟・妃妾一時自経倶死也。于時五色幡蓋。種種伎楽。照灼於空。臨垂於寺。衆人仰観称嘆。遂指示於入鹿。其幡蓋等変為黒雲。由是入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷聞山背大兄王等総被亡於入鹿。而嗔罵曰。噫、入鹿極甚愚痴。専行暴悪。爾之身命。不亦殆乎。

十一月の丙子(ひのえね)の朔(ついたちのひ)に、蘇我臣入鹿、小徳巨勢徳太臣(せうとく こせのとこだのおみ)・大仁土師娑婆連(だいにん はじのさばのむらじ)を遣(や)りて、山背大兄王等(やましろのおほえのみこたち)を斑鳩(いかるが)に掩(おそ)はしむ。
或本(あるふみ)に云(い)はく、巨勢徳太臣・倭馬飼首(やまとのうまかひのおびと)を以(も)て将軍(いくさのきみ)とすといふ。
是(ここ)に、奴(やっこ)三成(みなり)、数十(とをあまり)の舎人(とねり)と、出(い)でて拒(ふせ)き戦(たたか)ふ。
土師娑婆連、箭(や)に中(あた)りて死(し)ぬ。
軍(いくさ)の衆(ひとども)恐(おそ)り退(しりぞ)く。
軍(いくさ)の中(なか)の人(ひと)、相(あひ)謂(かた)りて曰(い)はく、「 一人当千(ひとりひとちなみ)といふは、三成を謂(い)ふか 」 といふ。
山背大兄、仍(よ)りて馬(うま)の骨(ほね)を取(と)りて、内寝(よどの)に投(な)げ置(お)く。
遂(つひに其(そ)の妃(みめ)、并(ならび)に子弟等(みうがらたち)を率(ゐ)て、間(ひとま)を得(え)て逃(に)げ出(い)でて、胆駒山(いこまやま)に隠(かく)れたまふ。
三輪文屋君(みわのふみやのきみ)・舎人田目連(とねり ためのむらじ)及(およ)び其の女(むすめ)・菟田諸石(うだのもろし)・伊勢阿部堅経(いせのあべのかたぶ)、従(みとも)につかへまつる。
巨勢徳太臣等(ら)、斑鳩宮(いかるがのみや)を焼(や)く。灰(はひ)の中(うち)に骨を見(み)でて、誤(あやま)りて王(みこ)死(う)せましたりと謂(おも)ひて、囲(かくみ)を解(と)きて退(しりぞ)き去(さ)る。
是(これ)に由(よ)りて、山背大兄王等(たち)、四五日(よかいつか)の間(あいだ)、山に淹留(とどま)りたまひて、不得喫飲(ものもえまうのぼ)らず。
三輪文屋君、進(すす)みて勧(すす)めまつりて曰(まう)さく、 「 請(こ)ふ、深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移向(ゆ)きて、茲(ここ)より馬に乗(の)りて、東国(あづまのくに)に詣(いた)りて、乳部(みぶ)を以て本(もと)として、師(いくさ)を興(おこ)して還(かへ)りて戦はむ。
其の勝(か)たむこと必(かなら)じ 」 といふ。
山背大兄王等対(こた)へて曰(のたま)はく、 「 卿(いまし)がいふ所の如(ごと)くならば、其の勝たむこと必ず然(しか)らむ。
但(ただ)し吾(わ)が情(こころ)に冀(ねが)はくは、十年(ととせ)百姓(おほみたから)を役(つか)はじ。
一(ひとつ)の身(み)の故(ゆえ)を以て、豈(あに)万民(おほみたから)を煩労(わづら)はしめむや。
又(また)後世(のちのよ)に、民(おほみたから)の吾(わ)が故(ゆゑ)に由(よ)りて、己(おの)が父母(かぞいろは)を喪(ほろぼ)せりと言はむことを欲(ほ)りせじ。
豈(あに)其れ戦ひ勝ちて後に、方(まさ)に丈夫(ますらを)と言はむや。
夫(そ)れ身を損(す)てて国を固(かた)めば、亦(また)丈夫者にあらずや 」 とのたまふ。
人有(あ)りて遥(はるか)に上宮の王等を山中(やまなか)に見る。
還りて蘇我臣入鹿にいふ。
入鹿、聞(き)きて大(おほ)きに懼(お)づ。
速(すみやか)に軍旅(いくさ)を発(おこ)して、王の在(ま)します所(ところ)を高向臣国押(たかむくのおみくにおし)に述(かた)りて曰はく、 「 速に山に向(ゆ)きて彼(か)の王を求(かす)べ捉(から)むべいし 」 といふ。
国押報(こた)へて曰はく、 「 僕(やつかれ)は天皇(すめらみこと)の宮(みや)を守(まも)りて、敢(あ)へて外(と)に出(い)でじ 」 といふ。
入鹿即(すなは)ち将自(みづか)ら徃(ゆ)かむとす。
時(とき)に、古人大兄皇子(ふるひとのおほえのみこ)、喘息(いわ)けて来(いでま)して問(と)ひたまはく、 「 何処(いづち)か向(ゆ)く 」 とのたまふ。
入鹿(いるか)、具(つぶさ)に所由(よし)を説(と)く。
古人皇子(ふるひとのみこ)の曰(のたま)はく、 「 鼠(ねずみ)は穴(あな)に伏(かく)れて生(い)き、穴を失(うしな)ひて死(し)ぬと 」 とのたまふ。
入鹿、是(これ)に由(よ)りて、行(ゆ)くことを止(や)む。軍将等(いくさのきみたち)を遣(や)りて、胆駒(いこま)に求(もと)めしむ。竟(つひ)に覓(もとめう)ること能(あた)はず。
是(ここ)に山背大兄王等(やましろのおほえのみこたち)、山(やま)より還(かへ)りて、斑鳩寺(いかるがでら)に入(い)ります。
軍将等、即(すなは)ち兵(いくさ)を以(も)て寺(てら)を囲(かく)む。
是(ここ)に、山背大兄王、三輪文屋君(みわのふみやのきみ)をして軍将等(いくさのきみたち)に謂(かた)らはしめて曰(のたま)はく、「 吾(われ)、兵(いくさ)を起(おこ)して入鹿を伐(う)たば、其の勝(か)たむこと定(うつむな)し。
然(しか)るに一(ひと)つの身(み)の故(ゆゑ)に由(よ)りて、百姓(おほみたから)を残(やぶ)り害(そこな)はむことを欲(ほ)りせじ。
是を以て、吾(わ)が一つの身をば入鹿に賜(たま)ふ 」 とのたまひ、終(つひ)に子弟(うから)・妃妾(みめ)と一時(もろとも)に自(みづか)ら経(わな)きて倶(とも)に死(みう)せましぬ。
時(とき)に、五(いつ)つの色(いろ)の幡蓋(はたきぬがさ)、種種(くさぐさ)の伎楽(おもしろきおと)、空(おほぞらに)に照灼(てりひか)りて、寺に臨(のぞ)み垂(た)れり、衆人(もろひと)仰(あふ)ぎ観(み)、称嘆(なげ)きて、遂(つひ)に入鹿に指(さ)し示(しめ)す。
其の幡蓋等(はらきぬがさら)、変(かへ)りて黒(くろ)き雲(くも)に為(な)りぬ。
是(これ)に由りて、入鹿見(み)ること得(う)るに能(あた)はず。
蘇我大臣蝦夷(そがのおほみえみし)、山背大兄王等、総(すべ)て入鹿に亡(ほろぼ)さるということを聞(き)きて、而嗔(いか)り罵(の)りて曰(い)はく、 「 噫(あ)、入鹿、極甚(はなは)だ愚痴(おろか)にして、専(たくめ)行暴悪(あしきわざ)す。爾(い)が身命(いのち)、亦(また)殆(あやぶ)からずや 」 といふ。

山背大兄王  ・・・聖徳太子の嫡子。母は蘇我馬子の娘、刀自古郎女(とじこのいらつめ)。
定し       ・・・決定的だ。
經きて     ・・・首くくる


■蘇我蝦夷・入鹿の親子、家を甘樫丘に並べ建てる

『日本書紀』皇極三年(644年)冬十一月の条
冬十一月。蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、雙起家於甘檮岡。呼大臣家曰上宮門。入鹿家曰谷宮門。谷…此云波佐麻。呼男女曰王子。家外作城柵。門傍作兵庫。毎門置盛水舟一。木鉤数十、以備火災。恒使力人持兵守家。

冬十一月に、蘇我大臣蝦夷(そがのおほおみえみし)・児(こ)入鹿臣(いるかのおみ)、家を甘檮岡(うまかしのをか)に雙(なら)べ起(た)つ。
大臣の家を呼(よ)びて、上(うへ)の宮門(みかど)と曰(い)ふ。
入鹿(いるか)が家をば、谷(はさま)の宮門 谷…此をば波佐麻(はさま)と云ふ、 と日ふ。
男(をのこご)女(めのこご)を呼びて王子(みこ)と日ふ。
家(いへ)の外(と)に城柵(きかき)を作り、門(かど)の傍(ほとり)に兵庫(つはものぐら)を作る。
門毎(ごと)に、水(みづ)盛(い)るる舟(ふね)一つ、木鉤(きかぎ)数十(とをあまり)を置きて、火の災(わざはひ)に備(そな)ふ。
恆(つね)に力人(ちからひと)をして兵(つはもの)を持(も)ちて家(いへ)を守(まも)らしむ。

水盛るる舟・・・用水桶のこと
木鉤    ・・・火消しの7つ道具の一つであるとびぐちの一種
兵      ・・・武器


■飛鳥板蓋宮伝承地から見た甘樫丘
       飛鳥板蓋宮伝承地(奈良県高市郡明日香村大字岡)


2010年 甘樫丘東麓遺跡 現地見学会
 急斜面 中腹の柱穴列は『日本書紀』に記録されている蘇我邸の城柵(きかき)の跡か?
蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘から7世紀の塀跡とみられる柱穴列が見つかり、2010年3月20日、現地見学会がありました。
見つかった柱穴列は、今まで発掘調査されてきた樫丘東麓遺跡の北側の急斜面の中腹で、斜面のすそから約10メートルの高さのところです。幅3メートルほど平坦にしたところから2本分の柱穴列が見つかりました。見つかった柱穴列2本は互いに近すぎるため、同時に存在していたとは考えにくいとのこと。
南側の柱穴列は一辺約70センチ、深さ約50センチの四角い柱穴3個(親柱)と直径25センチの円形の柱穴10個(子柱)が、約10メートル並んでいました。柱と柱の間は幅40センチの浅い溝で、柱間を土で塗りこめたり、横板を渡す構造が想像でき、柱穴の大きさや深さから、比較的しっかりした構造物とみられ、さくというより塀のようなものではないかとのこと。
2007年に見つかった石垣やそれに平行して見つかった塀や、2008年に見つかった、中に重いものを置くため柱を増やして床の強度を高めた高床式の倉庫跡(これは『日本書紀』の皇極3年の条に「門(かど)の傍(ほとり)に兵庫(つはものぐら)を作る」とある倉庫では…?)、そして今回見つかった急斜面中腹の塀。石垣に二重の塀、そして特殊な倉庫、これはまるで要塞のようです。
いままでの発掘成果を考えると、蘇我入鹿の邸宅はこの斜面の上の平坦地にあったのではないか…?


■甘樫丘東麓遺跡
                             2010年3月20日
        甘樫丘東麓遺跡(奈良県高市郡明日香村大字川原)


2009年 甘樫丘東麓遺跡 現地見学会
 蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘で、2009年6月21日、現地見学会がありました。
現地でいただいた資料と説明によると、
発見されたのは、7世紀前半〜中頃の石垣と石敷そして石組溝、7世紀後半の長さ12m以上に及ぶ石組溝です。
石垣は遺跡の中央にあった谷筋の東岸に大き目の石を積んでいます。
2007年2月の現地見学会の時に見た石垣の続きで、合わせて全長34mになります。
この石垣は7世紀中頃に谷とともに、大規模な整地によって埋め立てられています。
 調査区南東隅の山寄りのところでは、幅1.5〜3mの石敷が発見されました。
山側に縁取りとなる石を並べ、谷側には石組みの溝をめぐらせていました。


■甘樫丘東麓遺跡
                              2009年6月21
       甘樫丘東麓遺跡(奈良県高市郡明日香村大字川原)



2008年 甘樫丘東麓遺跡 現地見学会
 蘇我蝦夷・入鹿 親子の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)。
その丘の東麓から7世紀前半の建物跡(倉庫)と塀跡が見つかり、3月29日、現地見学会がありました。
 現地での説明と見学会資料によると、
今回見つかった掘っ立て柱建物(建物1・建物3)は縦約9m、横約5mで、床全体に柱が建てられた高床式の倉庫だったらしく、中に重いものを置くため柱を増やして床の強度を高めています。
『日本書紀』の皇極3年(644)冬11月の条にある兵庫(武器庫)ではないかと考えられます。
当時のゴミ捨て穴(土坑1)と建物3の柱穴の関係と、土坑1から出土した土器から建物1・建物2・建物3・塀4(遺構平面図赤色)は7世紀半ばには無くなっていたことが確定しました。
 建物1は5×3間の総柱建物で北にL字形の溝を巡らし、建物3は5×2間の総柱建物で西にあった塀4でこの建物3を隠していたようです。
建物1・建物3とも柱の数が違いますが、面積は同じ約40uで、ただ建物1は柱の数こそ多いものの建物3に比べて柱が細かったようです。
建物2は5×2間の掘立柱建物です。
建物の東で焼土や炭の入る溝が見つかっていますが、今回の調査では焼土や炭は確認できなかったとのことでした。
今回の発掘調査で発見された倉庫跡は私のような古代史好きの者にとっては たまらない発見です。
まさに蘇我入鹿の邸宅、「谷(はさま)の宮門(みかど)」の敷地内、日本書紀にある兵庫(つはものぐら)跡が出土したのですから。
ただ蘇我入鹿邸の正殿がまだ発見されていません。
親父の蘇我蝦夷邸、「上(うへ)の宮門(みかど)」にいたってはさらに先の発掘調査を待たねばなりません。
当分の間、この甘樫丘の発掘調査からは目がはなせません。



甘樫丘東麓遺跡
                             2008年3月29日
       甘樫丘東麓遺跡(奈良県高市郡明日香村大字川原)



■2007年 甘樫丘東麓遺跡 現地見学会
 大化改新(645年)で暗殺された蘇我入鹿。
天皇をしのぐ権力を振るった蘇我入鹿の邸宅跡とされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおか とうろくいせき)で、飛鳥時代の石垣や、掘建て柱建物跡7棟などが見つかり、2月11日、現地見学会がありました。
                             2007年2月11日
      甘樫丘東麓遺跡(奈良県高市郡明日香村大字川原)



■石垣と平行する塀の跡
 発掘された場所は南北方向に谷筋が入っています。この谷筋のほぼ中央に石垣を築いて東側に一段高く造成し、建物lを建ててます。石垣に平行して塀も建てられていたようです。
 「 塀 1 」は日本書紀に記載された 「 城柵(きかき) 」の跡 か?
                             2007年2月11日
       甘樫丘東麓遺跡(奈良県高市郡明日香村大字川原)



■2005年 蘇我入鹿の邸跡か?
                            2005年11月14日
       甘樫丘東麓遺跡(奈良県高市郡明日香村大字川原)



■中臣鎌子連、蘇我入鹿の暗殺計画の相棒として中大兄皇子に目をつける
 中臣鎌子連は藤原鎌足のことです。

皇極三年春正月の条
中臣鎌子連為人忠正。有匡済心。乃憤蘇我臣入鹿失君臣長幼之序。侠■■社稷之権。歴試接於王宗之中。而求可立功名哲主。便附心於中大兄。疏然未獲展其幽抱。

 中臣鎌子連、人(ひと)と為(な)り忠正(ただ)しくして、匡(ただ)し濟(すく)ふ心(こころ)有り。
乃(すなわ)ち、蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)が、君臣(きみやつこらま)長幼(このかみおとと)の序(ついで)を失ひ、社稷(くに)をうかがふ權(はかりこと)を挾(わきばさむ)ことを憤(いく)み、歴試(つた)ひて王宗(きみたち)の中(みなか)に接(まじは)りて、功名(いたはり)を立つべき哲主(さかしききみ)をば求(もと)む。
便(すなは)ち、心を中大兄に附(つ)くれども、さかりて未だ其(そ)の幽抱(ふかきおもひ)を展(の)ぶること獲(え)ず。


■中臣鎌子連、毬と共に脱げた中大兄皇子の靴を奉る
 〇 槻の樹の下の蹴鞠で中大兄に近づき入鹿暗殺計画を持ちかける。

皇極三年春正月の条
偶預中大兄於法興寺槻樹之下打鞠之侶。而候皮鞋随鞠脱落。取置掌中。前跪恭奉。中大兄対跪敬執。自茲相善倶述所懐。既無所匿。

偶(たまたま)中大兄の法興寺(ほふこうじ(飛鳥寺))の槻(つき)の樹(き)の下に打毬(まりく)うる侶(ともがら)に預(くはは)りて、皮鞋(みくつ)の毬(まり)の隨(まま)脱(ぬ)け落つるを候(まも)りて、掌中(たなうら)に取り置(も)ちて、前(すす)みて跪(ひざまづ)きて恭(つつし)みて奉(たてまつ)る。
中大兄、對(むか)ひ跪(ひざまづ)きて敬(ゐや)びて執(と)りたまふ。
これより、相(むつ)び善(よ)みして、倶(とも)に懐(おも)ふ所を述(の)ぶ。
既(すで)に匿(かく)るる所無(な)し。


飛鳥寺西方に広がる槻の木の広場(法興寺槻樹之下)の南限か?
 奈良県明日香村にある飛鳥寺西方遺跡から砂利敷きの広場と、その南限を示すと考えられる東西石組溝が発見され、2011年11月27日、現地見学会がありました。
現地での説明と戴いた資料によれば、
発掘現場は「入鹿の首塚」から南へ約90m、飛鳥寺中金堂跡(安居院本堂)から南西へ約120mの位置。
発見された砂利敷きは東西石組溝の北側に広がっていました。
東西石組溝は、幅120cm、深さ約10cm、底石は東側が人頭大の石、西側は拳大の石を用いるなど石の大小を分けて敷き詰めていました。見た目を重視したのでしょう。
この溝の北に、1.4mの位置に石列がありました。
石列の性格についてお聞きしたところ、これからの検討課題だとのことですが、素人目には敷き詰めた砂利が東西石組溝に入らぬよう区画するための石列のようにみえました。
石組溝の底石さえ石の大小に気を使って敷き詰めるほどですから、溝に砂利が入ればやはり見た目に悪いと考えたのだと思います。
これまでの調査から、調査地周辺には建物がなく、前面に砂利敷が施された空間が広がっていたと考えられるとのこと。
槻の木の広場はこれまでの調査成果から南北200メートル、東西120メートルと推定されていますが、詳細は不明だとのことでした。


■絹本多武峯縁起絵巻
 皮鞋の毬の隨脱け落つるを候りて…
                              談山神社提供
               談山神社(奈良県桜井市大字多武峰)


■飛鳥寺西方に広がる槻の木の広場の南限か?
                             2011年11月27日
       飛鳥寺西方遺跡(奈良県高市郡明日香村大字飛鳥)


■暗殺計画を相談する
 〇 南渕先生(みなぶちのせんじゃう)の所に通う道すがら、密かに暗殺計画を相談する。

皇極三年春正月の条
後恐他嫌頻接。而倶手把黄巻。自学周孔之教於南淵先生所。遂於路上、徃還之間。並肩潜図。無不相協。於是。中臣鎌子連議曰。謀大事者、不如有輔。請納蘇我倉山田麻呂長女。為妃、而成婚姻之眤。然後陳説、欲与計事。成功之路、莫近於茲。中大兄聞而大悦。曲従所議。中臣鎌子連即自徃媒要訖。而長女所期之夜被倫於族。 族。謂身狭臣也。 由是倉山田臣憂惶。仰臥不知所為。少女怪父憂色、就而問曰。憂悔何也。父陳其由。少女曰。願勿為憂。以我奉進、亦復不晩。父便大悦。遂進其女。奉以赤心。更無所忌。中臣鎌子連挙佐伯連子麻呂。葛木稚犬養連網田於中大兄曰。云々。

後(のち)に他(ひと)の頻(しきり)に接(まじ)はることを嫌(うたが)はむことを恐(おそ)りて、倶(とも)に手に黄巻(ふみまき)を把(と)りて、自(みづか)ら周孔(しうこう)の教(のり)を南淵先生(みなぶちのせんじゃう)の所(もと)に学ぶ。
遂(つひ)に路上(みちのあひだ)、往還(かよ)ふ間(ころほひ)に、肩を並べて潜(ひそか)に圖(はか)る。
相(あひ)協(かな)はずといふことなし。
是(ここ)に、中臣鎌子連議(はか)りて日(まう)さく、「大きなる事を謀(はか)るには、輔(たすけ)有(あ)るには如(し)かず。
請(こ)ふ、蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ)の長女(えひめ)を納(めしい)れて妃(みめ)として、婚姻(むこしうと)の眤(むつび)を成(な)さむ。
然(しかう)して後(のち)に陳(の)べ説きて、興(とも)に事を計(はか)らむと欲(おも)ふ。
功(いたはり)を成(な)す路、茲(これ)より近(ちか)きは莫(な)し」とまうす。
中大兄(なかのおほえ)、聞きて大きに悦(よろこ)びたまふ。
曲(ひばひらか)に議る所に従(したが)ひたまふ。
中臣鎌子連、即(すなは)ち自(みづか)ら徃(ゆ)きて媒(なかだ)ち要(かた)め訖(をは)りぬ。
而(しか)るに長女(えひめ)、期(ちぎ)りし夜(よ)、族(やから)に倫(ぬす)まれぬ。
族は身狭臣(むさのおみ)を謂(い)ふ。
是(これ)に由(よ)りて、倉山田臣(くらのやまだのおみ)、憂(うれ)へ惶(かしこま)り、仰(あふ)ぎ臥(ふ)して所為(せむすべ)知(し)らず。少女(をとひめ)、父(かぞ)の憂(うれ)ふる色(いろ)を怪(あやし)びて、就(つ)きて問(と)ひて曰(い)はく、「憂へ悔(く)ゆること何(な)ぞ」といふ。
父其(そ)の由(ゆゑ)を陳(の)ぶ。
少女曰はく、「願(ねが)はくはな憂へたまひそ。我(おのれ)を以(も)て奉進(たてまつ)りたまふとも、亦復(また)晩(おそ)からじ」といふ。
父(かぞ)、便(すなは)ち大(おほ)きに悦(よろこ)びて、遂(つひ)に其(そ)の女(むすめ)を進(たてまつ)る。奉(つかへまつ)るに赤心(きよきこころ)を以(も)てして、更(さら)に忌(い)む所(ところ)無(な)し。
中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)、佐伯連子麻呂(さへきのむらじこまろ)・葛城稚犬養連網田(かづらきのわかいぬかひのむらじあみた)を中大兄に擧(すす)めて日(い)はく、云云(しかしかいふ)。

黄巻   ・・・書物をいう
周孔   ・・・儒教


■蘇我入鹿暗殺を決行

皇極天皇四年(645)六月の条
六月丁酉朔甲辰。中大兄密謂倉山田麻呂臣曰。三韓進調之日。必将使卿読唱其表。遂陳欲斬入鹿之謀。麻呂臣奉許焉。

六月(みなづき)の丁酉(ひのとのとり)の朔(ついたち)甲辰(きのえたつのひ)に(八日)、中大兄(なかのおほえ)、密(ひそか)に倉山田麻呂臣(くらのやまだのまろのおみ)に謂(かた)りて日はく、
「 三韓(みつのからひと)の調(みつき)を進(たてまつ)らむ日に、必ず将(まさ)に卿(いまし)をして其の表(ふみ)を読(よ)み唱(あ)げしめむ 」 といふ。
遂(つひ)に入鹿(いるか)を斬(き)らむとする謀(はかりごと)を陳(の)ぶ。
麻呂臣(まろのおみ)許(ゆる)し奉(たてまつ)る。

三韓  ・・・高麗・百済・新羅の総称して三韓の語を用いている。
許し奉る ・・・承諾を申し上げた。


皇極天皇四年六月の条
戊申。天皇御大極殿。古人大兄侍焉。中臣鎌子連知蘇我入鹿臣為人多疑。昼夜持剣。而教俳優、方便令解。入鹿臣咲而解剣、入侍于座。倉山田麻呂臣進而読唱三韓表文。於是。中大兄戒衛門府。一時倶〓十二通門、勿使徃来。召聚衛門府於一所。将給禄。時中大兄即自執長槍、隠於殿側。中臣鎌子連等持弓矢而為助衛。使海犬養連勝麻呂授箱中両剣於佐伯連子麻呂与葛城稚犬養連網田曰。努力努力、急須応斬。子麻呂等。以水送飯。恐而反吐。中臣鎌子連嘖而使励。倉山田麻呂臣恐唱表文将尽、而子麻呂等不来。流汗沃身。乱声動手。鞍作臣怪而問曰。何故掉戦。山田麻呂対曰。恐近天皇。不覚流汗。中大兄見子麻呂等畏入鹿威、便旋不進曰。咄嗟。即共子麻呂等、出其不意。以剣傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂運手揮剣、傷其一脚。入鹿転就御座、叩頭曰。当居嗣位、天之子也。臣不知罪。乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰。不知所作。有何事耶。中大兄伏地奏曰。鞍作尽滅天宗。将傾日位。豈以天孫代鞍作耶。〈 蘇我臣入鹿更名鞍作。 〉天皇即起入於殿中。佐伯連子麻呂。稚犬養連網田、斬入鹿臣。是日雨下潦水溢庭。以席・障子覆鞍作屍。

戊申(つちのえさるのひ)(十二日)に、天皇(すめらみこと)大極殿(おほあんどの)に御(おはしま)す。
古人大兄(ふるひとのおほえ)侍(はべ)り。
中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)、蘇我入鹿臣の、人と為(な)り、疑(うたがひ)多(おほ)くして、昼夜(ひるよる)剣(たち)持(は)けることを知りて、俳優(わざひと)に教(をし)へて、方便(たばか)りて解(ぬ)かしむ。
入鹿臣、咲(わら)ひて剣を解(ぬ)く。
入(い)りて座(しきゐ)に侍(はべ)り。
倉山田麻呂臣、進(すす)みて、三韓(みつのからひと)の表文(ふみ)を読み唱(あ)ぐ。
是(ここ)に、中大兄、衛門府(ゆけひのつかさ)に戒(いまし)めて、一時(もろとも)に倶(とも)に十二(よも)の通門(みかど)をさしかためて、往来(かよ)はしめず。
衛門府を一所(ひとところ)に召(め)し聚(あつ)めて、将(まさ)に給禄(ものさづ)けむとす。
時に、中大兄、即(すなは)ち自ら長き槍(ほこ)を執(と)りて、殿(との)の側(かたはら)に隠れたり。
中臣鎌子連等(ら)、弓矢(ゆみや)を持ちて為助衛(ゐまも)る。
海犬養連勝麻呂(あまのいぬかひのむらじかつまろ)をして、箱(はこ)の中(うち)の両(ふた)つの剣(たち)を佐伯連子麻呂(さへきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かづらきのわかいぬかひのむらじあみた)とに授(さづ)けしめて日(い)はく、
努力努力(ゆめゆめ)、急須(あからさま)に斬(き)るべし」といふ。
子麻呂等、水を以(も)て送飯(いひす)く。恐(おそ)りて反吐(たまひいだ)す。中臣鎌子連、嘖(せ)めて勵(はげま)しむ。
倉山田麻呂臣、表文(ふみ)を唱(よみあ)ぐること将に盡(つ)きなむとすれども、子麻呂等の来(こ)ざることを恐(おそ)りて、流(い)づる汗(あせ)身に浹(あまね)くして、声(こゑ)乱(みだ)れ手(て)動(わなな)く。
 鞍作臣(くらつくりのおみ)、怪(あやし)びて問ひて日はく、
「 何故(なにゆえ)か掉(ふる)ひ戦(わなな)く 」 といふ。
山田麻呂、對(こた)へて曰はく、
「天皇(すめらみこと)に近(ちか)つける恐(かしこ)みに、不覚(おろか)にして汗流(い)づる」といふ。
中大兄、子麻呂等の、入鹿(いるか)が威(いきほい)に畏(おそ)りて、便施(めぐら)ひて進(すす)まざるを見て日(のたま)はく、
「咄嗟(やあ)」とのたまふ。
即(すなは)ち子麻呂等と共(とも)に、出其不意(ゆくりもな)く、剣(たち)を以て入鹿が頭肩(あたまかた)を傷(やぶ)り割(そこな)ふ。
入鹿驚(おどろ)きて起(た)つ。
子麻呂、手を運(めぐら)し剣を揮(ふ)きて、其の一つの脚(あし)を傷りつ。
入鹿、御座(おもと)に転(まろ)び就(つ)きて、叩頭(の)みて日(もう)さく、
「當(まさ)に嗣位(ひつぎのくらゐ)に居(ましま)すべきは、天子(あめのみこ)なり。臣(やつこ)罪(つみ)を知らず。
乞(こ)ふ、垂審察(あきらめたま)へ」とまうす。
天皇大(おほ)きに驚きて、中大兄に詔(みことのり)して日(のたま)はく、
「知らず、作(す)る所(ところ)、何事(なにごと)有(あ)りつるや」とのたまふ。
 中大兄、地(つち)に伏(ふ)して奏(まう)して日(もう)さく、
鞍作(くらつくり)、天宗(きみたち)を盡(つく)し滅(ほろぼ)して、日位(ひつぎのくらゐ)を傾(かたぶ)けむとす。
荳天孫(あにあめみま)を以て鞍作に代(か)へむや」とまうす。
蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)、更(また)の名(な)は鞍作。
天皇、即(すなわち)ち起(た)ちて殿(との)の中(うち)に入りたまふ。
佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬(き)りつ。
是(こ)の日に、雨(あめ)下(ふ)りて潦水(いさらみづ)庭(おほば)に隘(いは)めり。
席障子(むしろしとみ)を以て、鞍作が屍(かばね)に覆(おほ)ふ。

大極殿       ・・・朝堂の正殿
俳優        ・・・滑稽なしぐさで歌舞などをする人
衛門府       ・・・諸門の護衛を掌る。
為助衛る      ・・・助け守った
急須        ・・・ちょとの間。たちまち。
水を以て送飯く  ・・・水をかけて飯を咽喉に送りこんだ。
              恐怖のために飯が咽喉を通らなかったからである。
反吐す        ・・・嘔吐すること。
出其不意く     ・・・不意に
叩頭        ・・・請い願って
潦水        ・・・俄かにほどばしり溢れ流れる水。


■入鹿暗殺の直後 中大兄皇子、法興寺(飛鳥寺)に入り戦にそなえる。

皇極天皇四年六月の条
古人大兄見走入私宮。謂於人曰。韓人殺鞍作臣。 謂因韓政而誅 吾心痛矣。即入臥内、杜門不出。中大兄即入法興寺、為城而備。凡諸皇子。諸王。諸卿大夫。臣・連。伴造。国造。悉皆随侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。


■南淵請安先生之墓
              稲淵(奈良県高市郡明日香村大字稲渕)




■あすか劇団「時空」 公演 「大化改新」
 蘇我倉山田石川麻呂、進みて、三韓の表文を読み唱ぐ。
 左手 蘇我入鹿
 中央 皇極女帝
 右手 蘇我倉山田石川麻呂
                            2006年7月29日
           川原寺跡(奈良県高市郡明日香村大字川原)




■剣を以て入鹿が頭肩を傷り割ふ
 左手 中臣鎌子連(後の藤原鎌足)
 中央 蘇我入鹿
 右手 中大兄皇子
                            2006年7月29日
           川原寺跡(奈良県高市郡明日香村大字川原)

あすか劇団 「 時空 」 へ




■絹本多武峯縁起絵巻
                              談山神社提供
               談山神社(奈良県桜井市大字多武峰)



絹本多武峯縁起絵巻 蘇我邸炎上
                              談山神社提供
               談山神社(奈良県桜井市大字多武峰)

古人大兄、見て私(わたくし)の宮(みや)に走り入(い)りて、人に謂(い)ひて日(い)はく、「韓人(からひと)、鞍作臣を殺しつ。 ・・・韓政(からひとのまつりごと)に因(よ)りて而誅(つみ)せらるるを謂(い)ふ。
吾(わ)が心(こころ)痛(いた)し」といふ。
即ち臥内(ねやのうち)に入りて、門(かど)を杜(さ)して出ず。
中大兄、即ち法興寺(ほうこうじ)に入りて、城(き)として備(そな)ふ。
凡(すべ)て諸(もろもろ)の皇子(みこたち)・諸王(おほきみたち)・諸卿大夫(まへつきみたち)・臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)、悉(ことごとく)に皆(みな)隨侍(みともにはべ)り。
人(ひと)をして鞍作臣(くらつくりのおみ)の屍(かばね)を大臣蝦夷(おほおみえみし)に賜(たま)はしむ。


■蘇我臣蝦夷等、天皇記・国記・珍宝を焼く

皇極天皇四年(645)六月の条
己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅。悉焼天皇記。国記。珍宝。船史恵尺即疾取所焼国記而奉献中大兄。是日。蘇我臣蝦夷及鞍作屍許葬於墓。復許哭泣。

己酉(つちのとのとりのひ)(十三日)に、蘇我臣蝦夷(そがのおみえみし)等、誅(ころ)されむとして、悉(ふくつ)に、天皇記(すめらみことのみふみ)・国記(くにつふみ)・珍宝(たからもの)を焼く。
船史恵尺(ふねのふひとゑさか)、即ち疾(と)く、焼かるる国記を取りて、中大兄に奉献(たてまつ)る。
是の日に、蘇我臣蝦夷及び鞍作が屍を、墓(はか)に葬(はぶ)ることを許す。
復(また)哭泣(ねつかひ)を許す。

哭泣  ・・・喪にあって悲しみ泣くこと


皇極天皇四年(645)六月の条
庚戌。譲位於軽皇子。立中大兄為皇太子。

庚戌(かのえいぬのひ)(十四日)に、位(みくらゐ)を軽皇子(かるのみこ)(孝徳天皇)に譲(ゆづ)りたまふ。
中大兄(なかのおほえ)を立(た)てて、皇太子(ひつぎのみこ)とす。


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