飢饉などで農民が飢えに苦しんだり、兵糧攻めで飢えに苦しむ場面は多くある。
そして食べるものがなくなり、ついに軍馬に手を出した・・・。
そんな場面はいくつもあるだろう。
しかし、そんなに馬は食す事は最後の最後の決断というほど食べる事にためら
うものなのだろうか。
ましてや、ありとあらゆる物を食材として食べてしまう中国においても馬とは
そんなに食材としては不適当なものなのだろうか。
そこで筆者は実際に試してみる事にした。さすがに馬一頭を購入してさばく事
はできないので、馬の肉を買うことにした。早速、馬の肉を買いに肉屋に走った。
しかし、ない。やはり一般の店頭には並んでいないようである。
日本でも馬の肉を売る地域はいくつもある。昔から馬で有名な甲斐信濃などは
良い例である。早速、甲斐まで走り馬の肉を購入した。
とりあえず手に取ったのが、馬刺しと呼ばれる詰め合わせセットである。馬刺
しというからには生の肉である。さすがに牛や豚と違って市場にあまり出回って
いないためか、比較すると値は張るものであった。
家に帰って、まずはそのまま生で食べた。ほっぺたがおちる!!というほどう
まいとは感じなかったが、牛とも豚とも違う味で、歯ごたえのある良い感触だっ
た。決してまずいものではない。うまいの領域に入れても間違いではない。
火を通して食べてみたが、これはおいしい。焼き肉のたれのあっさり風味系の
ものと非常によく合う。
と、まあ、食べた感想は食肉としても十分に良いのではないか。決して最後の
最後まで食べてたくない、というほどの味でも感触でもなかった。たしかに、牛
肉や豚肉の方が食べなれているので、それらの方が料理としてはバリエーション
も多く、味を十分に引き出す事は容易いのかもしれないが。
では、なぜここまで馬を食べるという事に抵抗を持つのだろうか。
ふと、ベトナムなど東南アジアの地域で犬を食肉として食べるという話を聞い
た事を思い出した。我々が犬を食べると聞くと、非常に抵抗があるが、現地では
それが普通なのである。
この差は一体何か!?
犬は我々にとっては食べるものではなく、番犬や愛玩などという様な生活に密
着したものであり感情移入が高い動物である。
これは、馬も同じではないだろうか。馬とは農耕を行う人にとってはなくては
ならないものであり、家族の一員と考えても言い過ぎではないだろうし、軍馬も
戦場で生死を共にするパートナーであり、乗るものの思い入れというのは相当な
ものではないだろうか。まさに寝食を共にする仲である。
だから、お腹が空いたからといって、「ちょっと待っててくれ、今肉を出すか
ら。」などと軽々しく扱う事はできないのである。それを食さなければならない
に至るのは、相当に困窮している状態であると言っても過言ではない。
食べ物であるかとは、その環境や感情、精神的な認識の中で判断されるもので
あって、食べられるものが必ず食べ物であるとは限らないのだ。
だから馬を食べるとは、当時の人にとって最後の最後までためらう事であった
に違いないのではないだろうか。