功利と選好
(1998年経済学史学会、10月25日、共通論題「J. S. ミルと現代」)
京都大学大学院文学研究科 内井惣七
[TO ENGLISH VERSION; This Japanese version is abridged because of the time allocated.
この日本語版は経済学史学会の予稿集に印刷されたものと同じ。学会後に改訂された英語版が最新版である。4節が書き換えられている。Oct.29, '98]
John Stuart Mill (1806-1873) [Drawing by S. Uchii]
ミルの功利主義が批判されるとき、決まって取り上げられる問題の一つとして「快楽の質」の区別がある。問題の箇所は、『功利主義』(1863)第2章の第5段落から始まる。
二つの快楽のうち、両方を経験したすべての人、あるいはほとんどすべての人によって、一方の快楽がそれを選好しなければならないという道徳的義務感とはかかわりなくはっきりと選好されるならば、それが他方よりも望ましい快楽である。
このような快楽の優劣の区別に続いて、ミルはつぎのように論じる。この快楽の質の区別は、人々がもつ諸能力のうちで高い能力を行使する生存様式と低い能力を行使する生存様式との違いと密接な関わりをもつ。両方の能力を熟知する人々は、ほとんど例外なく、より高い能力を行使する生存様式のほうを確固として選好する。もっとも、高級な能力のある者を幸福にするにはそれだけ多くのものが必要であり、それに伴って苦痛を受ける機会も増すのだが、だからといって、より低い存在に落ちたいと望む者はほとんどいない。この事実を説明できるのは、人間がもつ尊厳あるいは品位の感覚である。すべての人は何らかの形でこれをもち、これと相容れない形で幸福になることはありえない。以上のように、ミルは快楽、能力、そしてそれらと人間の幸福のありかたとの関係をここで考察した。
さて、快楽の量とは別に質の高低を言おうとするこの議論にはもちろん問題があり、わたしはミルの質の区別を擁護しようとするつもりではない。しかし、ミルの誤りと混乱にもかかわらず、ここからの数段落は功利主義の価値論を整合的に展開しようとするとき、決して無視することのできない重要な論点をいくつか含んでいる。わたしの発表では、その論点をはっきりと取り出し、後のシジウィックや現代の功利主義理論の展開も視野に入れて、ミルの積極的な再評価を試みようとするものである。
(1)まず第一の論点は、ここでの議論において、ミルは快楽説価値論にはっきりと選好概念を導入したということである。
(2)また、彼は、快楽の質だけでなく量的比較がいかにおこなわれるかという、もっと基本的な論点に遡っていることに注意すべきである。異なる種類の快の比較だけでなく、そもそもなぜ快が善で苦が悪か、という快楽説価値論に対する最も基本的な疑問にも答えようとしている。
二つの苦痛のうちいずれが激しいか、ふたつの快い感覚のうちいずれが強烈であるかを決める手段として、両方をよく知った人々の一般的な同意以外にいかなる手段があるだろうか。複数の苦痛あるいは複数の快楽はそれぞれのうちで同質的ではないし、苦痛は常に快楽とは異質である。ある特定の快楽がある特定の苦痛という代償を払って得るに値すると決めるために、経験ある者の感情と判断以外にいったい何があるだろうか。(同、第8段落)
(3)ただし、価値論の理論的な問題と、それを現実問題に適用する際に生じるような実際的な問題とがともすれば混同されがちで、それが議論をわかりにくくしている。
(4)理論的な問題に話を限定するものとして、人々が現にあれをこれより選好することが、なぜ「あれがこれより望ましい」という価値判断を確立することになるのか。ミルの議論は、この根本的な疑問に(明確に答えてはいないけれども)注意を喚起する点でも重要である。
まず、第一と第二の論点(前節(1)(2))にもう少し詳しく立ち入りたい。選好概念の導入は倫理的価値論にとっていったいどのような意義をもつのだろうか。
ベンサムの快楽説価値論において快苦の計量の問題が論じられ(『道徳と立法の諸原理序説』第4章)、彼が一元的な量的基準を設定しようとしたことはよく知られている。ベンサムは、快楽および苦痛の値または価値をどのようにして計るかを、強さ、持続性、確実性、遠近性、あるいは経験する人びとの数などの要因を枚挙することによって示そうとした。しかし、ベンサムのこの議論では、まったく触れられていないいくつかの基本的な疑問が残されたままである。
快苦の値または価値の問題は、心理的状態としての感覚や感情の計測の話ではなく、基本的に善悪に関わる価値判断の話のはずである。例えば、「この快楽の強度がしかじかで、持続時間が3分間であった」という事実の記述から「この快楽はしかじかの価値がある」という善の価値判断に移るにはまだギャップが残っている。ミルが問題にしたのは、一つはこの点であろう。「快楽の量」や「質」の問題は、記述ではなく価値判断に属するのであり、記述と価値とをつなぐのは、個々人の選好にほかならない。ある人の選好に基づいた序列づけが快や苦の値打ち、価値を決定する。そこで、功利主義の快楽計算において本質的なのは、ベンサムが枚挙したような要因ではなく、むしろ人びとが何を何より好み、何を何より嫌悪するかという選好であり、人間の選好が実際にどうであるかという、選好に関わる事実である。これがミルの一つの重要なメッセージである、とわたしは考える。
現に、19世紀の最も緻密な功利主義者であったヘンリー・シジウィックがたどり着いた価値論も、この路線上にくる、選好に基づく快楽説価値論であったことを確認しておきたい。
次に、概要で述べた第三の論点、すなわち選好に関する理論的問題と実際的問題の区別に移ろう。科学においてと同様、倫理学においても理論問題と実際問題の混同は不毛な議論のもとである。ミルにおける選好の議論もこの種の混同を免れておらず、それが彼の議論全体をわかりにくくしているきらいがある。快楽説に限らず、何が善で何が悪かという価値判断を体系的に提供しようとする価値論に選好概念が不可欠であるというのは、ベンサムの欠陥を補ったミルの理論的洞察であり、これは基本的に正しいとわたしは考える。しかし、選好概念を援用した快楽の質の議論は、快楽説価値論の応用に属する実際問題であり、これを快楽説の理論的区別として擁護しようとすると、ミルの快楽説価値論は矛盾をきたすであろう。以下ではこれを論じてみたい。
常識的な判断のレベルで「快楽の質」の違いが認められることにはほとんど異論はない。「満足した豚であるよりも不満足な人間であるほうがよい」という、ミルの有名な一節は、この意味ではわれわれにも同意できる。そして、この事態は、「豚の快楽よりも人間の快楽のほうが質的に高い」と記述して差し支えないように見える。しかし、すでに指摘したように、この「記述」は実は記述ではなくわれわれの価値判断、選好の表明に他ならない。ミル自身もこの点を十分に認識しており、この種の価値判断が妥当性を要求できるための条件を提示している。すなわち、「両方をよく知った人びとの同意」がその条件にほかならない。しかし、ここで理論的な基準とその実際的な適用とをしっかりと区別することが肝要なのである。ミルの議論はこの点をおろそかにしたために数々の誤解と混乱とを招いたとわたしは考える。
この区別自体は簡単なことである。二つの快楽について「両方をよく知った人びと」がすべて一方を他方より選好するなら前者の価値が高いというのは、快楽の比較に関する理論的な基準の設定である。しかし、任意に選ばれた二種の快楽につき、両方をよく知った人びとがいるかどうか、またいるにしても、その二種の快楽について彼らの選好が一致するかどうかは事実問題であり、この理論的基準を適用した判定ができるかどうかに関わる実際問題である。さらに、両方をよく知った人びとの選好が一致しない場合に、近似的な判定基準として多数決のような補助手段を援用するかどうかも、理論的基準の適用に関わる実際問題の一つである。そして、こういった実際問題がある程度クリアされたとして、諸種の快楽の間でどういう序列がつけられるかは、多くの事実を確かめた上でしか答えられない実際問題である。ミルは、問題の箇所でこれらの多種の問題をほとんど一息で論じようとしているところに無理がある。
ミルが自分の推測に基づいて、満足した豚より不満足な人間の状態のほうが価値が高く、満足した馬鹿より不満足なソクラテスのほうが価値が高いと論じたとき、このミルの判断は、基準適用にかかわるいくつかの事実をクリアした上ではじめて成り立つ条件つきの判断である。しかも、ミルの理論的基準を認めたとしても、この基準のうちに質と量を区別する条件は何も含まれていない。快の「種類としての」好ましさは、結局「両方を知った人びと」の選好に依存する、としかミルは述べておらず、「質的に優れている」とは、「彼らが選好する」こと以上の何も述べていない。かくして、質と量の区別について、ミルは理論的基準は述べていないことになる。そうすると、ミルの主張を整合的に理解するためには、量的比較の基準も質的比較の基準も同一であり、はなはだしい量の差(実は選好の程度の差)のために一見して一方が他方より優れていることが明らかな場合を「質の差」と便宜的に記述できる、という解釈しかない。これがわたしの理解である。要するに、「質の区別」は実際問題のレベルでの区別でしかなく、理論的区別ではない。
最後に、第四の論点(概要の(4))を論じたい。理論的な問題に話を限定するものとして、二種の快A、Bの両方を知った人びとがBよりAを一致して選好する場合、なぜ「AはBより望ましい」という価値判断が正当化されるのだろうか。この点がきちんと理解されないと、ミルを再評価することの意義は不明であろう。この点に関するわたしの理解は次のとおりである。
まず、「両方をよく知った人びとの一致した選好」という条件をもう少していねいに敷衍する必要がある。選好の対象となる事態や状態を当人がよく知らない場合、この人の選好は合理的であるとはいえない。また、異なる人びとの選好が一致することは一般にあまり期待できないにしても、選好の対象となる事態や状態を完全に予期し認識しているという条件が満たされている理想的な場合については、異なる人びとでも選好が一致するということは、それほどなさそうなことではない。倫理学の歴史でしばしば登場する「理想的な観察者」の説には、この観察者の価値判断は客観的であるという主張が含まれている。この主張を、わたしのミル解釈の文脈で解釈し直せば、「理想的観察者の選好は客観的であり、異なる人びとでも、この観察者の条件を満たす限りにおいては選好が一致する」ということになろう。簡単のため、この条件を満たす選好を「合理的選好」と呼ぶことにしよう。ミルの基準をこの程度にまで敷衍すれば、ミルの考えのうちに後のシジウィックによって展開されるアイデアが粗削りな形で少なくとも潜在していたことが明らかとなる。
すなわち、人びとの価値判断あるいは選好が正当化されるとは、彼らの選好が合理的である場合である。この場合、彼らの選好や価値判断は一致するので、共通して受け入れられることになる。これが、価値判断の正当化の理論的な基準にほかならない。もちろん、実際問題としては、合理的選好の条件が満たされたかどうかはしばしば明らかではないので、その点で正当化に疑問が残る場合があることは当然である。わたしは、ミルがこのような正当化が可能であるという確信を持っていたことは疑問の余地がないと考える。すでに触れた、快楽の質の議論のところで、ミルの言葉はこれを十分に裏づけている。しかし、すでに指摘したとおり、ミルの議論では理論的基準の話と実際問題の話とがしばしば混同されていたので議論が混乱し、しばしば不可解となっていたのである。
価値判断や選好の正当化の問題は大変誤解されやすいので、念のための補足をしておきたい。一つのよくある誤解は、「仮に人びとの選好が合理的選好の条件を満たしたとしても、これは人びとの選好に関する事実でしかない。このような事実が成り立つことから、彼らの価値判断がいかにして正当化されうるのか」という反論である。この反論に対しては、まず、善や望ましさに関する価値判断は、事実の記述ではなく選好の表明であることを確認しておきたい。事実の記述と選好の表明との間に一般には論理的なギャップがあることは、ミルも認めるであろうしをわたしも認める。しかし、人びとがある事態を合理的に選好し、その限りでは一致した価値判断を下すであろうという事実が確認できたなら、この事実は、人びとがしかじかの選好を表明するという事実である。この選好が表明されなければ、問題の事実も成り立たないのである。そして、彼らの間で一致した合理的選好が成り立つことは、彼らが同じ価値判断を下し、しかもそれが合理的だということであるから、正当化の条件としてはこれ以上望みようのない条件が満たされている、といえよう。ミルの「両方をよく知った人びとの選好」という条件は、選好の単なる一致ではなく、合理性(よく知った上での一致)まで含意するというのがわたしの解釈のポイントである。
次に、「合理的選好の条件は好きなように設定できても、その条件が実際に満たされうるかどうかが問題である」という疑問が出るかもしれない。これは当然の疑問である。しかし、ミルは、少なくともいくつかのケースでは、その条件が満たされている(あるいは近似的に満たされている)と主張している。また、ミルの例に依存するまでもなく、われわれも冷静に考えてみれば合理的選好だと言える事例をいくつも提供できる。例えば、所有の制度を認めている社会においては、誰も自分が大切にしている所有物を他人に奪われることは望まない。「奪われる」という事態がいかなるものかは、常識さえあればほとんどの人が「よく知っている」といえ、しかも彼らの選好は程度の差はあれ一致して否定的である。したがって、これは立派に合理的選好の条件を満たしている。そのほか、人殺しがなぜ悪いか、核戦争がなぜ悪いかなど、少なくとも近似的に合理的な選好に基づくと考えられる価値判断の事例は枚挙にいとまがない。かくして、合理的選好の条件が非現実的だという非難は必ずしも当たらないのである。
合理的な選好を軸にして価値判断の正当化を考えようという路線は、シジウィックを経て現代の倫理学では主流になっているとわたしは考える。ミルの功利主義は、不完全ながらその出発点となっており、少なくとも主要な論点をすべて含んでいると見なしてよい。
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September 21, 1998; last modified June 14, 2006. (c) Soshichi Uchii
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