| 漢に幕を降ろした人物 魏文帝
曹操の長男
出身地:ショウ
生没年:187〜226年
在位 :220〜226年
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容姿 :曹操の長男。文武両道の優れた男。
文学的素質があり、筆を下せば文章になった。広い知識を持ち、記憶力
に優れ、多方面にわたる才能を持っていた。
〜列伝〜
父ソウソウに従ってエンショウ討伐の際、エンショウの次男エンキの妻、甄氏
を娶った。
ソウソウが世継ぎを三男のソウショクにしようとしていた事を知り、廃嫡され
ることを恐れて、中大夫カクに相談して、ソウソウの出陣の時は、ただ涙を流し
て伏して拝んだりと父に誠意を見せた。ソウソウもソウショクには才はあるが、
誠意においてはソウヒに及ばないと思うようになった。また、腹心の者に側近を
買収させて、自分の徳の高さをたたえさせた。ソウソウが、カクに世継ぎを相談
したところ、カクは答えなかった。ソウソウが訳を聞くと、
カク曰く、
「袁本初、劉景升のことを考えておりました。」
ソウソウは笑って、長子を世継ぎに決めた。
ソウソウの死後、シバフ・チンキョウ・カキン達によって魏王になった。
建安25年を延康元年と改め、諸侯に官位恩賞を与えた。そして、ソウソウに
謚して武王とし高陵に葬り、ウキンに陵番を命じた。ウキンが高陵におもむくと、
霊屋の白い壁一面に上座に座るカンウの前に憤怒の形相で立つホウトクと、平伏
して命乞いするウキンの姿が描かれており、ウキンは恥と怒りで病となって死ん
だ。
父の葬儀に来なかったソウショクとソウユウに問責の使者を立てた。ソウユウ
は恐れて自殺し、ソウショクはキョチョに捕らえられた。ソウヒはソウショクに
7歩歩くうちに詩を作れば許すと言った。ソウショクは見事に作り上げ、その詩
にソウヒは涙を流した。そして、ソウショクの位を安郷侯に落として罪を許した。
その後、文武諸官らが、献帝を廃位することを協議し、カキン達が献帝にソウ
ヒに帝位を譲るように迫った。
ソウヒは受禅台を築いて帝位に即いたが、その時、つむじ風が吹いてソウヒは
その場に昏倒した。ソウヒの病が癒えぬので、許昌の宮殿に祟りがあるとして、
洛陽に遷都した。
蜀がカンウ、チョウヒの仇討ちのため、呉と開戦すると、呉がチョウシを使者
に魏に降伏を申し入れた。大夫のリュウヨウの諌めるが、ソウヒ曰く、
「朕は呉も蜀も助けぬ。互いに攻め合って一国になった時に、攻めれば難しい事
ではない。」
かくして、呉は魏に降伏した。そして、呉と蜀が開戦すると、ソウヒは、
「リュウビは敗れよう。敵前で700里もの布陣をする法はない。蜀がリクソン
に敗れるのは火を見るよりも明らか。」
と笑って、ソウジン、ソウキュウ、ソウシンに軍勢を与えた。
呉のリクソンが蜀のリュウビを大敗させた時呉に進軍したが、これを予測して
いたリクソンに大敗した。
蜀のリュウビが死ぬと、ソウヒは大いに喜んでソウシンを大都督に命じて10
万の兵を進め、呉にも領土を分け与える条件で10万の軍を出させて蜀に侵攻し
た。しかし、呉は兵を出さず蜀と同盟を結んだので、怒って呉に攻め入った。し
かし、呉軍に大敗し、さらにその隙に長安を蜀のチョウウンに攻められ急いで洛
陽に戻った。
ソウヒが病になった時、郭貴妃は甄皇后が呪いの人形でソウヒを呪っていると
偽り、それを信じたソウヒは怒って甄皇后に死を賜った。郭貴妃は皇后となった
が子がなく、甄皇后の子ソウエイをかわいがった。
ソウヒとソウエイは狩りに出て、ソウヒが母鹿を射ると、ソウエイは小鹿を射
らなかった。ソウヒが問うと、ソウエイは、
「陛下が既に親を殺られましたのに、その子まで殺すことは私にはできませぬ。」
と泣き泣き答えた。これを聞くと、弓を投げ棄てて
「我子は、まことに仁徳の主じゃ。」
と言って、ソウエイを平原王に封じた。
夏、ソウヒが風邪にかかって回復しないので、ソウシン、チングン、シバイら
3人を寝殿に呼んで、ソウエイを呼び、後事を託してそのまま死んだ。
ソウヒはソウエイに文皇帝と謚された。
在位7年、40歳であった。