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かくて魔神は律に叛き

己が破滅の夢を見る


投稿者名:詠夢
投稿日時:05/ 7/30


青白い鬼火に浮かぶ回廊を、ひとり歩いていく。

己の執務室に戻れば、仕事が山のようにあるが、気は乗らない。

気分転換の散歩、というわけでもないが、私はあても無く歩いていく。

ふと、回廊の向こうから一人の男が歩いてくるのに気づいた。

褐色の肌に、後ろに束ねた白銀色の長髪。

顔には、薄闇の中だというのにサングラスをかけている。

だが、それでもしっかり見えているのだろう。男は私に気づいて片手をあげる。


「やあ、久しいな。」


にこやかに近づいてくる男に、私は頷いて返す。

旧き知り合いに向けるにしては、やや複雑な表情で。


「ああ…そうだな、バァル。」







《 かくて魔神は律に叛き 〜己が破滅の夢を見る〜 》







「ベルゼビュートだ。」


目の前の男、バァルはいきなりそんな事を言い出した。

私が訝しげに眉をひそめると、彼は指を立ててもう一度繰り返す。


「今の私は『ベルゼビュート』だ、アシュタロス。…バァルの名は、他の者に譲ったよ。」

「そうか…そうだったな。」


古代オリエントの偉大なる豊穣神バァル。

彼は一神教に取り込まれる際に、いくつかの魔神に分化した。

目の前の男は、その本体とでも言うべき存在だが、やはり思うところがあったのだろう。

以前の名は分化した別の魔神に渡し、彼自身は別の名を持つことにした。

確か、名の由来は『バァル・ゼブル(高き館の王)』であったか。

それが今では『バァル・ゼブブ(糞山の王、蝿の王)』とはな。

本来、蝿を追い払いて豊穣をもたらす神が、蝿の魔神になるなど、これほど皮肉なこともあるまい。

いや…何より皮肉なのは…。

私がそんな思考に沈んでいると、今度は彼が不思議そうに眉を持ち上げた。


「どうかしたかね?」

「…いや、何でもない。…相変わらず忙しそうだな。」


彼が脇に抱えた書類を見ながら言ってやると、彼は苦笑を浮かべる。


「まったくだよ。だが、君とて人のことは言えまい。仕事が滞ってるそうじゃないか。」

「…気が乗らんのだ。」

「気分で仕事を止めてもらっても困るのだが…まあいいさ。気分転換も必要だろうしね。」


そう言って彼が指を鳴らすと、壁の一角が突如として開け、テラスが出現する。

彼はそちらへと足を向けながら、私を促す。


「少しお茶に付き合いたまえ。私も、気分転換がしたかったところだ。」


その提案に私は、ほんの少し逡巡し、結局頷いて後に続いた。











霧というか雲というか、それが周囲をたゆたい流れていて、まるで幻夢郷の如き景観。

古びた石造りの宮殿は遥か下方、遥か遠方まで広がっている。

『万魔殿(パンデモニウム)』の壮麗たる眺めに、しばし心奪われる。


「君とこうして向かい合うのは、いつぶりだろうな。」


ベルゼビュートはそう言って、こちらにカップを差し出した。

私は軽く礼を言って、それを受け取る。


「さあ…忘れたな。」

「少なくとも、私たちが神であった頃以来なのは確かだな。」


神であった頃。

それは、私の中に苦い記憶を呼び起こす。

表情に出ていたのだろう、ベルゼビュートが気遣わしげな視線をよこす。


「…気に病むな、というのは無理だろうが、嘆いても仕方のないことだ。」

「だが、バァル!! 私は…!!」

「ベルゼビュートだ。」


さらに言い募ろうとした私を、彼はあっさりと遮ると、一度カップを口に運んで言葉を続ける。


「彼女を…アスタルテを止められなかった責は、私にもある。君だけのせいじゃないさ。」


アスタルテ。

かつて私の中へと消えていった女神の名は、いまなお私の心に突き刺さる。

本来なら、ここにいるのは私ではなく、彼女のはずだったのだ。

『アシュタル』という名だった私を取り込み、上級魔神としての力をもって。

だが、彼女はそれを拒み、逆に私が生き残ってしまった。

皮肉なことに、彼女の夫であったバァルはその力の余り、分化までさせられたというのに。

その通達が来たのは、彼女が消えてしまった後だった。

何者かの悪意すら見え隠れする、運命のすれ違い。

もしも、彼女にバァルの力が分け与えられていたのならば─。


「──アシュタロス。」


ふいに呼びかけられ、またもはっとする。

そんな私にベルゼビュートは、やれやれといった様子で苦笑した。


「そう考え込むな。きりが無くなるぞ。」

「…私は…私はどうしても我慢できんのだ。」


ぎりっと拳を固める。

悔しさにかみ締めた唇から、血の味が広がる。


「何故、彼女が消えねばならなかった? 何故、私ではなかった? 私のこの苛立ちはどうすればいいのだ!?」

「落ち着きたまえ。」


立ち上がりかけた私の肩に、ベルゼビュートの手が置かれる。

その感触に、荒れ狂う寸前だった私の心が、わずかばかり治まる。

私が落ち着くのを見計らったのだろう、ややあってベルゼビュートが口を開く。


「…まったく、よく出来たシステムだな。」

「何?」


だが出てきた言葉は唐突なもので、私は眉をひそめる。

しかし、そんなことは気にも留めていないのか、彼は言葉を続ける。


「私はな、アシュタロス。彼らが憎いのだよ。」


一神教の神とその御使い。

それにおもねる人間。

それのみならず、今の世にあって神々と呼ばれるもの。

彼女にそんな運命を強いた全てのものが、どうしようもなく憎いのだと。

ベルゼビュートは、遠い目をしてそう言った。


「だから、私は彼らに仇を為す。魔神としての責務を、果たすのさ。…まったく、よく出来たシステムだよ。」


ここに来て、彼が何を言いたいのか、私にもようやく理解できた。

闇に追い落とされし魔神は、その怨みから人や神に仇為す。

そして、それらは神に仇為すがゆえに、悪と呼ばれ。


「…まったくだ。まったく…悪意に満ち満ちた、よく出来たシステムだな。」


吐き捨てるように言った私の言葉に、ベルゼビュートは静かに頷く。


「そう。だが、私はそれを受け入れる。『それがどうした』と思えるほど、彼らが憎いからだ。」


静かな口調の中にも、抑えようの無い憎悪が滲んでいた。

そこにいたのは、かつての豊穣もたらす穏やかな男ではない。

魔神の名に相応しき黒き魂を持つ、復讐者であった。

そして、私は─。


「…私とてそれは同じ思いだ。だが、それを易々と受け入れたくなどない!!」


まるで掌の上で踊らされてるような、そんな茶番劇を。

否が応でも悪役になるよう仕向けられて、その通りにしてしまうなど。

彼女を奪った世界律に従うなど。

ならば─。


「私は、全てに叛いてやる…。 神にも、人にも、そんな運命にも…!!」

「……。」


ベルゼビュートは、何も言わない。

ただ表情には、どこか満足げな雰囲気が、諦観とともに浮かんでいた。

私がそう言い出すことを、半ば覚悟していたように。









「…さて、私はそろそろ仕事に戻らせてもらうよ。」


ややあって、ベルゼビュートはそう言って席を立つ。

彼が指を鳴らすと、彼が使っていたティーセットが消える。


「実質、私が働かないと魔界はやっていけないのでね。本当に忙しいんだ。」

「……また、エスケープしたのか、あの王は。」


王の威厳の欠片も無い軽いノリで、「ほな任せたで〜」と笑う王の姿が頭に浮かぶ。

軽くこめかみを押さえる私に、ベルゼビュートは肩をすくめてみせる。


「眷属を使って、何とかやってるよ。この前も新しく生み出してね。」


私たちのような上級の魔神ならば、なんの造作も無いことだ。

特に、もと豊穣神であったためか、私やベルゼビュートは眷属生成は得意なほうだ。

私はとりあえず頷いておいたが、彼はそこで表情を曇らせる。


「だが、生み出した後で、今のところ手が足りてることに気づいてね。誰かに譲ろうかと考えているんだ。」

「ほう。それは、随分と間抜けな話だな。」


私の揶揄にも彼は動じず、続けて言う。


「ひとり心当たりがある。彼は旧い友人で、これから未曾有の戦乱を起こそうとしているが、私はそれを知らない。」

「…バァル? お前…?」

「ベルゼビュートだ。…私は旧い友人に眷属を贈るだけだ。」


そこで、彼はひたとこちらを見据え。


「受け取ってくれるね、アシュタロス。」

「そ、それは…!!」


彼の申し出に、私は躊躇する。

私の計画にとって、それはとても有難い提案ではあるが。

世界律に叛く。

それは、とりもなおさず、三界のバランスを崩して『世界の敵』となることを意味する。

ベルゼビュートの立場上、加担したと露見すればただではすまない。

いまだ躊躇う私に、ベルゼビュートは念を押すように言う。


「私は何も知らないんだ。君が何をしようと関与しない。眷族は君の好きに使っていい。」

「だが、バァル…!」

「ベルゼビュートだ。」


しばらく無言で、互いを見据える。

彼に退く意志は無く、私は迷いを抱え…答えは決まっていた。


「…有難く受けさせてもらおう。」


私が頷くと、彼は「そうか。」といって表情を緩める。


「眷属は後日出向させるよ。力はさほどでもないが、能力はなかなか使えると思う。」

「すまない。」

「謝らなくていい。くれぐれも言っておくが、私が力を貸すのは旧い友人だ。『世界の敵』じゃない。」


そう言って私の肩をぽんと叩くと、ベルゼビュートは書類を片手に抱え、宮殿内へと歩いていく。

その足が、不意に止まる。


「…アシュタロス。『世界の敵』になるからには、その先には間違いなく死が待っているぞ?」


振り返らないまま、旧い友人に投げかけられた問い。

私は少しだけ、遠くなった記憶に想いをはせてから、答える。


「……あるいは、それが望みなのかも知れん。…やはり、止めるか? 彼女に貰った命を無駄にするなと。」

「いや、止めんよ。君の命だ、君が好きにすればいい。…彼女がそうしたようにな。」


その言葉に、またも私の胸に去来する記憶。

三人で、ともに語らい、ともに過ごした記憶。

彼女がいた、記憶。

おそらくベルゼビュートも同じだったのだろう。しばらく、無言のまま佇んでいた。








「ベルゼビュート。改めて、礼を言わせてもらおう。」


どれくらいそうしていたのだろうか。

ベルゼビュートが歩み去るのに気づいて、私は声をかける。


「久しぶりにお前と話して、幾分か心が軽くなった気がする。」

「今度は名を間違えなかったな。…私のほうこそ楽しかったよ。ではな、恐怖公。」


そう言って彼は踵を返すと、宮殿の奥へと消えていった。

私はそこに残り、眺めを見渡す。

『万魔殿』はただ静寂に包まれている。

私は、この静寂を崩そうとしているのだと、改めて思う。


「…恐怖公か。」


いいだろう。

ならば、その呼び名に相応しく、恐怖を振りまこうではないか。

神よ。人よ。

貴様らが押し付けた世界律が、一体どれほどのものを生み出したのか。

我が怒りと嘆きを、恐怖とともに刻み付けるがいい。

踵を返し、宮殿内へと向かいながら思う。




私は叛逆者だ。

私は愚か者だ。

その道の先は、今向かう宮殿内のように闇がぽっかりと口をあけているだけだと言うのに。

何も省みず。

何も恐れず。

ただ、その闇に飲み込まれることを望んで。




かくて魔神は律に叛き─。


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