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求めるものは

第五話 変化


投稿者名:湯
投稿日時:04/ 8/ 4

 弓かおりはじっと目を凝らしていた。激しく高鳴る動悸と熱とを、まるで見開いた眼から排出するように彼らを見つめた。

(私ったら、こんなのってないわ)

 と思った。
 彼女は自分の顔が赤くなるのを感じた。弓の周りで、弓自身を除いて誰もが息を切らしてはいなかった。彼女の目の前では健康そうな微笑が乱れ飛んだ。彼らは自然に会話を続けながらちらちらと弓を気遣っているのだった。彼女にはそれが気に入らない。
 彼らは陽気で大胆だった。
 なんて陽気!
 弓は留守を待つ子供のように細い呼吸を繰り返した。

「大丈夫でござるか?」

 と、やがてシロが言った。

 弓は懸命に微笑んで、

「ええ、心配なさらないで。私、ちょっと疲れているだけですから。でも勘違いなさらないでくださいね、ホント、少しだけですのよ」

 それから急に立ち上がり、長い髪を手で梳いた。事実、もう大分楽だった。

「大丈夫か? 無理するなよ」

 と横島は優しげに繰り返したが、弓は妙に恥ずかしくなり曖昧に頷くだけだった。

(私はまだまだ未熟なんだわ。この四人の中で、一番私が)

 と彼女は思った。
 すると固い、重たいしこりが彼女の両肩にのしかかってきた。それは疲れであり、恐怖であった。

「ともかく」

 とタマモが皆の視線を集めた。

「これからどうするか、それが一番大きな問題よ」

 彼女は一人ひとりに目をやり、

「みんな、何か良い考えはない?」

 しかし即答するものはいなかった。
 路地裏は暗く静かだった。そこに緊張した面持ちの四人が立っている。
 不意に、弓は肩の重荷が消えていることに気付いた。それどころか、この場にいる自分が無性に誇らしく思えてくるのだった。

(私はひとつの貴重な戦力として、今この時間を、この瞬間を過ごしている。私たちは危機的な状況にいる)

 彼女は脳をつんと刺激する、甘く淫らな匂いを嗅いだ気がした。身体の奥から痺れてくる、魅惑的な匂い。

 そう、私たちは強力な魔族を相手取らなくてはならない、私たちは危機に直面している! 

 彼女は興奮している自分を感じずにはいられなかったが、他の時間を共有している筈の三人は、さしたる感慨を抱いているようには見えなかった。
 彼女にはそれが残念でならなかった。しかし、このちょっとした不満を誰かにぶつけることも出来なかった。
 彼女にはそのような権限はなかったのだ。

 ふと顔を上げた横島は、気負いなさげにシロを見た。

「そういえばシロ、お前、さっき任せてくれって言ったよな。あの威勢はどこに行ったんだ?」

「えっと――」

 シロは曖昧に笑いながら言った。

「あれは、拙者がついてるので安心してくだされという意味でござって、だから、拙者に作戦があるというわけではなくって……」

 それを聞いて、タマモは横目でシロを睨んだ。

「馬鹿、期待させないでよね」

 彼女は苛立たしげに虚空を蹴飛ばした。

「まあ落ち着けって」と横島。

「弓さんは何かない?」

「私、ですか?」

「ああ」

「私は――すみません、私もこれといって思いつきませんわ」

 彼女は悔しそうに顔を伏せた。真っ直ぐな視線を投げかける横島と目を合わせられなかったのだ。
 弓は役に立てない自分が恐ろしいほど歯痒かった。

(私ったら、いい気になって!)

 彼女は再び気分が落ち込むのを感じた。
 頭が肩にすっぽり垂れ下がった自分。
 きっと彼らは気遣わしそうにこちらを眺めやっているだろう、流れている沈黙がその証拠だ。それも当然だろう、自分は見栄ばかりの役立たずなのだから。

(こういうとき、私は自分が憎い。許せなくなる)

 小刻みに弓がわなないていると、唐突に、彼女は肩に横島の手が触れるのを感じた。

「えぇっと」

 彼は戸惑いがちに口を開いた。弓は心細そうに顔を上げた。

「もしかして気持ち悪いのか? だったら――」

「だったら、どうするっていうのよ」

 横島の苦心の末の言葉は、タマモの気だるげな声に打ち負かされた。彼女は、まったくこいつったら、とでも言うような、奇妙にはにかんだ顔をしながら、器用に唇を尖らせていた。
 タマモは颯爽と金髪を掻き揚げた。汗に混じり、動揺を誘うように長い髪が舞って、空気が揺れた。

「休んでる暇なんてないんだからね。頭を捻るにしても、突っ立ってるだけじゃあんまり危険すぎるでしょ? 私たちはとにかく進むしかないのよ」

「そうでござるな」

 シロが真面目そうに頷いた。
 横島はまだ弓の顔を見ていた。

(いやだわ、心配しすぎなんだから、私なんかのこと)

 弓は沁みるような気恥ずかしさでいっぱいだったが、どこか音楽的な声で言った。

「さあ、急ぎましょう」



 彼らは大分進んだ筈だったが、大した変化が起こったわけでもなかった。

「おかしいな……」

 と横島は深刻そうに漏らした。
 変哲のない路地裏が影のように彼らの前後を貫いている。
 横島は焦燥のなかにいた。

(いつからだ…?)

 と彼は思った。
 背中がじっとりと汗ばんだ。

 いったいいつから、俺たちは真っ直ぐ歩いているんだ……!

 彼はぴたりと立ち止まった。それから急に振り返って、低い声で言った。

「みんな、聞いてくれ」

 すぐに全員の視線は集まった。横島は重々しく続けた。

「奴さん、うまくやりやがった、幻術だよ。それもかなり高等のやつだ。俺たちはまんまと引っかかったってわけだな」

「幻術!」

 タマモがびっくりして言った。

「だって、それなら私が気付くはずよ」

「だからうまいんだよ」

 横島は小さく笑った。

「この環境を利用したんだ。長くて狭い道、そのうえ高い壁に圧迫されて入り組んでる。これじゃあほんの少し感覚を狂わされたとしても、まず分かりっこない。幻術は少しだけでいいんだ。かかっちまえばあとは好き放題できるし、ちょっとずつ幻術を強めていっても俺たちにはバレっこない」

 敵は頭が良いぞ、と彼はにこやかに、そしてしきりに頷いた。
 タマモは反射的に、

「そんなこと」

 と抗弁しかけたが、結局止めた。無駄な労力のように思えたし、事実、彼女は気付かなかったのだから。

 横島は一瞬、タマモが気落ちしている様子を見て、ひどくいじらしく思い、頭でも撫でて慰めてやりたくなった。
 が、彼の意志に反する、白っぽい豊かで柔軟な衝動が、彼の脳を華やかに駆け回り、彼を決然とした何かへと誘うのだった。
 彼はいま優しい気持ちにはなれなかった。

「でも、どうして横島さんは気付かれたんですか?」

 弓は不思議そうに訊いた。彼女は何かと熱心だった。

「タマモさんやシロさんの感覚は、私たち人間よりもずっと優れていると聞きます」

「ああ、それは間違いないよ」

 横島は素っ気なく言った。それから暫く口を噤んで、何か我慢するようにふらふらと目を泳がせた。

(――今はそれどころじゃないだろ)

 その思いが掻き立ててやまないのだった、彼の熱い血と熱とを。まるで喉の奥に大きな塊が詰まっているような、すっきりしない息苦しさを彼は覚えていた。
 また彼は湧きあがる敵意を呑み込まなければならなかった。しかし彼女たちは説明の続きを待った。
 やがて横島は喉の奥から声を出した。

「タマモとシロは鼻を頼りにしすぎたんじゃないのか? だから気付かなかった、ただそれだけだよ。敵が馬鹿じゃなかったらそれなりに気を遣うだろうし、タマモたちの能力が届かない場合もあるだろ」

 シロはあっ気に取られたような顔で言った。

「それだけでござるか?」

「それだけ。今回俺が気付いたのも運が良かっただけだ」

「ふぅん」

 タマモはいまだ疑問の残った顔つきをしていた。しかし、横島はその不満には気がつかない風を装った。色々と気を配るには興奮しすぎていたのだ。

「とにかくこれが幻覚だと判ったら、俺たちはそれ相応の行動を取らなきゃいけない」

「どうするつもり?」とはタマモ。

 彼女は興味深そうに眼を瞬いた。彼女の気質からだろう、ひどく挑発的な目つきである。

「さて、どうするか」

 横島は壁にもたれて眉を寄せた。彼の手元には頼りの綱の文珠がなかったのだ。
 彼は数秒考えてから、億劫そうに、コンコン、とビルの壁を叩いた。

「これをぶっ壊すっていうのもなあ」

 と、投げやりに呟いた。
 手当たり次第に破壊してみても、おそらくそれは無駄に終わるだろう。
 すでに幻覚のさなかだ。
 対処方法としては、狂わされた認知のずれを修正するか、あるいは原因の根本となるものを破壊する、そのどちらかしかなかった。
 が、魔族の位置を探ろうにも、そもそも幻術というものは非常に厄介なもので、何が本当であり何が嘘であるのか、それは術者の意図を見事に反映するのだった。

「――お手上げだな」

 と横島は実際に両手を挙げて言った。

「罠にはまったんだから、それも当然か」

 言いながらくつくつと笑った。どうしてか愉快な気持ちだった。しかし愉しいのは彼だけであった。

「ちょっと」

 とタマモは眉をそびやかして憤慨し、すかさず横島に詰め寄った。彼は思わず肩を竦めた。

「横島、アンタ自分が何言ってるか分かってんの? 簡単に諦めたりしないでよ、こっちが気分悪くなるわ」

「すまん、俺が軽率だった」

 横島は素直に頭を下げた。

「俺、いったいどうしちゃったんだろうな、こんなこと言うなんて」

 そう笑いかけて、タマモの小さな頭に手を置いた。
 彼は非常に丁寧な身振りだった。花を労わる花屋の主人のように、彼女のつむじの辺りを柔らかく撫でつけた。それはまったく頼りない、すかすかしたリンゴのような固さだった。
 彼は口中の熱い唾液を静かに飲み下した。横島は不思議なおかしさで胸が膨らむのを感じた。

(俺は馬鹿だ……俺は、このちっぽけなタマモに欲情を抱いている、むさぼりつきたいと思っている。それもひどいやり方でだ。俺はこいつをどこまでもむちゃくちゃにしたい)

 彼の手が震えだした。葛藤からの痙攣だった。彼はそっとタマモの頭から手を離した。そして流れるようにポケットに手を入れた。

「――どうしちゃったの?」

 とタマモは心配そうに言った。

「大丈夫? 横島、汗がすごいわよ」

 彼女はすらりと手を伸ばし、横島の頬をさすった。

「ほら、こんなに」

 と、軽やかに指をちらつかせた。彼女の白い指は濡れて光っていた。

「そんなに?」

 横島は驚いて自分の顔に左手をやった。彼の右手はいまだ痙攣しているのだった。

「本当だ、これじゃあ洪水だな」

(とうとう俺も壊れたかな?)

 と彼は思った。
 しかし彼は身体の変調にはあまり真剣になれなかった。それはいつものことでもあったから。

「大したことないって」

 横島は手の甲で顔を拭うと、朗らかに笑った。



 始めに異変を感じたのはシロであった。

(変でござるな……)

 彼女は尻尾の肉が強く引き攣るのを感じた。身体が何かに反応しているらしい。
 すぐに、

「先生」と呼び掛けた。

 彼らは歩みを止めて振り返った。シロは最後尾を歩いていた。

「――何か来るでござるよ」

「ようやくか」

 横島は少し呆れたように言った。

「こんなに歩かせやがって、まったく何がしたかったんだか」

 ここに至るまで、彼らはついに打開策を見出すことは出来なかった。そのために相手の出方を待つ他なく、彼らはずっと歩き通していたのだった。

「私たちの疲労を待っていた、そうは考えられません?」

 と弓が言った。
 その声には不自然な張りがあった。緊張しているのだろう。
 横島は弓を流し見て、

「それじゃあ早すぎるだろ」と言った。

「それが目的なら何日だって閉じ込めておけばいい。そうしないってことは、目の前の餌に我慢できなかったか、俺の文珠を知っていたからか、あるいはそうせざるを得ない状況に追い込まれたか……」

 と、彼はそこでちょっと考える素振りをした。

「――まあ何にしろ、敵が仕掛けてくれば突破口を掴めるだろうだから、俺たちはそれに気をつければいい」

 全員が揃って頷いた。
 横島は自分の偉そうな態度を今更ながらに意識していたが、普段のように振舞うつもりもなかったし、また振舞えるとも思っていなかった。

(これは、やっぱりいよいよってことになるのか?)

 彼は戦闘毎に起きる、彼自身の性格の変化を心地よく思っていたが、同時に空恐ろしくもなるのだった。
 やがて彼の頭に痺れるような快楽が走り寄って、突然、空間が歪んだ。
 それは壁からだった。

「――散れ!」

 横島はひと声怒鳴り、瞬間、その場から跳び退いた。刹那の後、丸い魔力の塊が彼の影を素早く通り過ぎていった。
 その奥に、彼は無事に逃れた三人を見た。
 続けて二撃、三撃と四方から魔弾が迫ってくる。声を掛ける暇はなかった。横島は両手に霊波刀を出現させると、すぐさま縦横に剣を振るった。

 だが、次第に息は切れて彼の手足が重く鈍った。
 もうどれだけ凌いだか、彼には分からなくなっていた。とにかく力の限り身をよじり、剣を走らせた。
 すると、今度は蒸気のようなものが周囲を覆っていった。
 一筋、静かに冷や汗が流れ落ちて散った。彼は弓が心配だった。

 彼女には経験が絶対的に不足している!

 白い靄が辺りから色を奪った。視界の利かないなかの、壁から絶え間なく吐き出される魔弾、それは彼にしても脅威だった。

 ――助けにいかないと、まず彼女が死ぬ。

 横島は気配を探った。弓の居場所を探りつつ、魔弾の間隙をうねるように掻いくぐった。その幾つかは彼の肌を掠めていった。それは彼に危険を感じさせた。それでも彼は避けて、叩き落とし、進んだ。

 弓のこと、タマモやシロのこと、自分のこと、彼らのことを繰り返し思い続けた。彼はうっかり忘れてしまうことが怖かった。しかしそれらは徐々に、ゆっくりと激しい高揚に取って代わり、非情にも薄まっていくのだった。

 彼の神経はことごとく白くなった。

「きゃっ!」

 その時、甲高い悲鳴が横島の耳を打った。

「弓さん!?」

 醒めたような声だった。彼はふと目覚めたような気分になった。彼は急いで眼を細めた。

 ――視える。

 それは異常な鮮明さだった。
 弓が緩慢な動作で、今まさに倒れ伏そうとしている。この充満する靄、それはもはや彼には何の妨害にもなり得なかった。

 彼は彼女目掛けて走ろうとした。しかし、一歩を踏み出した時には、すでに弓を間近に捉えていた。いまだかつてない膂力の躍動を感じた。

 彼は弓に怪我がないことを知っていた。
 荒々しく彼女を抱きとめると、彼は吼えるように叫んだ。途端、力の奔流が湧き上がり、彼らから幻術の枷を解き放っていった。

 横島は腕を空にかざした。
 その先に黒い魔族がいた。

 弓も遅れて上空のそれに気がついた。が、その時には、魔族は血を撒き散らしながら落下を始めていた。

 息絶えているのである。

(もしかして、横島さんが?)

 彼女は驚きと尊敬と、そして感謝の念とを持って、彼の固い胸へと、魔族から横島へと柔らかく視線を移した。

 白い靄は消え、路地裏にはうっすらと陽が差し込んでいる。

「ひっ」

 喉の奥が鳴った。
 弓は数歩後ろに退がり、よろめきながら尻餅をついた。

「横島…」

「先生…」

 タマモとシロが呆然と呟いた。弓はそれを遠くに聞きながら、息を潜めて横島を凝視した。

 黒く、白い「何か」は、三人の彼女たちにはあまりにも大きすぎた。

 「彼」は奇怪な声で叫び続けた。
 弓は思わず両手で耳を塞いだ。


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