孝景本紀 孝景皇帝は、孝文皇帝の中子である。母は竇太后である。前の后には3人の男 子がいたが、竇太后が寵愛されるようになって、前の后は死に、残された3人の 男子も次々と死んだ。それゆえに孝景皇帝が即位する事ができたのである。 元年、匈奴が代に侵攻し、これを和睦した。 2年、男子が20歳になると兵に服する事とした。 3年、各地で謀反が起こり、これを鎮めようとしたが、鎮まらず、大将軍竇嬰、 太尉周亜夫を派遣して鎮圧した。大将軍竇嬰を封じて魏其侯とした。 4年、太子を立てた。皇子徹を膠東王とした。 7年、太尉周亜夫を丞相とした。栗太子が廃止されて臨江王となり、膠東王の 太后を皇后にし、膠東王徹を太子に立てた。改元を行った。 中元の元年、禁錮の刑を廃止した。 中元の2年、匈奴が燕に攻め入った。 中元の3年、匈奴の王が降伏してきたので、列侯に封じた。 中元の6年、匈奴が上郡に侵攻した。改元を行った。 後元の元年、4月に天下の臣民を集めて酒宴を開いた。 後元の2年、穀物の実りが悪く、穀物の消費を制限した。 後元の3年、孝景皇帝が崩じ、陽陵に葬られた。太子が即位した。これが孝武 皇帝である。
孝武本紀 孝武皇帝は、孝景皇帝の中子である。母は王太后である。 孝景皇帝4年、皇子の身で膠東王になった。 孝景皇帝7年、栗太子が廃止されて臨江王となり、膠東王が太子となった。 孝武皇帝が即位すると、特に鬼神をまつった。元年は、漢帝国が興ってから既 に60余年が流れていた。天下は安らかに治まっており、公郷貴官はみな制度の 改めを望んでいた。孝武皇帝も儒学に関心を持っており、士を招いていたが、竇 太后が儒学を嫌っていたので、士が不正の利益を得ているなどと探りを入れて罪 を正した。このため、孝武皇帝が新たに出した諸事は廃止された。 孝武皇帝6年、竇太后が崩じた。そして、孝武皇帝は郊祀を行った。また、こ の頃、優れた方術士である李少君を尊んだ。そして、李少君の進言で、不死を求 めて方士を遣わせて蓬莱の安期生の属を求めさせ、丹砂や諸薬を化かして黄金を 作る事に没頭した。しばらくして李少君は病死し、各地で李少君にならって神事 を語る者が多く現れた。 亳の謬忌という人物が、泰一をまつる方術を上奏した。 「天神でもっとも貴いのは泰一です。泰一を補佐する者が五帝、五天帝・蒼帝・ 赤帝・白帝・黄帝です。古は天子は春秋に泰一を都の東南郊でまつり、大牢を7 日間にわたって供えて、壇を作って八方に鬼神の道を開いたものです。」 そこで、天子は泰一をまつった。 その後、ある者が、 「古は天子が3年に一度は大牢を供えて三神をまつったものです。三神は、天、 地、泰一です。」 と言った。天子はこれを聴いて謬忌の泰一とともにまつらせた。 その後、またある者が、 「古は天子は常に春秋に神をまつりました。黄帝をまつるには一羽の梟と一匹の 破鏡、冥羊には羊、馬行には一匹の青い牝馬、泰一・皋山・山君・地鳥には牛、 武夷君には乾魚、陰陽使者には一匹の牛を用いたものです。」 と言った。天子はこれを聴いて謬忌の泰一とともにまつらせた。 その翌年、王夫人が死んだ。少翁は、 「方術で王夫人と竃の神の姿を現せてみせましょう。」 と言った。 天子は少翁を文成将軍に任じ、手厚くもてなした。しかし、1年あまり経って も方術は衰える一方なので、文成将軍は絹に文字を書いて牛に食べさせて、 「この牛の腹中に奇瑞があります。」 と言って、その牛を殺して調べて文書を出した。しかし、その内容が奇怪であっ たため、天子はこの筆跡に見覚えがないかと言って調べさせ、文成将軍の偽書で あったことが解り、文成将軍を誅殺した。 その翌年、天子は重い病にかかり、甘泉宮に行幸して神君に会って病を治した。 その3年後、有司が、 「年を1年2年と数えるのは良くありません。天をあらわす瑞祥によって命名す べきです。第一の元を建元、第二の元を元光、第三の元を元狩と命名しましょう。」 と言った。 その翌年、天子は東に行幸し、はじめて后土の祠の汾陰のスイ丘の上に立てた。 そして、帰りの道、洛陽を通った際に、 「夏、殷、周の三代の子孫を見つけ出して祭祀を行うのは難しいが、せめて周の 古都洛陽を通るのだから、周の子南君とし、先王の祭祀を奉じさせよう。」 と言った。 この年、郡県を巡遊し、泰山におもむいた。 斉の公孫卿は、 「漢の興隆は、再び黄帝の時にあたります。これまで封禅を行った王は72おり ます。そのうち、黄帝だけが泰山に登って封禅できたとあります。また、中国に は華山・首山・太室・泰山・東莱の5つの名山があり、この5つは黄帝が遊行し て神と会ったところです。」 と、言った。天子は、 「わしが黄帝のようになれるならば、妻子と別れる事などわらぐつを脱ぎ捨てる くらいにしか思わぬ。」 と、言って、公孫卿を郎官に取立てた。公孫卿に太室山において神をさぐらせた。 また、衣服は黄色をたっとんだ。 その年の秋、南越を討伐のために泰一に祈り、払い清めた、そして、南越を滅 ぼした。そして、泰一・后土に報告して祈った。瑟が演奏され、これより瑟が楽 舞で盛んになった。 その後、天子は泰山で封禅をおこない、禍がなかったので方士達は、 「蓬莱の諸神には、いずれお会いできましょう。」 と言った。有司が、 「今年は封禅にちなんで、元封元年と致しましょう。」 と言った。 越は漢に滅ぼされており、越の勇之が、 「越人は鬼を信じております。東甌王は鬼を信じていたので160歳の長寿を保 ちましたが、その子孫は鬼を祀ることを怠ったため、衰退しました。」 そこで、天子は巫に命じて越式の祠を建てさせた。天子がそれを信じたので、 それからは越式の卜が盛んになった。 その翌年、朝鮮を討伐した。 元封5年、封土を改修した。 その後2年、太初元年、暦を推算する者が、正しい暦である太初によって計算 した。11月甲子朔旦冬至の日に上帝を明堂でまつった。 そして、建章宮を建設した。その時の制度をたてて、千門万戸をつくり、前殿 は未央宮より大きく、東には高さ20余丈の鳳闕があり、西には庭園があり、数 十里にわたって虎を養うところがあった。北には大きな池と漸台があり、台の高 さは20余丈、、池の名は泰液といった。南には玉堂・壁門・鋳銅の大鳥などが あった。そして、神明台・井幹桜を建て、その高さは50余丈であった。 夏に漢は、正月を歳の始めとした。色は黄色をたっとんだ。 年号を太初元年と改めた。 この年に大宛国を討伐した。 黄帝にならって、不死を得るために方士達の進言どおり封禅をおこなった。天 子が封禅を行って12年間に方士達が神をうかがったりまつったり、あるいは海 上に出て蓬莱を求めたが、その効験がなかった。それでも、天子は真実味のない 方士達とのつながりを持ち、真の神に会いたいと願った。そのため、神をまつる 方士であると口にするものがますます多くなった。しかし、その効験がどのよう なものであるかは明白である。