曹叡元仲 ソウエイゲンチュウ
魏明帝 曹丕の長男
出身地:ギョウ
生没年:205〜239年
在位 :226〜239年
容姿 :曹丕の長男。魏明帝。     天性容姿に優れ、立つと髪は地面に垂れ、どもりで口数は少なく、沈着     剛毅で決断力があった。     5、6歳の頃から人並み優れた才知の風がある。学問を好み、博識、特     に法律学に興味を持っていた。

〜列伝〜  ソウヒが病になった時、郭貴妃は甄皇后が呪いの人形でソウヒを呪っていると 偽り、それを信じたソウヒは怒って甄皇后に死を賜った。郭貴妃は皇后となった が子がなく、甄皇后の子ソウエイをかわいがった。  ソウヒとソウエイは狩りに出て、ソウヒが母鹿を射ると、ソウエイは小鹿を射 らなかった。ソウヒが問うと、ソウエイは、 「陛下が既に親を殺られましたのに、その子まで殺すことは私にはできませぬ。」 と泣き泣き答えた。これを聞くと、弓を投げ棄てて 「我子は、まことに仁徳の主じゃ。」 と言って、ソウエイを平原王に封じた。  夏、ソウヒが風邪にかかって回復しないので、ソウシン、チングン、シバイら 3人を寝殿に呼んで、ソウエイを呼び、後事を託してそのまま死んだ。  ソウヒはソウエイに文皇帝と謚された。  シバイに涼州、雍州の兵権を与えたが、蜀のバショクの策によって、シバイが 簒奪を企てている流言が流された。ソウエイは大尉カキンの進言でシバイの兵権 を取り上げた。そこに蜀のショカツリョウが攻め込んできたので、慌てて群臣に 諮った。すると、カコウボウが、父カコウエンの仇討ちにと進み出たので、司徒 オウロウの諌めも聞かずにカコウボウを出陣させた。しかし、カコウボウが敗れ て、天水、安定、南安を奪われた。これを奪い返そうと、ソウシン、カクワイ、 オウロウを出陣させたが、大敗した。  太傅ショウヨウの進言でシバイを再び用いて蜀の迎撃に向かわせ勝利した。そ して、シバイに呉に襲われているソウキュウの援軍に向かわせた。  再び蜀のショカツリョウが攻めてきたのでシバイに全権を与えて迎撃させた。  建興8年、蜀攻略に乗り出すが、悪天候にて兵を退き、建興9年、蜀のショカ ツリョウが攻め込んできたのでシバイに迎撃を命じた。建興13年、またも蜀の ショカツリョウが攻め込んできたのでシバイに迎撃を命じた。蜀に協力した呉も 同時に攻めてきたので、ソウエイ自らマンチョウらを率いて出陣した。ショカツ リョウが死ぬと、兵を退いた。  ソウエイは長寿の方法をバキンから教わり、長安の柏梁台の上にある承露盤を 捧げた銅人を洛陽に運ばせようとしたが、銅人が泣きだし、突風が吹いて銅柱が 倒れて千余人が圧死した。銅柱は重く動かないので魏主は打ち砕いて運び、洛陽 で鋳造した。さらに皆が諌めるのも聞かず、台を築かせて銅人を据えた。そして 天下に美女を選って芳林園に住まわせ、後宮からひと月余り出てこぬ有り様。こ れに嫉妬した毛皇后に死を賜った。そして、郭夫人を皇后に取りたてた。  かかるとき、幽州のカンキュウケンが、コウソンエンが謀反し燕王と号したと 上奏し、ソウエイは慌ててシバイに鎮圧を命じ平定した。  ある晩、毛皇后達が現れて命を返せと迫り、ソウエイは病気になった。病気が 重くなると、太子ソウホウに 「シバイを父と思ってよく敬うよう。」 と言って、シバイに命じてソウホウの手を取って寝台のそばに来るように命じた が、ソウホウはシバイのもとを離れなかった。ソウエイは意識が薄れて、ソウホ ウの方に手をさしのべつつ息絶えた。  時に36歳。在位13年。  演義ではソウホウは太子とされているが、ソウエイには子がいなかった。ソウ ホウは誰の子かははっきりしないが、ソウソウの孫のソウショウの子、任城王ソ ウカイの子という説がある。