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ANADEUS

9.オペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ」 第2幕第30曲「女はみなこうしたもの」


投稿者名:赤蛇
投稿日時:06/ 3/ 2

ジルベルネン・シュランゲ―――
「銀蛇亭」とでも訳すその店は、ウィーン市街を取り巻く城壁の近くにあった。

かつて二度にわたるオスマン=トルコ軍の包囲にも耐えた堅牢な城壁は、攻城砲の出現と発達によって、もはや無用の長物と化していた。
また、人口の増大と都市の発展によって、その町並みは次第に城郭の外側へも拡がり続け、今となっては人々の通行と通商を妨げるものでしかなかった。
この後十九世紀になると、ドイツを中心としたヨーロッパの各地で城壁は取り壊され、幅の広い環状道路や公園としてその姿を変えていくことになるのだが、この時代ではまだかろうじて中世の名残を世に伝えていた。

そんな城壁がそびえ立つ通りの一角にある店の前に、美神たちは誘われるままにやって来ていた。
店の名前の意味を改めて問うまでもなく、表に掲げられた看板には銀色の蛇たちが形どられ、赤く長い舌を出して新来の客を見定めている。
三匹の蛇はまるで生きているかのように精巧だったが、ギリシア神話のメデューサの頭よろしく絡み合い、鎌首をもたげて睨めつける様は、お世辞にも趣味が良いとは思えなかった。
だが、まもなく美神たちは、その看板の意味を奇妙な錯覚と共に納得することとなる。

半地下となっている店に通ずる狭い階段は薄暗く、角が磨り減って丸みを帯びた石段は露に濡れていた。
滑らぬように足音を響かせて下り、がっしりとした木の枠が無骨にはめられた入り口をくぐると、それまでのひんやりとした空気からは一転して、ホールに満ちる喧騒と熱気に包まれた。
陽もすっかり暮れた時刻とあって、一日の仕事を終えた者たちが席を埋め、思い思いに飲み、食らい、盛り上がっている。
こうした光景は、今も昔も変わりがない。

「こんばんは、ヨゼファ。開いてるかしら?」

ここまで半ば強引に美神たちを誘って連れてきた人物―――コンスタンツェが店の主に声を掛ける。
頻繁に来るのであろうか、その声はずいぶんと親しげであった。

「おや、コンス。いらっしゃい」

賑わう店内で忙しく動きながらも、ふと手を止めてにこやかに返す女主人らしき人物を見て、美神は小さく、あっ、と声を上げた。

同性としても思わず目を向けてしまうほどの、質素な服装の中でも存在感をアピールする豊満な胸。
仕事柄束ねてはいるが、腰まで伸ばした、光の加減によって妖艶な紫色にも見える長い髪。
見覚えのある、小さな蛇を意匠したイヤリングが光る、耳たぶの欠けた特徴のある耳。
細面で切れ長の目がかなりきつい印象を醸し出す、冷ややかで整った美しい顔。

そのどれもが美神の記憶にある強烈な印象、幾度となく激しい闘いをやりあった宿敵、メドーサのものと一致していた。

「何人―――五人かい。そうさね、あそこのテーブルが開いているから、そこを使いな」

「ありがと」

ヨゼファと呼ばれた女主人は、戸惑う美神のことなど一向に構わず、少々ぶっきらぼうな口調で店の奥を指し示す。
コンスタンツェも慣れているのか、特に気にするでもなく、さっさと奥のテーブルのほうへ皆を案内していく。
すでにヨゼファは次の客の注文に取り掛かるべく、キッチンの奥へと姿を消していた。



現代でも人気のウィーンの名物料理の一つに、『シュニッツェル』というものがある。
さながら「仔牛肉のカツレツ」とでもいった料理であるが、大量の油を使ったディープ・フライングではなく、ラードで炒め揚げて作るのが特徴だ。
一説には、十九世紀中頃に北イタリアの独立を阻止したラデツキー将軍がナポリより伝えた、とも言われるが、十六世紀頃にはすでに食べられていたと見るのが正しいようだ。
そんなシュニッツェルの皿や、これまた代表的なハンガリー料理のグヤーシュが並ぶテーブルを見つめ、美神はこの奇妙な晩餐に思いをめぐらせていた。

粗末で大きな木組みのテーブルを挟んで向かい合っているのは、自分と同じ顔を持ち、知らぬとは言え魔族の妻となっている女、コンスタンツェ。
その隣に並んで座っているのが宮廷作曲家のアントニオ・サリエリであり、ある意味想像どおりというべきか、前世での西郷と同じく、西条と瓜二つの顔をしていた。
さらには、雰囲気こそ少し違うが、メドーサにあまりにもよく似ているヨゼファ・ダイナー。

何度ヒャクメに確かめてみても、自分たちの魂にはかかわりのない別人だというが、どうも腑に落ちなかった。
これは何らかの陰謀、たとえば宇宙のタマゴのようなものを使った、周到に用意された罠なのではないか、といった疑念が頭をよぎる。
しかし、自分たちがここへ来たのは偶発的なもの、平たく言えばヒャクメのいらぬ好奇心が巻き起こしたトラブルにすぎない。
あるいはヒャクメこそが黒幕と考えれば一応の辻褄は合うが、この愛すべきまぬけな神族がそんなことをする理由もないし、出来るはずもない。

モーツァルトの話の背後に見え隠れするアシュタロスの影には不安が募るが、この自分がはっきりしない影を闇雲に恐れ、おののいているというのも癪に障る。
何より、もう自分の魂にはエネルギー結晶などないのだから、おそらく狙われる心配はあまりないように思えた。
あたりさわりのない会話を交わし、料理とワインを口に運びながら、とりあえず注意深く成り行きを見守ることに決めた。



それにしても、と美神は目の前に座り、楽しそうに笑うコンスタンツェを見て、あらためて思う。
この女はやはり自分とは関係のない、全くの別人だ、と。

あの時、突然として作曲に没頭し始めたモーツァルトに対し、美神は戸惑いを隠せなかった。
いくら呼びかけても反応はなく、まさに取り憑かれたかのようにチェンバロを弾き続ける。
さすがに腕を取って無理矢理中断させることはためらわれたが、完全に無視された形になって、腹が立つというよりも泣きたい気持ちになった。
そんなとき、彼女が声を掛けてきたのだった。

「ダメですよ。ああなっちゃったら、もう、何があっても止まらないんですから」

「―――あっ!」

「こんばんは、ドッペルゲンガーさん」

虚を衝かれた形になってとまどう美神に対し、コンスタンツェは屈託のない表情を見せて笑った。
宮殿で見かけたので知ってはいた自分でさえ、間近で見るとやはり落ち着かない変な気持ちになるのだが、コンスタンツェにはそんなことを気に掛ける様子は微塵もない。
それどころか、突然の訪問の非礼を詫びるおキヌをとりなし、あたかも旧知の来客かのように接するのだった。

仮にこの時代の人間が他人に対して寛容だとしても、まったく見ず知らずの、それも自分にそっくりでありながらどこの国の人間かも定かでない相手に対して、こうも自然体でいられるものだろうか。
別に騒ぎ立てられたいわけではないが、それこそ幽霊か魔物でも見たかのような反応をするのが普通だろう。
事実、多分に冗談まじりにせよ、彼女自身がこちらを「ドッペルゲンガー」と評してみせたではないか。
現代においてもなお、「見た者は近いうちに死ぬ」と信じている者が少なくない出来事を、迷信深いはずのこの時代の人間が平静に受けとめているというのは、いかにも不自然だった。
他の者といい、彼女といい、どうにも不可解なことばかり続いており、脇にのけたはずの考えが再び頭をもたげて来る。

「―――どうしたんですか?」

黙考に耽りかけた美神は、コンスタンツェの声でふと我にかえった。
気づかぬうちに厳しい目でも向けていたのかと思い、らしくもなくうろたえてしまう。

「な、なんでもないのよ。ちょっと考え事をしていたので―――」

「ひょっとして、お口に合わないのかと思って・・・」

「そ、そんな事ないわよ。おいしく頂いているわ」

「よかった」

そう言ってコンスタンツェはにっこりと微笑む。
よやも自分には出来そうにない、可愛らしい笑顔だった。
頃合を見計らい、それまでヒャクメと談笑していたサリエリが、先程から抱えていた疑問を投げ掛ける。

「ところでコンスタンツェ、そちらの方はどなたなんだい? 君の姉妹、ってわけじゃないよな?」

「いいえ、私も知らないわ。てっきり、ウォルフィの新しい恋人かと思ったんですけど―――」

誤解を招くコンスタンツェの説明に、美神は顔を真っ赤にして抗議する。

「ちょっと! なんで私があんな魔――男の恋人なんかになるっていうのよっ!」

「あら、違うの? でも、なんか脈はありそうよね」

「違うって言ってるでしょっ!! だいたいアンタ、自分の夫が浮気してて、なんでそんなに冷静なわけ!?」

「あ、やっぱり・・・」

「だからっ! 違うってばっ!!」

陰鬱に落ち込んでいたと思えば、たちまちヒートアップする美神を面白そうに見つめ、コンスタンツェは落ちついた声で言葉を返す。

「愛することと、恋をすることは全然別のことよ。お互い、気にすることでもなんでもないわ」

「そんなのって―――!」

「でも、もしあなたがウォルフィを愛するというのなら―――」

コンスタンツェは少し言葉を切り、僅かに口元を歪ませて笑う。
ムーシュと呼ばれるつけぼくろが妖艶な気配を漂わせるが、それとは逆に目元は細く、冷ややかになるばかりだった。

「―――許さないわ」


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