「いってらっしゃいっ」
「・・・行ってきます」
「あ、あなた忘れ物」
「あ・・・あなたぁ?」
「はい、んー」
「き、キスとかはせんからなっ!」
「なんだ、別に遠慮しなくても良いのに。冗談だけど、ふふっ」
”微笑ましい新婚夫婦のように見えるこの光景も、少しの嘘が同居している。
この目の前にいる女性は令子という俺の恋人では無く、「蛍」 という未来からやって来た娘だと言うのだ。
昨日、彼女は病院を退院して、一緒に暮らし始めたのだが・・・いかんせん、若さに押されっぱなし。姿は二十台後半だというのに心は十代。しかも中身は血の繋がりのある娘。例え、劣情の波が襲ってこようとも、手を出すのは大問題である。めっちゃ辛い”
「仕事に遅れちゃうんじゃないの?」
「あ、ああ、行ってくる。出来るだけ早く戻るから。そしたら美智恵さんのとこに行くぞ」
「やっぱ行くのね。あーあ、あんまり会いたくないなあ・・・あっ、そういやひのめ姉ちゃんがいるんだっけ」
「じゃあ、また後でな! 行ってくる」
「はーい」
ばたん。
「ふう・・・、どうしよっかな」
お父さんを見送り扉を閉めると、私は居間に戻ってテレビを点けた。ぽちっと。時刻は八時半。いつもならもう学校に出掛けている時間だ。でも今は別に行く必要も無い。お母さんはこの頃、既に少しづつ仕事をお父さんに任せて、悠悠自適に暮らし始めた頃だったようで、そのお陰で私が行かなくても色々怪しまれなくて済む。
昨日遅くまで二人で話し合った結果、やっぱりおばあちゃんに相談しに行こうという話になった。あの人ならこういう事で何か知恵を出してくれるかも知れないって。昔はオカルトGメンなんかで働いていた偉い人だったそうだ。今までは全然知らなかったけど。
「んー・・・、この人誰だろう。やっぱ全然分かんない」
目の前にあるテレビの画面は、いつも登校前に見ているニュースの続き、普段絶対見る事の無い部分を映している。ていうかこの番組ってずっと続いてるんだ・・・変に感心する。司会の人は違うけど、確かデジタルに変わる前なんだけどなあ。どうでも良いニュースを延々と流し続けている。
別にニュースに興味がある訳でも無いので、ごろんと横に寝転がって、落ちていた手鏡を見た。じろじろと・・・中を覗き込むと母親の姿が映る。ちょっと色素が抜け落ちたような赤い髪の毛。きりっとしたつり目。
・・・やっぱり自分とはあんまり似なかったんだなあって思う。まあ女の子は父親に似るって聞いた事はあるけど。出来たら・・・もう少し、そう、身体の部分とか・・・こうボンって。
羨ましい。
お父さんはこんな綺麗な人と結婚出来て、幸せな人なんだろう。多分。性格の事は置いといて。
お父さんは言ってた。結婚式は二月後だって。それまでには何とかして・・・元の身体に戻らなきゃ。元の世界に。出来たらこれは夢だったら良かったけど・・・。
何でこんなに冷静でいられるんだろう? この前も思ったけど、自分も不思議でしょうがない。何故か・・・何処かで大丈夫って思ってる自分がいる。これはお母さんの思考?
ぴんぽーん。
はっと・・・考え事をしていた意識が現実へと呼び戻される。チャイムの音だ。誰か来たのかな。どうしよう出るべきか・・・。もし、私の知らない知り合いだったりしたらまずいし。居留守でも使ってやろうかな。
ぴんぽん。ぴんぽーん。
再び呼び鈴。・・・やっぱ出た方が良いのかな? 仕方無く、足を玄関に向ける。万が一大事な用件だったりしたらまずいし。足音を殺しつつ、すっと息を吸い込んで。一歩一歩廊下を進む。
「・・・はーい、今出ます」
「あら、何だ居るんじゃないの。早く開けてくれないかしら?」
「お姉ちゃん元気? 大丈夫ー?」
扉の向こうから聞こえてきた声は、ひょっとしておばあちゃんと・・・ひのめ姉ちゃん・・・かな? あれ? 何でここに来るの? ひょっとしてお父さんが電話でもしたのかなあ・・・? そんな事言って無かったけど。
腑に落ちない点がありつつも、もう玄関の扉を開けない訳にはいかない。私は鍵をカチリと捻ると、ドアを開ける。緊張を隠して、ゆっくりと。
ぎい。
「あらあら、元気そうね。倒れたって聞いたけど。全く、連絡ぐらいちゃんと入れなさいよ」
「ほんとだ。いつも通り恐い顔ー、あははっ。」
むっ。
「恐い顔ってねえ、ひのめ姉ち・・・! ・・・あっ、いや・・・と、ま、まあ上がってよ」
「あれー? 言い返さないの? 馬鹿お姉ー」
「ひのめ! いい加減になさいっ! あんまりふざけるようだと今日、学校行かせるからね!」
「はいっ、もうしない! 折角、休めたのにそれは嫌」
おばあちゃんに怒鳴りつけられて、「ひのめ姉ちゃん」 はしゅんとした表情を見せた。くくっ、いい気味。
・・・が、おばあちゃんがこちらに向いた瞬間に、こちらに舌を出す。むかつく。姉ちゃん性格悪い〜。今いくつぐらいなんだろ・・・? 九歳、十歳ぐらいかなあ。もし元の世界に戻れたら、文句言ってやる!
「全くこの子は・・・、甘やかし過ぎたのかしら。ところで横島君は? お仕事?」
「えっ、お父さ・・・じゃなくて、えーと・・・あ、あの馬鹿に聞いてきたんじゃないの?」
冷やっとした。背中に妙な汗を感じる。顔は愛想笑いを浮べたまま。そういや、言葉には気を付けなきゃいけないんだ。・・・あっ、いや、でもどうせ後で話す訳だし・・・、えっとどうしたら良いんだろ。
「いや、おキヌちゃんから連絡を貰ったのよ。あなたが倒れたのを見つけたのあの子だし」
「おキヌ・・・ああ、はいはい。氷室おばさ・・・」
「は?」
「じゃ、じゃなくて、おキヌちゃん。そっかそっか。えーと、・・・それは悪かったわね。今度お礼言っとかなきゃ」
・・・やっぱり、いきなり言っても信じて貰えるかどうか分からないし、ややこしい事になりそうだから出来るだけ合わせとこ。おいおい話していけばいーや。
「あなた何か変よ? 倒れた時に頭でも打った?」
「そ、そうなの! こう、ふらっと・・・ああ、まだちょっとくらくらする」
わざとらしく演技も一つ。これはこれで何だか楽しいかも知れない。
「変なの、治ったから退院したんじゃないのお姉ちゃん?」
「姉の言う事にいちいち口出ししないのっ!」
・・・メモしといて、後々、姉ちゃんは辱めてやろうと思う。昔はこんな子供だったんだ、未来とは大違い。まあ正確にはお姉ちゃんじゃ無くて、「おばさん」 なんだけどそう言うと嫌がるから。
「くくっ、ちょっと楽しみ」
「・・・どうしたの? 令子?」
「えっ、あっ、何でも無い」
危ない、余計な事言わないようにしなきゃ。
一通り会話も済んだ所で三人で居間に向かった。私がお茶でも淹れようとしたら、おばあちゃんが牽制して代わりに淹れてくれる。あんたは病み上がりなんだからって。大人しくそれに従う事にする。
「掃除ぐらいしなさいよ・・・」
「えっ、ご、ごめん。昨日帰って来たばっかりだから」
見て見ぬ振りをしてたけど、やっぱやらなきゃいけないんだよね・・・。確かに汚いし。
「まあいいわ。それより、あんたがまた倒れたって聞いたから、今度は何よ? って冷や冷やしちゃったわ。」
「今度は? ああ・・・そうそう、いやちょっと疲れが貯まってただけ。わざわざごめんね」
そういえば、お母さんは少し前にも倒れたんだっけ。なんか妖毒・・・とか何とかいう奴で。死ぬかも知れなかったって。もしそうなってたら私は産まれていない、想像すると恐い。
「それなら良いんだけどね。結婚式も控えてるってのにあんまり問題が重なるようじゃ大変でしょ。もう仕事だって全部任せちゃって良いんじゃないの? ゆっくりと養生でもすれば」
「うーん、大丈夫。とりあえず・・・仕事はしばらくしないつもりだし。ていうか出来ない」
私はひょっとしたら才能はあるのかも知れないけど、両親が両親だし。でも別に霊能者になりたいと思った事は無い。だから力の使い方とかもさっぱりだ。学校も普通に通ってた。
「ふーん、ま、あんまりもう、口出しする事じゃないわね。二人の問題だし、止めとくわ」
「ありがと、おばあちゃん」
「・・・」
「お、・・・いやママ」
まずった。駄目だ、やっぱりボロが出ちゃう。まだ心の準備も何もかも出来て無かったしっ。何とか誤魔化さないと・・・、えっと。
「ひ、ひのめ、どっかに遊びに連れてってあげようか。今日は暇なんでしょ?」
「えっ、まじで? じゃ、じゃあ、私、服とか買って欲しいなあ・・・お姉ちゃん大好き!」
「・・・調子良いわね」
お金は、昨日お父さんからある程度預かったし、多分大丈夫。
「令子・・・ちょっと、その前に聞きたい事があるんだけど」
げ、駄目だ、これは・・・何か感づかれた・・・かも。
ぐいっ。
「ひゃっ!?」
「もーっ、でも可愛い妹の為だものっ! さあ早く行くよひのめ! 店が閉まっちゃう!」
「あっ、こらっ、待ちなさい! 令子!」
ひのめ姉ちゃんの腕を持って、脱兎の如く部屋を脱出する。人生で二度目ぐらいの全力疾走だ。
「留守番お願いー!!」
「きゃあーーー!! ね、姉ちゃん身体浮いてるって!」
本当の事を言えば逃げる必要も無いのかも知れないけど、こうなりゃ意地でも私からは秘密を話すつもりは無い。私は意外と頑固なの!
エレベーターなんて待っていられない、非常階段で一気に駆け下りる。姉ちゃんは浮いたまんま。
「ぎゃああああ・・・!! 助けてーーー!!!」
”残された母親。ふっと呆れ顔でため息を一つ。
「たくっ、あの子・・・何かおかしかったわね。一体、何隠してるのかしら、すっごく気になるわ。久し振りに現役復帰でもしようかしら・・・ふふふっ、まっでも、とりあえずは掃除でもしましょうか。後で、横島君に聞けば良いしね」
不敵な笑みを浮べ、ばたりと扉は閉じられる”
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん! 病気だったんじゃないの! 元気一杯じゃない!」
「はあ・・・はあ・・・えっ? ・・・何言ってるのひのめ。ちょっとした運動じゃない。リハビリみたいなもんよ」
どこまで走ったのかは分からないが、後ろからのひのめ姉ちゃんの声で我に返る。全身から汗が吹き出して、息も荒い。くたくただあ・・・。
「ふ、ふーん、まあ、それなら良いけども。それよりここ何処?」
「さあ? 私あんまこの辺の地形なんて詳しくないもの」
「はあっ? 何、姉ちゃん何も考えず走ってたわけ!? ちょっと勘弁してよ、もー」
言われて、見回してみれば、まるで見覚えの無い場所。当たり前といえば当たり前ではあるが、未来でもこの辺に住んでいた訳じゃないし、仮に知っていたとしても、過去の町並みが分かる筈も無い。
「んー、何か買ってくれるんでしょ? とりあえず駅行こうよ。ていうか車で行けば良かったのに」
それ、無理。運転出来ないもん。第一、車ってあれでしょ・・・。
「ま、まあ、たまには電車も良いじゃない。えっと駅はね・・・多分あっちのような気がする」
「多分?」
「姉の言う事が信じられないの?」
「うん」
むー、でこぴんでもしてやろうか。
”ひのめと蛍の二人が街中を歩いている同時刻。
「ただいまーっ。めっちゃ急いで終らせてきた。さあ、行くか」
「お帰りなさい。あら何処か行くの?」
「・・・えっ、美智恵さん・・・何でここに」
「さあ、何でかしらねえ? それよりちょっと聞きたい事があるんだけど・・・とりあえずお昼ご飯でも食べる?」
俺の身体に冷や汗が通り抜ける。長い昼飯になるような気がした”
続く。