「お母さん、今日私早く帰る。一応誕生日だし」
「あらそっ、珍しい。待ってるわ、てっ言っても、あんた時間通りに帰って来た事なんかまず無いけど」
私は振り向きもせず、後ろの居間から聞こえた娘の声に返事をした。この忙しい朝の時間に、のんびりと家族の会話なんて出来る訳も無い。
「今日は大丈夫だって、どうせ彼氏もいないしっ。お父さんも今日は早く帰るんでしょ?」
「ああ、そう言ってたわね。でもどうなるかは分かんない。期待し過ぎちゃ駄目よ」
娘の弁当におかずを詰めながら、同時進行でフライパンをひっくり返す。長年の主婦生活で身に付けた技はもう手馴れたもので、多少よそ見をしながらでも手つきが止まる事は無い。指輪もポケットの中。昔はこんな風に家庭に染まっちゃうなんてちっとも思って無かったけど、人は変わるものね。やだやだ。
ちらりとキッチン後方の娘を見ると、テレビのニュースを見ながら、もそもそとパンと目玉焼きを口に運んでいる。出来ることなら私もあの子のようにのんびりしていたい。現実はそんな訳にはいかないのだけど、これは毎日考える下らない日課の一つ。そして手は休まない。
「・・・えっと、これで詰め終わったかな? 時間は・・・」
振り返った先にある、時計の針は刻々と時刻を刻む。そろそろバスが来る時間だ。私はのんびりしている娘に怒鳴りつけるような口調で一言。
「時計見てる!?」
「えっ、・・・あっ、やばっ! じゃ行って来る!!」
「はい、いってらっしゃい・・・ってあっちょっと待って!」
娘は凄い勢いで外に飛び出して行った。私が声を上げた時には既にもう遅く、私は弁当の包みを持って後を追いかける。相変わらず忙しない子。あの馬鹿亭主に似た事は間違い無いといつも思う。
「ちょっと待ちなさいっ!! ・・・って前向いて!!」
「えっ!? 何!? わっ!」
家の門を出て、少し先の見通しの悪い十字路。私の声に反応して、娘はそこで後ろを振り向いた。タイミングが悪かった。その瞬間、私の目に映り込んだものは・・・。
突っ込んでくる車の影。ブレーキの音。そして。
「・・・る!」
どん。
眩しい光。
”あれ・・・”
無機質な白い平面が目の前に広がっていた。それと蛍光灯。鼻に独特のツーンとした匂いが広がる。
”ここは・・・何処・・・だっけ。私は何してるんだろ”
頭がずきずきと痛む。気分が悪い。それでも少しづつ記憶の糸が繋がっていく。身体は動かない。まるで意識と神経が切り離されたみたいに。
”ええと・・・ああそうだ。私、学校行こうとして、それで・・・”
「あいたっ!」
ぱちっと音がした。頭の中に閃光が走って、ずきっという強く鈍い痛みと共に私の身体は起き上がった。そして、スイッチが入ったかのように視界が開けていく。
「あたたた・・・。えっと・・・ここは・・・病院? 私なんでこんなとこに?」
広がった視界に、部屋の情報が次々と飛び込んでくる。白い壁。清潔感漂う室内。寝てるベッド。薬の匂い。窓の外の景色。揺れる髪。
「んっ? ・・・ああ、何か髪の毛邪魔だなあ・・・、て、えっ・・・髪の毛?」
私は視界の端にふらふらと揺れている、邪魔な髪を摘んでみる。色の薄い赤毛。
”・・・私の髪の色は「黒」。それにこんなに長くない”
お父さんと同じ黒髪。髪の毛が赤いのは母だ。これはどういう事?
ばたんっ!
「令子!!! 起きたのか!!!」
「!?」
考え事をしていると、いきなり部屋にお父さんが駆け込んで来た。開け放たれたドアから白衣の男性が見える。そして入ってくるなり、お父さんは肩を掴んで私を抱きしめた。
ごすっ。
「いきなり何すんのよっ!」
「良かった!! いきなり倒れたって聞いたから、また何かあったのかと思って!!」
私の一撃にもまるで怯む様子も無く、お父さんは身体を掴んだまま離さない。目には涙を浮べ、すがりつくように私の胸元に顔を埋めている。・・・ちょっとちょっと。
「な、何があったのよ、お父さん。私、訳が分からないんだけど」
私の声に反応して、お父さんの動きが止まった。目を大きく広げて、じっと下から私の顔を覗き込んで。
「・・・何その喋り方。令子、頭でも打ったか? お父さん・・・って」
「れいこ? お父さん、何言ってるの? 私とお母さんを間違えるなんて。あんまり似てないのに」
「・・・はっ?」
ぽかーんとお父さんは私の顔を眺めている。言葉の意味を掴みかねている感じ。一体なんだって言うのよ。
・・・・・・あれ? 何か変だな。お父さんって・・・こんな若かったっけ。
「・・・間違えるって・・・お前こそ何言ってんだ。どっからどう見たって令子だろ。えーと、そうだな」
お父さんは私から離れるときょろきょろと辺りを見回し、病室の中に掛けてあった鏡を持って来て、私の顔の前に差し出す。別に自分の顔なんか眺めても・・・
・・・んん?
「・・・・・・え、・・・・・・ええっー!!!!!?」
「どわあっ!! いきなり大声出すなよっ」
あ、あ、あ、あ。
「・・・・・・・・・・・・・・・お母さん」
「はあぁ!?」
そこに映っていたのは間違いなく私の母親 「横島令子」 だった。
赤い髪を腰元まで伸ばし、もう四十は過ぎているであろうに・・・あっ、いやちょっとおかしい。
何か・・・若い、肌が綺麗。いや別に普段が汚い訳じゃないけど。
今朝方ちらっと見た、というか普段見ている母親の姿より随分若く見える。やっぱり綺麗・・・とかそんな事はどうでも良くてっ! 何で私がお母さんの顔になっちゃってるのよっ。
「・・・大丈夫か令子? やっぱり倒れた時に頭でも打ったんじゃ」
「お父さん・・・わたし、私・・・お母さんになっちゃった」
「・・・医者呼んで来る」
「違うのよっ! ちゃんと聞いて!! 私だってば!!! 蛍だってば!!!!」
真剣な顔でお父さんを見つめる。何が起きてるのか自分でも分らない。
でもこのままずっと聞き分けが無いようなら、お父さんの顔に一撃でも入れてやろうかと思った。
「・・・蛍?・・・ええと・・・いや、その、ええっ?」
・・・が予想以上に 「蛍」 というこの言葉に反応があった。お父さんは後ずさってぺたんと尻餅を突き、呆然として、こっちを見ている。まるでお化けでも見たかのような顔だ。
「自分の娘が分かんないの!?」
「あっ・・・いや、そうじゃなくて・・・その何だ。やっぱり令子おかしいぞ。大体、まだ産まれてもいないのに、そんな事言い出されても」
「え?」
「そりゃあ、令子がその事気にしてたのは勿論分ってるけど、冗談にしても度が過ぎると」
「・・・お父さん今、何て言った?」
「へっ? ・・・て言うか、もうお父さんって言うの止めてくれんかな」
「今、何て言ったって言ってんのよ!」
「・・・は、はい。冗談にしても度が過ぎると」
「その前よ」
「え、えーと、まだ産まれてもいない子の事を持ち出されても・・・って」
「!?」
続く。
話の内容自体も全く別物となってまして(ぇ)、少しづつ焦らず投稿していきますので、よろしくお願い致します。 (cymbal)