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雇われ式神使い

最終鬼 式神使いの試練


投稿者名:双琴
投稿日時:07/ 7/13



 誘拐事件以降、鬼道はすっきりしない日々を送っていた。
 順調に六道家の信頼を得つつあったのだが、あの件でそれも大幅に後退した。
 冥子の態度から変化は感じられないが、両親からは確実に嫌われたはずだ。
 どの程度かは分からないが、フミにあれだけ言われたのだから、挽回するには相当な努力と運が必要に思えた。
 しかし、煮え切らないのはそんな事ではなかった。
 今になって、冥子の命よりも己の願望を優先した事で苛まれ始めたのだ。
 特別な感情を持ち合わせているはずがない。そう鬼道は信じて疑わなかった。
 相手が冥子なら尚更だ。初顔合わせの時に遊びで殺されかけ、六道家への復讐のために平凡な子供時代を奪われたのだ。
 復讐は父親の逆恨みだが、かと言って好意的な感情が生まれたりはしない。思えば、冥子とは出会いからして最悪だった。
 だが、あの誘拐事件がきっかけで、その心が揺れ動いていた。


 星がよく見える夜。仕事を終えて帰宅した鬼道は自宅の玄関前に女の子が座っているのを見つけた。
 ドアに背を向けて冷たい地べたに腰を下ろし、膝を両腕で抱え込んでいる。膝に額を当てているので、髪が顔にかかって誰だか確認できない。
 不審に思いながらも、自宅前で居座られても困るので声を掛ける。

「どうかしたの?」

 女の子はゆっくりと顔を上げる。そして、泣きそうな声で鬼道の名前を呼んだ。

「マーくん……!!」
「冥子はん!?」

 その女の子は冥子だった。鬼道を見るなり、立ち上がりざまに抱きつく。意外な来客に驚く暇もない。
 ヒシと鬼道にしがみつくその様子から、何かあったと想像できる。

「どうしたんや?」

 優しく声を掛けても、鬼道の上着を掴む手に力を入れるだけで何も答えない。言いたくないと悟った鬼道は別の質問に変える。

「いつから待っとったの?」
「……ずっとさっき」

 聞き取るのがやっとの弱々しい声が返ってくる。冥子がこう言うのだから、かなり前から待っていたのだろう。
 膝を抱えていた姿を思い出した鬼道は胸を痛め、冥子の背中にそっと手を置く。

「そら悪かったわ。用があるんやろ? とりあえず、中に入ろか」

 片手で冥子を抱えたままドアのオートロックを開錠し、元気の無いお客を部屋に招き入れた。



 部屋に上がった鬼道は居間のソファーに冥子を座らせ、熱いお茶を用意する事にした。
 どうなってるのかさっぱり状況が分からないが、これから冥子の話しを聞くのが大変に思えた。上着を掴んで離さないので、ソファーに座らせるだけで苦労したほどだった。
 湯呑を乗せたお盆をテーブルに置き、急須にポットの熱湯を入れる。
 蓋をしてから円を書くように小さく揺すってお茶を馴染ませる。
 二つの湯呑に交互に注ぎ、冥子の前に差し出す。お茶を入れている間、冥子は鬼道の顔ばかり見ていた。
 お茶を入れ終え、屈んでいた鬼道は真っ直ぐに立ち、冥子に断りを入れる。

「心配させたらあかんから、理事長はんに電話してくるわ」

 つい先日、冥子が誘拐されたばかりなので、鬼道が気を遣うのも当然だった。これ以上、点数を落としたくないという側面もある。
 電話をしに居間を出ようとした時、背後から細い腕が回される。

「――ダメ!」

 腕を拘束するように抱き締めた冥子が電話をさせない。
 動けなくなって困った鬼道は首から上だけを使って背後を見る。それだと冥子の頭がどうにか見えるだけだ。

「お父さんも心配するで?」
「知らない! 帰りたくないの!」

 問い掛けをつっけんどんに無視して鬼道の背中に顔をくっつける。いつになく冥子は荒れていた。
 普段から我侭な冥子だが、基本的にいい子なので聞き分けはいい方だった。それがこの有様なので、これ以上は機嫌を損ねないようにした方がいいと思えた。
 鬼道は根負けしたように小さく息を吐く。

「……わかった。連絡はせーへん。お腹が空いたやろ。なんか作るから、放してくれへんか?」

 意固地になって腕を離すまいとする冥子をどうにか宥め、鬼道はキッチンに向かった。



 父親との二人暮しが長かった鬼道はそれなりに炊事をこなす。
 慣れた手つきで包丁を扱い、手際よく材料を火にかけた鍋に落とす。
 グツグツといい音と匂いを立て、料理が形になっていく。
 キッチンのテーブルに着いた冥子は、その様子をずっと見ていた。
 初めは機嫌が悪くて浮かない顔をしていたが、せっせと料理を作る見た事のない姿に知らずに見入っていた。

 作り始めて一時間弱で簡単な料理がテーブルに並べられる。
 大きめの皿にドンと盛り付けられ、見た目なんか少しも気にしない男の料理だ。
 茶碗にご飯を盛り、鬼道も席に着く。

「さてと、飯にしよか。いただきます」

 鬼道が手を合わせてから食事を始める。
 しかし、冥子は箸も持たずに料理を見ているだけだ。
 見かねた鬼道が箸を休めて口の中の物を飲み込む。

「ちぃと適当に作りすぎたか。美味そうに見えへんかもしれんけど、食えへん物でもないよ。食べてみぃ」

 それを聞いた冥子はブンブンと首を横に振る。鬼道は落胆して肩を落とす。

「そっか……。ま、無理して食べるほどの物でもないけどな」
「――そうじゃない。違うの〜……!」

 さっきよりも大きく首を振って誤解を解こうとする。

「マーくんが作ってくれた物だから。とってもおいしそうだから。手を付けるのが勿体無かったのぉ……!!」

 かわいい事を言ってくれるので、途端に鬼道は笑顔を漏らす。これがきっかけで冥子の機嫌も大分よくなった。

「また作ったるから、はよ食べぇ」
「うん、いただきま〜す」

 手を合わせてから箸を持ち、鬼道も箸を付けた皿から料理を口に運ぶ。

「おいしい〜。マーくんって料理が上手ね〜」

 そう言いながら、あまりのおいしさに涙が溢れそうになる。今まで食べたどんな物よりもおいしく感じた。
 言うまでもないが、冥子がいつも食べている料理と比べたら、手間も技術も材料の質も雲泥の差がある。
 しかし、この料理には特別な味がある。優しさという味がある。その味の前には、どんな料理も霞んで見えた。
 冥子の思い込みかもしれないが、確かに鬼道の優しさを感じた。

「ねえ、本当にマーくんは私のこと好き〜?」

 食事中、突拍子のない質問が飛ぶ。そう尋ねる冥子の目は真剣そのものだ。
 何も関連性が見えない質問に、鬼道は構えて深読みをする。
 これは誘拐事件で鬼道へ疑いの目を持ち始め、試しているのか。それとも、この言葉のままで他意はないのか。
 どちらにせよ、鬼道が選択する行動は一つしかない。それは、冥子を安心させる事だ。
 鬼道は正面からしっかりと目線を合わせる。

「好きや」

 この一言しか出てこなかった。騙しているのが辛くて胸が詰まる。前はこんな思いはしなかった。鬼道は心の奥底に眠る得体の知れない感情に翻弄され始めていた。
 それでも、冥子にはその一言だけで十分だった。瞬く間に瞳が潤み、洪水のように涙がとめどなく溢れる。

「やっぱりそうだよねっ。変なこと聞いてごめんね」

 冥子は箸を置いて手で涙を拭う。そうやって喜ぶ姿を見れば見るほど、鬼道の良心は深く抉られる。泣き止むのを黙って見ている事しかできなかった。



 夕食を食べ終えた後、鬼道は冥子を帰す事にした。玄関前で会った時より落ち着いたようだし、この時期に六道家を心配させるのはまずい。
 鬼道は食事の後片付けを済ませてから、居間で胃を休ませている冥子に声を掛ける。

「送ったるから、そろそろ帰らへんか?」

 瞬く間に冥子の顔が沈んだ。

「帰りたくない」

 冥子はそれだけ言って、座っていたソファーに寝転がる。
 何があったのか知らないが、これはかなり重症だった。
 困り果てた鬼道は一つだけお願いする。

「やったら、冥子はんが電話で報せてくれへんか? 親に心配かけたくないんや」
「それだけはイヤ」

 最後の頼みも断られ、鬼道も少し強引に出ざるを得なくなった。このまま流されたら、首の皮一枚で繋がっている六道家からの信用がマイナスに転じかねない。

「それも嫌なら、ボクが電話をして迎えに来てもらうしかないわ。ええんか?」

 それを聞いた冥子は勢いよくソファーから起き上がり、鬼道に詰め寄ってお願いする。

「お願い〜っ。ここに居させて欲しいの〜。お料理もお掃除もお洗濯も頑張って覚えるからぁ!」

 この言い振りだと当分の間は居付くつもりらしい。
 話が急に飛んで、どう切り返したらいいのか考えあぐねていると、更に突き抜けた事を冥子が口にする。

「冥子、マーくんのお嫁さんになるからぁ!」

 何気にとんでもない発言をされ、鬼道は軽い混乱状態に陥った。この発言に偽りがないのなら、目標の半分は達成された事になる。
 舞い上がっていた鬼道だが、冷静になって考える。
 誘拐事件で不信感を与えて間もない今、冥子を奪うような真似をしたら、確実に六道家を敵に回す事になる。タイミングとしては最悪だ。鬼道の目的は冥子ではなく六道家の権力なのだ。
 勢いでプロポーズされた感があったからか、こんな打算をする余裕があった。
 詰め寄る冥子の両肩に手を置き、穏やかに言い聞かせる。

「嬉しいけど、こんな形じゃ、ご両親が許してくれへんよ。それは冥子はんも嫌やろ?」
「私なら平気。マーくんとなら駆け落ちだってできるもの……!!」

 そう言って鬼道の胸に飛び込む。冥子の覚悟は思いの外に頑強だった。
 その駆け落ちをも辞さない姿についに鬼道も折れた。

「好きにしぃや。けど、駆け落ちなんて簡単にするもんやない。家族が悲しむで……」

 だが、本当に家を捨てる事になったら全てが水の泡だ。もっともらしい理由を付けて釘を刺す。最後まで損得を考えずにはいられなかった。
 ひた向きな愛に申し訳なく思えた鬼道は、謝罪の意を込めて抱き締める。
 胸の中の冥子は、その抱擁に幸せを感じるだけだった。






 硬い面持ちの鬼道が理事長室の前で深呼吸をする。ここに来たのは、昨日の家出の件を紀黄泉に報告するためだ。
 言わないように冥子から止められているが、そういう訳にはいかない。鬼道にとっては六道家から信用を得るのが第一なのだ。
 ドアを二回叩いてノックし、ノブに手を掛ける。分厚い木のドアがやけに重たく感じる。
 入室してドアを静かに閉めてから「失礼します」と、いつもよりかしこまってお辞儀をする。
 誘拐事件で失態を見せた事もあり、言動の一つ一つに気を配っていた。

「政樹ちゃん、待ってたわ〜。そんなに堅くならなくていいわよ〜」

 鬼道の堅い様子とは反対に、紀黄泉がにこやかに迎え入れる。
 紀黄泉は目を通していた書類を置き、机を挟んで立つ鬼道に向かい直す。

「政樹ちゃんから来てくれて私は嬉しいわ〜。冥子の事で来たんでしょ〜?」

 やはりと言うか、連絡しなくても向こうには知られていた。護衛と言う名目で冥子を監視していたのだろう。おかげで話がしやすくなったのも確かだが。

「そうどす。昨日、ボクが学校から帰ったらウチの前で待ってはりました。冥子はんが『帰りたくない』言うんで、一晩泊まってもらったけど……」
「迷惑を掛けてごめんなさいね〜」

 話を聞いた紀黄泉は眉間に皺を寄せ、心底申し訳なさそうな顔をする。

「それで、冥子は帰ってくれそう?」
「それは……」

 その質問に鬼道の顔も曇る。あの様子では、絶対に帰ってくれそうになかった。
 昨晩は鬼道にべったりで、寝る時も一つしかないベッドで一緒だった。冥子が「一緒に寝る」と言って聞かなかったのだ。六道家の目もあるし、何となく焦っているように見えた冥子を抱く気にはならなかったが……。
 今朝、仕事で家を出る時も「早く帰ってきてね〜」と手を振って送り出された。すでに新妻気分なのだ。
 そんな事を言えるはずもなく、鬼道は言葉に詰まる。
 よくない事態だと察した紀黄泉が事の顛末を話し出す。

「あの子ね、大喧嘩をして家を飛び出したのよ」
「冥子はんが?」

 あの怖がりの冥子に喧嘩は一番似合わない。鬼道は驚くと同時に、何がそうさせたのか気になった。

「この前の誘拐事件を調べていたら、犯人が特定できたの〜」
「捕まったんか?」

 鬼道にとってはあまり触れられたくない話題だが、犯人が逮捕されれば少しは鬼道に対する鬱憤が薄まる。それを期待したが、話は正反対に進む。

「捕まってはないわ〜。犯人は冥子に貝塚春雄と名乗ったそうだけど、同名で指名手配されていたの〜。彼は何度も誘拐事件を起こしていて、要求に少しでも逆らった被害者の人質は例外なく行方不明になっているの〜」

 指名手配されながらも犯行を繰り返すのだから、貝塚春雄はかなり危険な犯罪者だ。しかも、行方不明者を何人も出している凶悪犯だった。
 それを聞いた鬼道は己の軽率さに今更ながらぞっとする。

「主人がそれを知って激怒したのよ〜。それであの人、冥子にあなたと二度と会わないよう言い付けたの〜。そうしたら、大喧嘩になって〜」

 鬼道の全身から血の気が引く。もうすでに、あの失敗一つでデッドラインを踏み越えていたのだ。
 冥子が鬼道に見切りをつけなかったのがせめてもの救いだが、健太郎を敵に回したのは痛すぎる。

「しまいには、お見合い写真を突きつけて結婚相手を強要しちゃったのよ〜。あの子が家を飛び出すのも無理はないわ〜」

 健太郎は娘のためを想って鬼道を忘れさせようとしたのだろうが、見事なまでな逆効果になっただけだった。突然、冥子が「お嫁さん」にこだわった理由はこれだったのだ。
 話を聞いて青い顔をしている鬼道を見て、紀黄泉がふっと微笑みを向ける。

「私は別に怒ってないから気にしないで〜。あの子が幸せなら、他の事はどうでもいいの〜。あの人が教師をクビにして政樹ちゃんを追い出そうとしたのも、私が反対してあげたわ〜」

 運がいい事に、紀黄泉からのお咎めはなかった。しかも、冥子との間柄を応援してくれそうな雰囲気だ。
 紀黄泉が味方についてくれれば、健太郎も簡単にはちょっかいを出せない。これは大きな支援材料だ。
 一転して希望が見えてきた鬼道は、反省した素振りを見せて弁解する。

「あん時のボクはどうかしとりました。冥子はんとの仲を認めてもらいたくて焦ってたようで……」
「そうだと思ったわ〜。これからも、あの子をお願いね〜。あなたには感謝もしてるし、期待もしてるんだから〜」

 鬼道の言い訳は嘘だが、紀黄泉は信じようと思った。いや、信じたかった。
 鬼道のおかげで冥子が人として成長しているのは事実だ。以前の冥子なら、父親と本気で言い争うような事は絶対にしなかった。少しずつだが、娘が自立していく姿が嬉しかった。
 それに、冥子が悲しむ姿を見たくなかった。いつも鬼道の事を嬉しそうに話すので、娘が強く惹かれているのは紀黄泉にも分かる。利用されただけだと知ったら、どんなに悲しむだろう。
 二人を無傷で引き離すには、時が遅すぎた。何より、娘が選んだ相手を信じたいし、鬼道が悪い人だとはどうしても思えなかった。

「それで〜、迷惑ついでに一つお願いがあるんだけど――」

 鬼道は最後に頼み事を聞いて理事長室を後にした。廊下を歩く足取りが、部屋に入る前より幾らか軽くなっている。
 冥子との絶縁を聞かされ、一時は絶望感に襲われたが、紀黄泉の厚い信頼を確かめられた。
 依然、健太郎が大きな障害になっているのは変わりないが、今の立ち位置がはっきりして気分が楽になった。



 仕事帰りの車内、運転席の鬼道はリラックスできなかった。
 原因は助手席の人物にあった。
 息の詰まるドライブを終えて帰宅した鬼道を元気な声が出迎える。

「おかえりなさ〜――いぃっ!?」

 上機嫌で玄関に走ってきた冥子だが、急ストップの後、反転して奥の部屋に隠れた。
 そして、部屋の入り口から顔だけをそろりと出して鬼道の後ろを見る。
 そこには、六道家のメイドのフミが大きな鞄を抱えて立っていた。外を移動してきたので、さすがにメイド服は着ておらず、ズボンにシャツの姿だった。
 連れ戻しに来たと思い、おどおどと声を張り上げる。

「わ、私は帰らないわよ〜……!!」
「私はお嬢さまの身の回りの世話を、旦那さまから仰せつかっただけです。鬼道さまの許可もいただきましたので、お嬢さまがお屋敷に戻られるまでは、ここで働かさせてもらいます」

 紀黄泉の頼みはこれだった。冥子を連れ戻さないように健太郎にお願いした時、監視者をつけるという条件でどうにか合意を得た。その監視者がフミだった。当然ながら、冥子の護衛も兼ねている。

「マーくん、本当なの〜?」
「そういう事や」

 疑い深く冥子が顔以外を隠したまま、鬼道に真偽を確かめる。
 フミが苦手になりつつある鬼道は苦い口調でそれを肯定した。
 安心した冥子は隠れるのをやめて玄関に出迎える。

「そっか〜。それじゃあ、フミさんも、おかえり、になるんだ〜」
「改めて、よろしくお願いします」

 笑顔で迎える冥子にフミも表情を和らげて頭を下げる。鬼道は自宅なのに疎外感を感じていた。

 この後、フミと冥子の生活用品やら何やらがいっせいに運び込まれ、フミの指示によって全ての部屋が整理された。
 その間、鬼道と冥子は外で食事をしていたのだが、帰ってきて我が目を疑った。
 壁紙も張り替えられ、照明や家電や家具のほとんどが豪華なものに取り替えられていた。
 がらりと変わった部屋の様子に、鬼道は部屋を間違えたかと何度も玄関を出入りした。






 フミが来てから、鬼道は目覚まし時計を使わなくなった。

「鬼道さま、起床の時間でございます」

 心臓に悪い機械音ではなく、女性の声で朝を迎える。目を開ければ、メイド服を着たフミの姿がある。替えの服も用意してあり、至れり尽くせりだ。
 これは鬼道が望んでさせているのではない。初めは断ったのだが、フミが「これも仕事ですので」と頑として譲らなかったのだ。
 あげくには着替えも手伝おうとしたので、その時だけは退室してもらえるように頼み込んだ。寝起きは余計な所が元気なので、女性に見られたくない。

 着替えてキッチンに行けば朝食が用意してある。席に座れば熱いコーヒーが出され、言えば紅茶でも緑茶でも入れてくれる。
 食べた後、日頃の癖で食器を流し台に持っていこうとすると、すぐさま食器を取り上げられる。
 フミが来てからというもの、鬼道は何もしなくてもよく、家の事は全てフミに仕切られていた。
 そのおかげで朝もゆっくりできるのだが、不満がないこともない。

「マーくん、おはよ――」
「お嬢さま、朝食の用意ができております」

 挨拶にすかさず割り込んで会話を意図的に途切れさせる。
 フミは鬼道を尾行して裏切り行為を目の当たりにしている。だから、今でも鬼道を許していないし、二人の関係を認められなかった。
 それで、フミは冥子から鬼道を遠ざけようと日夜努力していた。
 特に夜は冥子を魔の手から守るために目を光らせている。実際は、一緒に寝ようとする冥子を阻止してくれるので、鬼道は助かっているのだが。
 鬼道への接し方は表面的には冥子と変わらないように見える。しかし、その内面は別物だ。
 それはフミの目を見ていれば分かる。同じ笑顔でも、鬼道に向けられるものは視線に力が入りすぎている。意識しているのかは分からないが、敵意を感じた。
 今も、キッチンに来た冥子をフミはとても自然な笑顔で迎えた。そこに壁を感じる鬼道だった。



 家出してから十日ほど、冥子は新しい生活に順応し始めていた。
 朝起きてすぐ鬼道と顔を会わせ、夜寝る前には鬼道に「おやすみ」を言う。ただそれだけで、毎日が楽しくて仕方がなかった。
 そして、それを間近で見守っているフミの胸中は複雑だった。
 生き生きとしている冥子を見ていると、このままでいいように思えてくる。
 しかし、フミは鬼道の腹黒さを知ってしまった。
 その事を考えるたび、憎しみとも悲しみとも言える気持ちに胸が覆われ、やるせなくなった。



 夜遅く、いつものように冥子が早く就寝した後は、フミと鬼道の二人きりになる。
 二人きりと言っても、フミの会話は形式ばったものばかりで、特にいい感じにはならない。
 話題も鬼道が振るだけだ。これも、健太郎と繋がりがあるフミと仲良くするためだった。
 リビングでくつろげない夜を過ごしていた二人だが、今日は珍しくフミの方から鬼道の座るソファーの隣に腰を下ろした。そして、唐突な質問をぶつける。

「正直に答えてください。あなたはお嬢さまのお気持ちに正面から応えられますか。その資格があるとお思いですか」

 それはあまりに無粋な質問だった。
 そんな事はフミも分かっている。だが、我慢できなかった。
 無邪気な冥子が騙されていると思うと、鬼道の口から本心を聞かずにはいられなかった。
 失礼な物言いにもかかわらず、鬼道は黙ってしまう。
 この問いには考えさせられる所があった。以前なら都合のいい返答をしたのだろうが、それができなかった。
 考え込んでいる事に気付いた鬼道は、自嘲とも失笑とも取れる笑みを漏らす。

「それで、どう答えて欲しいんや。ここでボクが嘘を言っても信じてくれるんか」

 返事を聞いたフミはそれももっともだと思った。自分は何を尋ねているのだろう。多分、どんな答えを聞いても受け入れられない。好きだと答えても疑いは晴れないだろう。嫌いだと答えたら憎むだろう。
 だが、この返答は馬鹿にしているとしか思えない。「そうですね」と、フミは席を立ち、鬼道を見下ろした。

「無駄なことを聞いてすみませんでした。でも、これだけは言っておきます。先程の質問に答えられないようなら、いずれ命を落とすことになるでしょう。身を引くなら今のうちです。それでは、今日はこれで失礼します」

 殺害予告めいた言葉を残したフミは、一礼してリビングを去った。
 怒らせてしまった鬼道は失敗に顔をしかめていた。






 玄関で鬼道は一人、呆然と突っ立っていた。
 仕事から帰ると冥子が抱きついてくる。フミが食事を用意して出迎えてくれる。
 いつの間にか当然になっていたこの光景が、今日は再現されなかった。
 帰宅した鬼道を出迎えたのは、真っ暗で静まり返った空間だった。「ただいま」と声を上げても返事は無い。
 ほんの少し前までは、誰も帰りを待っていないのが普通だったのだが、今は静けさが不安を掻き立てる。

 部屋に上がって電灯のスイッチを押した鬼道は目を疑った。雰囲気ががらりと変わっているのだ。
 カーテン、テレビ、机、何もかもが仕事に行く前と別の物になっている。なのに、違和感を感じたのは最初だけで、今は妙にしっくりきている。
 それもそのはずで、部屋の状態が冥子が転がり込む前のものに戻っていたのだ。

 鬼道は急いで駆け出し、他の部屋も確認する。
 キッチンも寝室も風呂場もトイレも、あらゆる所が見覚えのあるものに変わっていた。
 多数のぬいぐるみが置かれて賑やかだった冥子の部屋も、味気ない元の部屋に戻っていた。
 どの部屋にも冥子とフミがいた痕跡が見られない。
 その見事な模様替えを前に、三人で暮らした日々が幻だと思えてきた。

 混乱しかけた頭でもう一度、全ての部屋を見回る。二人がここにいた証拠を半ば意地になって探す。
 本人は認めたがらないだろうが、あの生活に安らぎを感じていた。冥子に甘えられ、フミに睨まれる生活も悪くないと思い始めていた。

 探し疲れて寝室のベッドに腰を下ろした時、枕の上から何かが落ちるのが見えた。それは小さく折り畳まれた紙切れだった。
 すぐに拾い上げて広げてみると、こう書かれていた。

 ――お嬢様は屋敷に帰られるそうです。
 色々とご迷惑をお掛けしました事を深くお詫び申し上げます。
 部屋はできる限り、私が手を加える前の状態に戻しておきました。
 鬼道様もこの部屋のように、お嬢様をお忘れになられるのが賢明だと思います。
 これは純粋にあなたを心配しての言葉です。
 このような形でしかお伝えできない事をお許し下さい――

 それはフミが残した書き置きだった。
 憤りで震える手が紙切れを丸めて握り潰す。この文面からは作為の色が滲み出ている。
 すぐさま携帯電話を手に取り、冥子に真相を聞こうとした。だが、電源を切っているのか繋がらない。
 悠長に待っていられない鬼道は、紀黄泉の電話番号を押した。






「あなた! 冥子をどこにやったのですかッ!!」

 ドアを開けっぱなしにして部屋に入るなり、紀黄泉が凄い剣幕で怒鳴る。その怒鳴り声は広い屋敷の隅々まで届きそうだと思えるほどだ。
 鬼道から話を聞いた紀黄泉は、目の色を変えてまっしぐらに健太郎がいる部屋に向かった。何も知らされてなかったのだ。
 その怒りを買った張本人は、ものともしないでソファーでテレビを観ていた。大画面にはトレンディードラマのワンシーンが流れ、若い男女が何やら言い争っている。
 ドラマにも神経を逆撫でされた紀黄泉は、問答無用でリモコンを奪って電源ボタンを押した。
 テレビの音が消えた途端、気まずさが倍増される。険悪な静けさの中、健太郎が真っ黒なテレビ画面を見たまま言い返す。

「冥子なら地下室に入れておいた。少し頭を冷やした方がいい」
「あ、頭を冷やすのはあなたです! いくらあなたでも、これ以上は許しませんよ!!」

 娘に甘かった健太郎がここまでするとは思ってなかった。驚きで少し間を空けた後、監禁したと聞いた紀黄泉は声を震わせて激昂する。
 並の怒り方ではない紀黄泉を前に、健太郎は立ち上がって正面から目を見据える。

「お前の許しなど関係ない。私は冥子のことを第一に考えて行動しているんだ。では聞くが、お前はあの男が信用できる人物だと言い切れるのか?」
「それは……」
「やはり言い切れまい」

 紀黄泉は言葉を詰まらせてしまった。
 鬼道には疑惑を持たせる要因が多すぎる。
 父親が六道家をよく思ってないのも紛れもない事実。冥子との式神争奪バトルの時には、親子揃って六道家への復習を公言していた。
 それに加えてあの単独行動をやられたら、疑いの芽は消せない。
 だが、紀黄泉も娘のことを想えばこそ、ここは鬼道を信じるしかなかった。

「言い切れますとも……。信用できますとも! 政樹ちゃんなら、必ずあの子を幸せにしてくれるわ!」

 自己催眠をかけるように、ゆっくりとはっきりと力強く断言した。
 最早、冥子と同じで手遅れだと感じた健太郎は、この事で口論するのをやめにした。そして、白黒をはっきりさせるために、ある提案をする。

「そこまで政樹君を信用しているなら、そろそろ彼を確かめてみようじゃないか。六道家のしきたりに則ってな」
「――時期が早すぎますッ!!」

 顔色を悪くした紀黄泉が間髪入れずに反対する。それほどまでにこの提案は危険なものなのだろう。
 しかし、健太郎は反対を想定していたかのように冷静に言い返す。

「何が早すぎるんだ。彼なら娘を幸せにしてくれるのだろう? そう言ったのは母さんじゃないか」
「それはそうですけど……」
「彼が信用できる人物なら問題は無い筈だ。それとも、さっきの言葉はその場しのぎの嘘だったと言うのか」

 紀黄泉は完璧にはめられた。こうなっては、何を言っても往生際が悪いようにしか聞こえない。
 反論できず口を半開きにしてまごつく紀黄泉に追い討ちをかける。

「明日にでも彼には試練を受けてもらう。命惜しさに逃げるようなら、私が彼を認める事は生涯無いと思え」

 勢いに押された紀黄泉は何も言い返せない。その様子をしばらく見てから、健太郎は部屋を後にした。






 照明器具の少ない薄暗い階段をフミは足下に注意して下りていた。両手で持った銀製のトレイには温かい料理が乗せてある。
 ひんやりと冷たい地下独特の空気にフミの足音だけが木霊する。音が反響するほどに地下の空間は広がっていた。
 ワインなどが保管してある貯蔵庫を通り抜け、鉄格子で隔離された部屋に行き着く。そこは牢と呼ばれる物と同じに見える。
 鉄格子には何枚もの護符が貼られ、その中の人物を厳重に閉じ込めていた。

「お食事をお持ちしました」

 一声掛けてから牢の鍵を開けて中に入る。部屋の隅にうずくまっている人影が見える。
 その隣のコンクリートの床には、一つ前の食事のトレイが置かれている。全く手を付けずに残された料理は冷め切っていた。

「お嬢さま、少しだけでもお食べください。お体に悪いです」

 フミが注意しても冥子は身じろぎ一つしない。ただ膝を抱えて黙っているだけだ。
 泣き疲れて腫れた瞳はどこを見ているのか分からない。その痛々しい姿にフミの胸が張り裂けそうになる。
 これ以上見ていられなくなり、冷めた料理のトレイと置き換える。その時、小さな声が聞こえた。

「マーくんに会わせて」
「それはできません……」
「どうして?」
「旦那さまの言い付けです。申し訳ありません」

 自分でも非情だと思いながら冥子の頼みを一蹴する。思い通りにならない冥子はそんなフミを責め立てる。

「フミさんもお父さまと同じなの〜? マーくんが悪い人だと思ってるの〜?」
「私は……」

 冥子はここに監禁されてから健太郎の説得を受けていた。その時の健太郎は鬼道を悪人だと決め付けていた。
 大好きな人が大好きな人を嫌う所なんて見たくない。冥子はそれが一番悲しかった。
 フミは答えようとするだけで、その先が口から出ない。質問に答えないので冥子は分かってもらおうと訴える。

「マーくんはいい人よ〜。怒ると怖いけど、とても優しい人なんだから〜。学校でもみんなに好かれているわ〜。短い間だけど、フミさんも近くに居たから分かるでしょ〜?」

 冥子の言う事は、言われるまでもなくフミが身に染みて感じていた事だった。だから、フミは迷って答えられなかった。
 お手伝いとして家出した冥子について行った時、鬼道の本性を暴くのが目的の一つとしてあった。
 だが、鬼道の冥子への接し方は概ね自然だった。
 極たまに苦しそうな顔をしていたが、そんなのが気にならないほどに二人は暖かな空気に包まれていた。
 それは、フミが思わず目を細めてしまうような微笑ましい日々だった。

「冷めないうちにお召し上がり下さい。それでは失礼します」

 このまま話を聞いていたら情に絆される。そう思ったフミは足早に牢を出て鍵を掛けた。






 一人だけの夜はやけに静かだった。
 テレビやラジオの音声が流れていても静かに感じた。
 らしくもなく、鬼道は一人ぼっちが寂しかった。
 気を紛らわせようと酒を用意したが、思ったように杯が進まない。気分がよくならない事には酒の意味がない。
 空虚な夜を過ごす中、電話の着信音が他の音に混じる。その音を敏感に聞き分けた鬼道は、素早く携帯電話に手を伸ばした。

「もしもし」
「政樹ちゃん? 紀黄泉だけど、今どこにいるの〜?」
「自宅やけど」
「そっちにお邪魔してもいいかしら。お話したい事があるの〜」

 紀黄泉から来訪の連絡を受けた鬼道は酒を片付け、洗面台の前で身なりを整えた。



 連絡から小一時間ほどした夜八時、玄関の呼び鈴が鳴った。

「はい」
「こんな時間にごめんね〜」
「いいえ、どうぞ」

 鬼道がドアを開けて出迎えたそこには連絡の通り、紀黄泉が直々にお出まししていた。
 和室の応接間に案内してお茶を出す。わざわざ直接会ってしたい話だから、よほど重要な話だ。座卓で向かい合う二人に、わずかだが緊張が見て取れる。
 紀黄泉が湯呑を両手で持って、熱いお茶を一口すする。一息ついて湯呑を卓上に戻した後、話を始める。

「唐突なことを聞くけど、政樹ちゃんはうちの冥子と結婚する意志はある〜?」

 聞いた瞬間、鬼道は「よし、来た!」と胸の内で叫んだ。冥子の親から結婚の話を持ち出されたのだ。六道家の承諾という最大の難関の突破口が見えてきた。
 当然、鬼道の答えは決まっている。

「あります!」

 そして、両手を畳に着けて後ろに下がり、頭を下げる。

「冥子はんをボクにください!!」

 こういう場で小細工は不要だ。一心に頭を下げてひたすらお願いする。
 鬼道の意志を確認した紀黄泉は頭を上げさせる。

「わかったわ〜。頭を上げてちょうだい。じつはね〜、本題はここからなの〜」

 これ以上に大事な話があると聞き、顔を上げた鬼道は不可解な顔をする。それで、紀黄泉が単刀直入に言いたい事を伝える。

「冥子と結ばれるためには、あなたに試練を受けてもらわないといけないの〜。それが昔からの決まりだから……」
「それなら受けます。受けさせてください!」

 鬼道にとっては渡りに船だ。それで堂々と冥子を手に入れる事ができるなら、喜んで試練を受ける。
 しかし、鬼道の勇み様とは違い、紀黄泉の顔色は優れない。目を閉じて小さく首を横に振る。

「安易に決めないで〜。このしきたりはあまりに危険だから、今では表向きは行われてない事になっているほどなの〜。記録では何人も命を落としているわ〜」

 閉鎖的な場所には、常識的に見て信じられないような祭りや風習が残っているものだが、千年以上の歴史を持つ六道家にもそれはあった。
 地域や家の戒律を重んじた時代なら、人が死ぬようなものも許されただろうが、現代社会ではそうはいかない。いくら本人が望んでも、死亡したら警察と世間が黙っていない。だから、六道家は隠れて伝統を守っていた。

「主人は明日、あなたに試練を課したいようだけど、急がなくてもいいのよ〜。主人のことは私がなんとかするから〜」

 紀黄泉は鬼道が逃げてもいいと思っていた。試練は明日でなくても受けられる可能性はある。それに、鬼道が帰らなかった場合を考えると恐ろしくなる。冥子がどうなるか分からない。
 しかし、今の鬼道に人の警告を聞く耳はなかった。あとたった一つの山を越えれば、目的地に到達できる。そう考えれば、少しばかりの危険など問題には思えなかった。

「命なんか惜しゅうない。それくらいの覚悟はできとるよ。そやから、できるだけ早い方がええわ」

 鬼道は臆するどころか笑みを浮かべているようにさえ見える。ここまで来ると勇敢を通り過ぎて無謀に思えてくる。
 目をぎらつかせる鬼道を見て、紀黄泉は一抹の不安を覚えた。






 試練場は六道邸の敷地内に存在した。
 そこは死の試練場と呼ばれ、六道家の式神使いが代々その資格を試されてきた場所である。
 冥子もその試練に挑み、友人の助けを借りてだが、見事に生還している。

 よく晴れた朝。鬼道は試練場の前に立っていた。
 ドーム状にブロックが積まれた建物の大半は草のつるで覆われている。
 入り口の前には大きな鳥居が構え、石の扉には封印の結界文字が描かれている。
 見届けに来た紀黄泉と健太郎が鬼道の前に出る。
 健太郎は敵意を剥き出しの厳しい視線で睨むように見る。

「ここが六道家に伝わる死の試練場だ。その名の通り、ここに入った者に命の保証は無い。それでも行くのか?」
「今ここにおるのが答えや」

 紀黄泉は二人の睨み合いを不安げに見る事しかできない。できれば、こんな形で試練を受けさせたくなかった。

「ルール違反になるから詳しくは言えないが、経験者として言わせてもらおう。君は生きて帰れない」
「あなた!」

 紀黄泉の叱責の声が広大な庭に響き渡る。手向けの言葉にしては酷すぎる。
 六道の血を引いてない健太郎も、かつては鬼道と同じ境遇だった。それだけに、この言葉には無視できない重みがある。
 しかし、健太郎は決して嫌味だけで言ったのではない。これも警告だった。
 健太郎としてのベストなシナリオは、ここで鬼道に諦めてもらう事だ。その方が冥子の説得が多少は楽になる。生きて帰られるのは論外だし、死んでもらっても後が思いやられる。

「心配してくれてどうも。必ず生きて帰って来ますよ」
「ならば証明してみせろ」

 ここまで来て肝を据えた鬼道は熱くならずに受け流す。
 決心の強さを見た健太郎は死にに行くのを静観する事にした。
 話がついたようなので、紀黄泉が試練場の扉を開ける。
 扉の前で印を結び、開錠の呪文を唱える。

「古より六道の者に伝わりし禁忌の地よ。試練の時は来た! 扉を開き、我が一族と添い遂げようとせん者を試したまえ!!」

 封印が解かれた扉は、自ら横にスライドして口を開けた。「中に入って」と促され、鬼道は真っ暗な建物の内部に足を踏み入れる。
 目が暗さに慣れ始め、室内の様子が見えてくる。そこには石畳の床があるだけで、他に目立った物は天井から吊るされた綱くらいか。ただ、室内に漂う空気だけは異質で、ここが普通の場所ではない事が分かった。
 後から入ってきた紀黄泉が綱の下で試練の開始を告げる。

「この試練を無事に乗り越えられれば、政樹ちゃんも立派なお婿さんよ〜」
「いつの間に婿になったんや?」
「そういう決まりだから、頑張ってね〜」

 土壇場で大事な条件を押し付けてから、有無を言わせずに垂れ下がる綱を引っ張る。
 すると、紀黄泉の足場だけを残して石畳がばらばらになって抜け落ちる。

「ちょい、嘘やろ!?」

 浮遊感に襲われた鬼道は足下を見て青くなる。石畳の下は底無しの闇が広がっていた。
 上に見える光がどんどん小さくなっていくのと同時に意識も遠のいていった。






 地下室には朝も夜もない。日は差さず、気温は年間を通して一定に保たれる。その気温は暖かいとは言えず、寝ようと思ったら、それなりの防寒が必要だ。
 うずくまって一睡もしなかった冥子は、朝食を出されて初めて、外は朝になったのを知った。そして、その朝食は時刻を報せただけで、本来の役目を果たす事はなかった。

 しばらくして、冥子は遠くから反響してくる靴音に気が付いた。朝食のスープが湯気を残しているので、昼食にはまだ早い。
 聞こえる靴音が次第に大きくなり、牢の前で止まる。

「頭は冷えたか」

 そう言いながら健太郎は牢の中を見る。フミの報告通り、食事は出されたまま、毛布もきれいに折り畳まれたままで使用された形跡はなかった。
 来たのが使用人ではないのを知った冥子は、急いで立ち上がって鉄格子に駆け寄る。

「お父さま、お願い。ここから出して!」
「わかった。出してやろう」

 健太郎は意外にもあっさりと承諾した。鬼道との仲を認めてくれたと思った冥子は、みるみる笑顔を取り戻す。

「お父さま、ありがとう……!」

 鍵が開けられ、解放された冥子は健太郎に抱きつく。そして、勘違いに気付かされる。

「もうあの男には会えない。だから、お前を自由にしたまでだ」

 その喜びようが気の毒に思えた健太郎は、きっぱりと早めに、牢から出した理由を教える。
 冥子は何を言われたのかをすぐに理解できなかった。抱きついたまま、童心のような瞳を向ける。

「どういうことなの?」

 健太郎は黙して答えない。冥子の瞳が不安で揺れ動く。

「マーくんに何かあったの? ねえっ、そうなの?」

 だんだん語気が強くなり、仕舞いには襟に掴み掛かって聞き出そうとした。
 健太郎はその迫力に気圧される事無く、冥子の細い腕を掴む。痛みに顔をしかめた冥子は襟から手を離した。

「あの男なら死の試練を受けている」

 それを聞いた冥子の全身から血の気が引く。「死」と言う言葉が胸に突き刺さる。

「そんな……私は聞いてないわ!」
「お前にふさわしい男なら帰って来れる。だが、あの男に限って、それは万に一つもない。あの男のことは忘れるんだ」
「勝手なことを言わないでっ!! 私にはマーくんしかいないの! 私なんかにはもったいないくらいの人よ!」
「いい加減にするんだ!! お前は騙されているだけだ。どうして分からない」

 言い合いになって逆上した冥子は、捕まれた腕を振り払おうとする。だが、どんなに抵抗しても女の細腕では敵わない。

「離してッ!!」
「どこへ行くつもりだ」
「マーくんの所に決まってるでしょ!」
「もう遅い。すでに試練は始まっている。行っても無駄だ」

 健太郎は少しも譲ろうとせず、腕を離そうとしない。自力ではどうにもならない冥子は涙声で式神を呼ぶ。

「インダラ!!」

 呼び声と共に一角獣の姿をした式神が現れる。牢を出た時点で冥子の能力は戻っていた。
 インダラが威圧するように前足で床を蹴る。

「私に手を上げるのか?」
「そうするしかないなら、仕方ないわ……!!」

 数秒の睨み合いの末、健太郎が折れて腕を離す。あの冥子の鬼気迫る顔を見ては、本気だとしか思えない。
 冥子はインダラの背に跨り、庭の試練場へ急いだ。

 屋敷内をインダラが疾走する。邪魔なドアは蹴破り、玄関からではなく窓から庭に出る。
 広い場所に出たインダラはぐんぐん速度を上げる。騎乗する冥子は振り落とされないようにしがみつく。鬼道の事しか頭にないので無茶も怖くなかった。



 紀黄泉は試練場の前で鬼道の帰りを信じて待っていた。
 その時、屋敷の方から馬の足音が近づいて来るのが聞こえた。
 反射的に見た先にはインダラが冥子を乗せて走る姿があった。そして、そのスピードが尋常ではないのも一目で分かった。
 この様子から、冥子の精神状態が不安定である事を想像するのは難くない。
 見る間に近づいて来る暴れ馬を前に、紀黄泉は両手を広げて立ち塞がる。

「止まりなさいっ!!」

 紀黄泉の一声でインダラは急ブレーキをかける。そして、紀黄泉の前で従順に足を止めた。
 冥子は勝手に止まったインダラを叱り付ける。

「どうして止まるの!? 走るのよっ!!」

 だが、インダラは微動だにしない。冥子は完全に式神のコントロールを失っていた。
 十二神将の持ち主であった紀黄泉は、いつでも冥子から支配権を奪えた。それは、まだまだ冥子が式神使いとして未熟だと言う事を表している。
 いきり立って目を血走らせる冥子を紀黄泉が諌める。

「今、この中で儀式が執り行われている最中です。しきたりは知っているでしょう?」

 試練を受ける者に手を貸してはならないのが決まりだ。紀黄泉は遠回しに「おとなしく見ていろ」と言ったのだ。

「そんなの知らないわ! 私に話もしないで進めたくせに!」

 焦燥感に追われて冥子の憤りが紀黄泉に向けられる。地下室に閉じ込められている間に重要事項を決められてはおもしろくない。
 しかし、儀式が始まった今となっては、それも些細な事だった。

「黙りなさいッ!! これは政樹ちゃんが自分で決めたことです。あなたにどうこう言う権利はありません」

 不安で気が立っているのは紀黄泉も同じだった。反論させないよう、厳しい口調で注意する。
 正論を盾にされ、冥子は悔しさに満ちた顔で口をつぐむ。ぶつけようのない感情に唇は震え、瞳には涙が浮かび始める。
 それを見た紀黄泉は言い過ぎたと思い、辛くても気遣って微笑んでみせる。

「きっと大丈夫よ〜。政樹ちゃんを信じて待ちましょ〜。あなたが好きな人なんだから、できるわよね〜?」

 冥子は無言で考えた後、インダラの背から飛び降りた。そして、鳥居の向こうの暗闇を見つめ続けた。






 気が付いた鬼道はベッドで寝ていたのかと錯覚した。倒れている地面は暖かくて柔らかい。
 そのおかげか、かなりの高さから落ちたはずだが、体が痛む所は一つもなかった。
 仰向けで真っ暗な上を見ていた鬼道は、霊の気配を感じて起き上がる。
 薄暗い空間の先に、ぼんやりと人魂と霊の姿が浮かび始める。

「あら〜、今度の婿も意外といい男ね〜。冥子にはもったいないわ〜」

 声と一緒に霊は宙を浮いて鬼道の目の前まで寄ってくる。その霊は十二単を着た女の子だった。顔は冥子に似ており、髪は背丈よりも長く伸び、眉は丸く揃えてある。
 顔の高さを合わせ、まじまじと鬼道の顔を観察する。それでも、長い髪は地面にぺったりと着いていた。

「婿入りは決定事項なんか!?」
「どお〜? ここで私と永遠の愛を育みませんこと〜?」
「聞いてへんし……」

 人の話を聞かず、いきなり口説き始めた女の子に鬼道は閉口した。

「退屈はさせなくてよ〜。私にできることなら何でもしてさしあげますわ〜」

 一人で盛り上がって顔を赤らめる女の子に鬼道はついて行けなかった。
 相手をしてくれないので、いじけた女の子は背を向けて地面にのの字を書く。

「私の誘惑を無視するなんて酷いわ。そんなに魅力が無いのかしら……」

 落ち込む女の子を呆れて放置していると、今度は勝手に怒り始めた。

「プンプン! こんなに冷たい殿方は初めてでしてよ〜。これは減点ものですわ〜」
「何を減点するんや?」
「六道家の歴代婿養子を私的に順位付けしていますのよ〜。知らないの〜?」
「知るか!」
「ちなみに、あなたの順位はいい線いってるわよ〜」

 またも勝手に話し続けそうなので鬼道が少し強めの口調で尋ねた。

「ところで、あんたは誰や? 試練がどうとか言われてここに来たんやけど」
「あら? まだ名乗ってませんでしたか」
「名乗ってへんわ!」

 いかにも意外だという顔で聞き返した後、居住まいを正して名乗る。

「私は六道家初代の霊です。試練は私があなたを見定める事ですから、すでに始まってますわよ〜」

 さっきからツッコミを入れてばかりだったので、冥子の祖先だと聞いて納得した。
 この初代は冥子を更に身勝手にして天然を入れたような感じだ。
 初代との会話は冥子と付き合いなれていても疲れを覚ずにはいられない。
 試練が始まっていると聞いて鬼道も姿勢を正して真剣な表情になる。

「で、先祖様の見た目では、ボクはどうなんや?」
「それを今から見極めます。私の問いに答えてください。言っておきますが、嘘を吐いても無駄ですわよ〜。この空間は私の支配下にあります。あなたの心は隠せません。嘘を吐いた時点であなたは永遠に亜空間に閉じ込められますわよ〜」

 試練の内容を聞いて表情が強張る。この試練は分が悪すぎる。これでは鬼道の企みが暴かれてしまう。
 歯噛みする鬼道に追い討ちのような条件が付け加えられる。

「ま、嘘を吐かなくても、あなたに婿の資格が無いと判断された時点で、ここから出られなくなりますけれど」

 鬼道は初代がはったりをかましていることに一途の望みを託した。
 本当に心を読めるようなら、命が尽きたも同じだ。

「あらあら、私をお疑いになるのですね〜」

 鬼道の心音が一瞬、跳ね上がる。
 心を見透かされたと思ったのだ。
 額にじわりと嫌な汗が浮かぶ。

「いいですわ〜。今から、好きな数を思い浮かべてください。当ててさしあげますから〜」

 鬼道はできる限り偶然では当たりっこない数を思い浮かべた。
 初代は、挑戦的な目で見る鬼道を、にこりと見やった。

「五と無量大数の二つですわね〜。どう? 当たってるでしょ〜」

 鬼道は答えを聞いて愕然とした。
 正解なのだ。
 初代は好きな数を思い浮かべろとだけ言った。
 だから、彼は一つだけではなく、二つの数を思い浮かべた。
 それでも、初代は見事に当てて見せた。
 最悪の事態に陥ってしまった。
 ショックで全身の感覚が薄れ、平衡感覚もおかしくなってくる。

「うふふ、あなたは今、大変後悔されていますわね〜」

 初代は全てを見透かすような目でじっと見る。

「では、質問を始めます」

 鬼道はごくりと固唾を飲み込んだ。

「あなたは私の子孫の冥子を愛していますか〜?」

 第一問から的確に要点を突いてきた。鬼道は冷や汗を掻くばかりで答えられない。
 この問いは厳しすぎる。権力と財産を目当てに冥子に近寄った鬼道には答えられない。

「どうしたの〜? 答えないと試練は終わりませんわよ〜」

 答えなくても亜空間から抜け出せない。嘘が通じないなら何を答えても変わらない。
 腹を括った鬼道は大きく息を吐いて諦めたように笑みを作った。

「いいえ、愛してへんよ」

 それを聞いた初代は顔色一つ変えずに次の質問に移る。
 嘘ではないと分かった鬼道は、己の冷酷な本性を突きつけられた気分だった。

「では、他にあなたが愛している人はいますか〜?」
「いてへん」
「あなたが冥子と結ばれたとします。冥子が突然の病に倒れ、あなたの全財産を以ってすれば薬が手に入ります。どうしますか〜?」
「見殺しやろな」

 二人は淡々と問答を繰り返していった。
 幾つか質問した後、初代は目を閉じ、黙って思案に暮れる。
 全てを曝け出した鬼道は清々したのか、穏やかな面持ちで審判を待った。
 二人がいる場所以外に何一つ見えない亜空間は本当の静寂に包まれた。
 そして、初代がゆっくりと目を開けた。

「あなたは面白い方です。どうして嘘しかおっしゃらないのですか?」

 嘘を吐いた覚えのない鬼道は、うんざりしながら反論する。

「嘘なんて吐いてへんよ。第一、嘘吐いたらその時点でアウトやん」
「あれは嘘よ〜」

 もっともな反論を聞いた初代は、あっけらかんと己の嘘を認める。
 それを聞いた鬼道は開いた口が塞がらなかった。

「試練はあなたと私が出会えた時点で終わっていたのです。今、立っている所は何の上だと思いますか? それは、手の平の上です」

 驚いた鬼道は暗い空間を目を凝らして見渡す。すると、ぼんやりと大きな指が何本か見えた。

「この手は誰のだと思いますか?」

 そう聞かれても、鬼道には答えられない。いや、想像はできたが答えたくなかった。
 黙っている鬼道に初代がにっこりと笑みを向ける。

「あなたが思っているとおり、冥子の手ですよ〜。とは言っても、これはあなたの冥子への想いが具現化したものですが」
「んなアホな」

 この手に支えられた時点で試練は達成されていた。その後の事は初代の興味本位で行われていただけだった。
 信じたくない鬼道は簡単に受け入れようとしない。
 もし、初代が言っている事が本当なら、信念がいつの間にか変わっていた事になる。
 鬼道は六道家の権力と財力を得るために冥子を利用していたはずだ。

「それと、私が心を読めるのは本当ですよ〜。あなたの深層意識まで見させてもらいましたから〜」

 笑いながらさらっと恐ろしい事を言う。深層意識は本人でも把握できない領域だ。さすがは六道家の初代というところか。

「あなたの心は愛で満ち溢れている。冥子への愛、式神への愛、教え子への愛、その他にもいっぱい」

 初代の言葉を聞きながら、鬼道は世界が崩れるような感覚を味わっていた。一つの目的のために、ひたすら否定し、隠してきた想いが抉り出される。
 冥子に優しくしてきたのも、学校でいい先生をしてきたのも、全て裏がある行為で善意など微塵も無いと思い込んできた。それが間違いだと初代の力によって証明される。

「――なのに、あなたは気付かない。いいえ、気付こうとしないのね……」

 核心を突かれ、衝撃を受けた鬼道は呆然と涙を流す。
 冥子を命懸けで守った時の感情は偽りではなかったのだ。あの時、愛しい者を失くしたくない、と純粋に思っただけなのだ。
 全ての想いを認めるしかない鬼道は、心を曝け出した事に恥ずかしさを感じる余裕はなく、涙が頬を伝っているのも気付いていない。
 初代は鬼道の目の前まで近づき、実体の無い体で抱き寄せる。

「本当に優しい人……。もっと人に愛されてもいいのよ」

 体温は感じられないが、お互いの霊気が干渉し合い、慈悲深い温かな霊波が鬼道に染み渡った。

「私はあなたが気に入りました。これからも冥子をよろしく頼みますね――」

 初代の声が遠のいていき、霊気も希薄になっていく。
 初代の姿が完全に消えた頃、鬼道は元いた祠に一人佇んでいた。
 床は元通りに戻り、試練を受けたのが夢のように思えた。
 しかし、鬼道の頬は涙で濡れ、体には初代の温もりが今も残っていた。
 涙を袖で拭い、眩しい出口に向かった。



 冥子は試練場から出てくる人影を見るなり駆け出した。そして、その胸に飛び込む。

「信じてたから……、帰ってくるのを信じてたから……」

 必死に抱きつく冥子の想いが体温と一緒に伝わってくるようだった。
 そして、胸に潜めていた想いを知った鬼道は、そんな冥子を心から受け止められるような気がした。
 思えば、試練での初代は鬼道を試しただけではなかった。鬼道の心の壁を壊す手伝いもしてくれたのだ。

「ただいま」

 鬼道も想いを伝えようと強く抱き返す。想いに任せた行動に、華奢な体を気遣うような素振りはない。冥子は痛みに顔を歪める。
 しかし、想いは確実に伝わっていた。苦しいはずの冥子が笑みを浮かべ、喜びの声を漏らす。

「マーくん……大好き」
「ボクもや」

 抱擁が強すぎて冥子の声は途切れ途切れになってしまう。
 だが、この息苦しささえ快楽に昇華される。このまま壊して欲しいと願うほど歓喜に溺れていた。
 それは鬼道も同じで、想いと一緒に体もこのまま一つになりたいと思うほどだった。

「試練は乗り越えたようね〜。これであの人も認めるしかないでしょう」

 いつまでも抱き合っているのを見て、紀黄泉は涙ぐんで呟いた。






 どこまでも続く白い砂浜で鬼道は水平線を眺めていた。太陽は真上から砂を焼き、波の音が耳に涼しい。

「マーくんも靴を脱いだら〜? 冷たくて気持ちいいよ〜」

 波打ち際では、裸足の冥子がドレスの裾をたくし上げて水遊びをしている。

「きゃっ――あーっ、帽子が〜……」

 海風が強く吹いた時、冥子のつば広の帽子が飛ばされた。
 冥子は砂浜を転がる帽子を見て、手をあたふたと振るだけだ。
 裸足だから仕方がないと思った鬼道は、代わりに帽子を追いかける事にした。
 追いついて拾い上げた帽子は、海水に濡れはしなかったものの、砂にまみれてしまっていた。
 丁寧に砂を払い落とし、持ち主の下へ持ち帰った。

「ありがとう〜」

 冥子はこの日差しに負けないくらいの眩しい笑顔をお礼に返す。
 帽子を被り直している間に、鬼道はズボンのポケットから何かを取り出した。

「ん? な〜に〜?」

 両手で帽子のつばを摘みながら、差し出された小箱を見る。

「これ、受け取ってくれへんか?」

 冥子はとりあえず受け取って中を確認してみる。

「わぁ……きれいな指輪ね〜」

 それはダイヤが主役のプラチナリングだった。
 大粒のダイヤから、かなり値の張る代物だと見て取れる。だが、富豪の冥子から見れば並以下に見えるかもしれない。

「それ、婚約指輪なんや。冥子はんにそれは貧弱やと思うけど、ボクにはそれが精一杯や」

 一瞬、冥子の頭が空っぽになった。こんなに嬉しい事はない。
 実感するにつれ、嬉し涙が溢れ出す。

「そんな事ない。こんなに素敵な贈り物は生まれて初めてよ〜。大切にするわ〜」

 宝石箱をきゅっと握り締めた時、またも強風が帽子を飛ばす。
 今度は海に向かって高く舞い上がった。

「あかん、帽子が――」
「いいの……」

 手を伸ばした鬼道の胸に抱きついて制止する。
 鬼道は飛んでいく帽子を目で追うのをやめ、寄り添う小柄な体を優しく包み込んだ。






 完


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