3. 外国人が見た明治初期の日本庶民


日本人の祖先がどのような心を持っていたのか、あるいはどのように生きていたのかを推し図るにあたり、私は外国人の著述を参考にすることにした。何故なら、私たちの祖先があまりにも当然のこととして記述しなかったこと、いや記述以前に自覚すらしなかった日本人の特質や生活が、文化人類学の定石通り、外国人によって記録されていると考えたからである。

 

外国人が日本について記した記録では、中国の史書「魏志倭人伝」やマルコポーロの「東方見聞録」などが有名だが、いずれも日本を訪れて書かれたものではない。16世紀後半には、キリスト教宣教師が布教のために来日しその記録を残している。中でもポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの「日本史」は大作である。江戸時代では元禄時代に、ケンペルが名著「日本誌」を著したが、これは日本の地理、人種、歴史、政治などを初めて西欧に体系的に紹介し種々影響を与えた。
しかし私が興味を抱くのは、江戸末期から明治の中頃までの、日本が鎖国から開国にいたって間もない、日本がまだ“西洋化されていない”日本独自の文明のもとに生きる庶民の生活である。開国と同時に多くの外国人が日本を訪れたが、それぞれの人がそれぞれの視点で感じたことを書いている。

 

江戸時代における身分制度「士農工商」のうちの「農工商」である被支配階級すなわち農民を中心とする庶民は、人口比率は90%ほどで日本の大半を占めていた。私は明治維新を見事にやり遂げた武士およびその精神「武士道」にも大いに興味を持っているが、今回はその庶民の側に的を当て、当時の庶民生活を推し図ることにした。この庶民のほうに、太古の昔の祖先の心が、より連綿と引き継がれてきていると思うからである。

 

こうした私の目的に適った名著がある。渡辺京二氏の著「逝きし世の面影」(1998、葦書房)である。江戸末期から明治中期までの間に来日した123名にわたる外国人の日本観を紹介した500ページにも及ぶ大作である。以下外国人の著述は主としてこの著から引用させてもらい、私の拙いコメントを適宜差し入れながら当時の日本の庶民の生きる様をご紹介したい。

 

 

タウゼント・ハリスは貿易商としてインド、東南アジア、中国を6年にわたって経巡ってきた後、1856年初代アメリカ総領事官として来日した。
1856(安政3)年8月に着任したばかりのハリスは、下田近郊の姉崎を訪れ次のような印象を持った。「姉崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」。

 

10月23日の日記、「5マイルばかり散歩した。ここの田園は大変美しい――いくつかの険しい火山(つい)があるが、できる限りの場所が全部段畑になっていて、肥沃地と同様によく開墾されている。これらの段畑を作るために除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある」。ハリスは山の上までよく開墾されていることに驚いたのである。

 

10月27,28日には10マイル歩き須崎村を訪れて次のように記す。「神社や人家や菜園を上に構えている多数の石段から判断するに、非常に古い土地柄である。これに用いられた労働の総量は実に大きい。しかもそれは全部五百か六百の人口しかない村で成されたのである」。ハリスは、この村の幾世代にもわたって営々と築き上げてきた共同作業の成果に驚き、長い世代にわたって集積してきた一つの文化に接し感慨を覚えたのである。

 

ハリスは下田地方の全般的な印象として、「下田の人々は、楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当たりも良くて気持ちが良い。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりも良い生活を送っているところはあるまい」。さらに翌年、下田の南西方面に足を踏み込んだときにも、「私はこれまで、容貌に貧窮をあらわしている人間を一人も見たことがない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきが良い。彼らが十分に食べていないと想像することはいささかも出来ない」。ペリーが第二回遠征の際下田に立ち寄ったときも同じように「人々は幸福で満足そうだ」と記述している。

 

ハリスは1857(安政4)年11月、オランダ以外の欧米外交代表として初めての江戸入りを果たすべく、下田の領事館を発った。東海道の神奈川宿を過ぎると、見物人が増えてきた。彼のその日の日記、「彼らはみなよく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。・・・・これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々を本当に幸福にするのかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」。

 

我々は人の顔や表情を見てその人となりを判断することがよくある。新潟大地震で大きな被害にあった現地の人たちの、テレビに映っている顔や表情を見て、「このような被害の中でも皆さんいい顔をしておられるなあ」とよく言い、被災を受けない都会の人たちのなんと疲れた不満足そうな顔かと、比較し反省したものだが、ハリスも同様の感じを持ったのではないだろうか。

 

オールコックは初代イギリス公使を勤めた。彼の名著「大君の都」は、冷静・現実的・かつバランスの取れた目で日本に接していく姿勢が世界的に評価され、異文化対応の一つの範となっている。

 

オールコックは1859(安政6)年日本に着任したが、熱海にしばらく滞在した。「これほど簡素な生活なのに満足している住民は初めて見た。農漁業を営む千四百人の住民中、一生のうちによその土地へ行ったことのあるものは二十人といないそうだ。村民たちは自分たち自身の風習にしたがって、どこから見ても十分に幸福な生活を営んでいる」
「平野だけでなく丘や山に至るまで肥沃でよく耕され、山にはすばらしい手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さにまで伸びている。住民は健康で、裕福で、働き者で元気が良く、そして温和である」

 

「確かにこれほど広く一般国民が贅沢さを必要としないということは、すべての人々がごくわずかなもので生活できるということである。幸福よりも惨めさの源泉になり、しばしば破滅をもたらすような、自己顕示欲に基づく競争がこの国には存在しない」。

 

そして彼は、まさに日本に相応しいものとして次の詩句を引用する。「日本人は気楽な暮らしを送り、欲しいものもなければ、余分なものもない」

 

イザベラ・バードは1878(明治11)年、当時外国人が足を踏み入れることのなかった東北や北海道地方を馬で縦断した英国女性であるがその著「日本奥地紀行」は名著として評価が高い。山形の手の子という村の駅舎では、「家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇を取り出し、丸々一時間も私を扇いでくれた。代金をたずねるといらないといい、何も受け取ろうとはしなかった。・・・私は彼らに、日本のことを覚えている限りあなたたちを忘れることはないと心から告げて、彼らの親切にひどく心を打たれながら出発した」。

 

「東北縦断の旅に際して、日光から北上して福島県の山地に入ったのであるが、山間の小村はみな貧しく不潔なたたずまいだった。私たちにとって、悲惨な種類の貧困とは通常、怠惰と酒浸りに結びついている。しかしここの農民の間では、怠惰な人はいないし、酒を飲む人はまれである。彼らは非常に勤勉だ。安息日もなく、仕事がないときに休日をとるだけだ。彼らの鋤による農作業はその地方を一個の美しく整えられた庭園に変え、そこでは一本の雑草も見つからない。彼らはたいそう倹約家だし、あらゆるものを利用して役立たせる」。

 

実際のところ当時の日本は貧しい村が多かったのであろう、と私は察する。「おしん」はそうした一例であろう。特に自然環境の厳しい地方や、税の取立ての厳しい藩では住民の生活は苦しかっただろうし、災害や飢饉があったようなときは、極めて悲惨な生活だったろう。
例えば江戸時代でも7,8年に1回は大地震や豪雨などによる大きな災害に見舞われている。印象的な一例では、享保17〜19年(1732〜34年)に西日本で起こった蝗害(こうがい:イナゴなどによる害)による飢饉がある。このとき飢え人265万人、餓死者1万2千人を出した。江戸では米を買い占めたとして、米商人の高間伝丘衛が打ち壊しにあった。都市では、餓死者を片付ける職分として非人の役が固定化している。
しかしこうした災害や飢饉をしのぎ、生き抜いてなおかつ上記のような幸福と満足を滲み出すような人たちが我々の祖先であった。

 

1876(明治9)年来日し、工部大学校の教師を務めた英国人ディクソンは、東京の街頭風景を描写したあとで次のように述べている。「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子が行き渡っているのだ。群集の間でこれほど目に付くことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活の厳しい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の都会の群集に良く見かける心労にひしがれた顔つきなどまったく見られない。頭を丸めた老婆からキャッキャッと笑っている赤子に至るまで、彼ら群集はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中に悲哀など存在しないかに思われてくる」

 

リンダウも長崎近郊の農村での経験をこう述べている。私は「いつも農夫たちのすばらしい歓迎を受けたことを決して忘れないだろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持ってきてくれた。私が家の中に入るや否や、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶をだしてくれる。・・・いくつかの金属製のボタンを与えると「たいへん有難う」と皆そろって何度も繰り返してお礼をいう。社会の下の階層の中でそんな態度に出会ってまったく驚いた次第である。私が遠ざかっていくと、道の外れまで見送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ「さよなら、またみょうにち」と私に叫んでいる、あの友情の籠った声が聞こえるのであった」

 

長崎海軍伝習所の教育隊長で、2年余りを長崎で過ごしたカッテンディーケは、「日本の農業は完璧に近い。その高いレベルの農業から推察するに、この国の面積は非常に莫大な人口を収容することができる」。オールコック「自分の農地を整然と保つことにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはない」。ハリス「私は今まで、このような立派な稲、またはこの土地のように良質の米を見たことがない」。
メイラン「日本の農業技術は極めて有効で、おそらく最高のレベルにある」

 

このように日本の農業の評価は極めて高い。特に水田稲作の水準の高さに驚いた感想を記している人が多い。弥生時代にすでに始まっていた水田稲作は、日本人の大昔からの生活の基盤となってきた。水田稲作においては、つねに個人や家族の単位を超えた共同の生活と作業が必要であり、協調の精神と勤勉な作業が重要であるが、日本人の祖先は水田稲作を通じて「和」の精神や「公」の精神あるいは「勤勉」を子孫に伝えてきたのだ。

 

また開墾について感心している人が多い。「こんなところにまで田圃が」、しかも「そこにはすばらしい稲が実っている」といった記述である。我々の祖先は、岩石を取り除き木を切り倒し土を耕し、川の流れを変え、沼地を埋め立て次々と開墾していった。例えば江戸時代を例にとると、初めには200万町歩と言われた耕地が、中期には300万町歩に、幕末には400万町歩と、江戸時代を通じて耕地面積は2倍になった。祖先伝来の創意工夫と共同作業の結晶である。

 

イタリー海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨンは1866(慶応2)年通商条約締結の任を帯びて来日した、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国は他にない」「日本の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階層にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである」

 

ヒュー・フレイザーの妻メアリは、1890(明治23)年鎌倉の海浜で見た網漁の様子をこう書いている。「美しい眺めです。--青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を伸ばしている。その後ろに夕日の海が、前にはビロードの砂浜があるのです。さてこれからが子供たちの収穫のときです。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいない哀れな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師たちの周りに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠を差し出すのです。そして食用にふさわしくとも市場に出すほど良くない魚はすべて、この人たちにわたるのです。・・・物乞いの人に対して決してひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そして物乞いたちも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです」。
 日本では助け合うことがごく普通なのだ。相互扶助精神は、日本人が祖先からずっと引き継いでいる性質なのだ。

 

カッテンディーケは、「日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。生活第一の必需品は安い。・・・上流家庭の食事とても、いたって簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人々とさほど違った食事をしているわけではない」。「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、華奢贅沢に執着心を持たないことであった、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない」。

 

日本人は物質的欲望に走らない民族だと感心している人が多い。物質的な豊かさがなくとも、周囲にはすばらしい自然があり、助け合ってくれる村の人々がおり、これで十分ですよ、と思うから、日本人は傍目に見て「満足と幸福」が顔に出ているのだろう。

 

ボーヴォワルは日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム、中国と歴訪していたが、「平和で争いのない日本の人々は、礼譲と優雅に満ちた気品ある民であった。街ゆく人々はだれかれとなく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口元に微笑を絶やさない。田園を行けば、茶屋の娘も田圃の中の農夫もすれ違う旅人も、皆心から挨拶の言葉を掛けてくれる。その住民全ての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか。・・・地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ」。

 

東大動物学教室を開いたモース、「自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っている。しかも恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやりは、日本人の生まれながらの善徳であると思われた」。日本に数ヶ月以上居た外国人は、同様に驚きをもって気づいている。

 

 日本人の心の特徴の一つが「思いやり」だ。他人を大事にする日本人の「思いやり」は、英語の「sympathy」よりもはるかに、自分を抑えて他者の心を推しはかる意味を持つ。 日本語には「気配り」・「心遣い」・「心配り」「察し」「いたわり」「なさけ深い」・・といった他人を「思いやる」きめ細かい言葉が多い。

 

フィッセル、「上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和」。「身分の高いものが自分より下級のものと応対するときに役人風をふかすことも、はるかに少ない」。「上司は下司に対して常に慇懃で穏やかな態度で話しかける」「日本人は軽蔑や侮辱にきわめて敏感だが、他人を腹立たせたり、他人を気に触ることを避けるために、非常に気を遣う」

 

アーサー・クロウは明治14年、中山道での見聞をこう書いている。「ほとんどの村には人気がない。住民は男も女も子供も泥深い田圃に出払っているからだ。住民が鍵も掛けず、なんら防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている。江戸時代、普通の町屋は夜、戸締りをしていなかったことをホームズの記述から知る。

 

バードは東北・北海道の旅を終えた後、関西を訪れ奈良や伊勢参りなどをしたが、「ヨーロッパの国の多くや、ところによっては確かにわが英国でも、女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないにしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は日本では、一度たりとも無礼な目に逢わなかったし、法外な料金をふっかけられた事もない」
 日本は安全だった。日本のどこへ行っても安全であることに感心している人が多い。たしかに安全であることに安心しているからこそ日本人は幸福で満足そうな顔で生活できたのであろう。我々は「追いはぎ」や「盗賊」の存在を知っている。しかし外国人から見た日本は安全の国だった。

 

モース 一見簡素な日本家屋の部分部分に「指物師の工夫と芸術心が働いていること」に驚嘆した。日本の大工は仕事が優秀であるばかりでなく、「創意工夫にたけた能力を持っている」という点でも優秀なのだった。彼によると、「日本の大工はアメリカの大工よりも技術的に上だった。アメリカの大工が高価な機械をそろえているのに対し、日本の大工道具一式がかなり原始的なのを考慮すると、問題は頭と眼識なのだと考えずにはおれなかった」。
「すべての職人的技術において、問題なしに非常な優秀さに達している」
日本人の職人の技術と創意工夫能力を非常に高く評価している人が多い。

 

アーノルド、「この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまでいきわたっているのだ。どんなにつつましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見出すことができる。・・・ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に過ぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ」

 

「日本人は衣装や装飾について、趣味が簡素で優雅なことが目立つ。例えば女性の服装は、普通下につけているものの方が派手で鮮やかであり、上のものはやや地味な色合いである。
フロイスはすでに16世紀において、「日本人は良い服を下に、よくないものを上に着る」事実に気づいていた。

 

マーガレット・バラ、「横浜を外れたあたりではとても見事な生垣が見られます。田園地帯のすばらしさは、おもにこうした生垣のおかげなのです。みすぼらしい農家が素敵な生垣にすっぽり囲まれ、家そのものはわびしくても全体としてはとても美しい情景になっています」

 

彼らは、当時の日本人の自然と親和する暮らしぶりに賛嘆を禁じえなかったのである。「日本人はなんと自然を熱愛しているのだろう。なんと自然の美を利用することを良く知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎ましやかな物質的満足感に満ちた生活をなんと上手に組み立てることを知っているのだろう」という感嘆はギメだけのものではなかった。

 

 「日本人は狂信的な自然崇拝者である。ごく普通の労働者でさえ、お茶を満喫しながら同時に美しい風景をも堪能する。したがって茶店の位置も、目を楽しませるという目的のために特別の地理的配慮をして選んである」

 

ヒューブナー、「日本人は自然が好きだ。ヨーロッパでは美的感覚は教育によってのみ育成することができる。ヨーロッパの農民たちが話すことといえば、畑の肥沃さとか、水車を動かす水量の豊かさとか、土地の値打ちとかであって、土地の絵画的魅力についてなど話題にもしない。彼らはそうしたものに対してまったく鈍感で、彼らの感じるものといったら漠然とした満足感に過ぎず、それすらほとんど理解する能がない有様なのである。ところが日本の農民はそうではない。

 

日本の農民にあっては、美的感覚は生まれつきのものなのだ。多分日本の農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりもあるのだろう。というのも日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれていないからだ」

 

 
以上紙面の都合上、148名の記述のうち16名分しか紹介できなかったが、これらはごく平均的な日本観のものだけである。
日本人である我々の中には、外国人の見た上述の日本観に違和感をもつ人もあれば、我々の気づかぬところの指摘に感心する人もある。

 

さてこれらの紹介を読んで皆さんどのように感じられたでしょうか。

 

次に、上記の「外国人が見た日本人観」からキーワードを抜き出しておく。
日本人は、
l         生活は簡素・質素ではあるが暮らしに満足している。健康的で上機嫌な民族である
  これは物質的欲望に走らない、贅沢に執着心を持たない民族であるからだ
l         「思いやり」の民族だ。人々はお互いを思いやり、感謝しあう
l         相互扶助がいきわたっている、
l         親切である
l         温和である
l         礼儀正しい
l         社会全体に秩序がいきわたっている
l         社会は安全である
l         日本人の行動は、個人単位ではなく共同作業である。よく協調する。
l         勤勉である
l         創意工夫能力が高い。技術が高い。あらゆる物を利用し役立たせる
l         美的感覚が優れている。自然が好きで自然に溶け込み、自然の美をうまく利用する

 

上のキーワードはまさに「和魂」「荒魂」「幸魂」だ。江戸末期から明治中期までの外国人から見た日本は、まだまだ四魂具足の社会であったのだ。ちなみにこの時代は、我々の祖父・祖母あるいは曽祖父・曾祖母の時代の話である。
外国人の記述の中で、どうしても私に合わないところがあった。日本人の宗教についての彼らの感想である。今回とは別の観点から(その四)でご紹介したい。
 
最後に。
私は、「大和心」とは、日本に昔からあった土着の考え方・心のことであり、弥生時代の二千数百年、三千年あるいは縄文時代の一万年以上前にも及ぼうとする長い歴史にわたり連綿と続いてきた日本人の心の核心のことだと考える。その「大和心」は、明治の開国までの日本独自の文化に見ることができるとして、今回の企画になった。
明治中期以降は、いわゆる西洋文化が庶民の心の中にまで入り込んできた、また行き過ぎた軍国主義が大衆の心を歪めた。極めつけは敗戦によるGHQの日本人精神の荒廃化であろう。アメリカを中心とした個人主義やアメリカ的民主主義の浸透、過当な競争主義、金銭至上主義などにより、日本人が一万何千年の間連綿と引き継いできた「大和心」は、現在の多くの日本人の心の奥底に押し込まれてしまっているように思う。