科学哲学ニューズレター

No.8, April 1995

Japanese Translation: L.Boltzmann's "On the Indispensability of Atomistic in the Natural Science", by K.Inoue and S.Uchii



すでに本誌3号でも触れたとおり、科学史関係の翻訳文献には学術的な使用に耐えうるものは少ない、というのが実情である。湯川・井上編『現代の科学I』(中公バックス)には歴史的に貴重な文献の翻訳が含まれているが、ボルツマンの(河辺六男氏)訳が非常にわかりにくいので、以下に改訳を試みた。同書の訳と比較検討していただけば幸いである。以下の訳は、当研究室の聴講生井上和子さん(京大・薬学および独文卒*)の下訳を内井が手直ししたものである。紙幅の都合で注はすべて省略した。Paul Foulkesによる下記英訳も参考にした。これは、細かい点での不満はあるものの、おおむね信頼できる。
 B.McGuiness, ed., Ludwig Boltzmann, Theoretical Physics and Philosophical Problems, Reidel, 1974.

[*1999年4月現在、後期博士課程、students.html 参照]


自然科学において原子論が不可欠であることについて

(Ueber die Unentbehrlichkeit der Atomistik in der Naturwissenschaft, 1897. Populaere Schriften,
Leipzig: J.A.Barth, 1905.)
ルートヴィッヒ・ボルツマン
(井上和子・内井惣七訳)

理論物理学においては、現行の形の原子論Atomistikのほかに、できる限り狭く限定された事実の領域を微分方程式によって記述するという第二の方法がよくとられている。われわれは、これを数学的-物理的基礎に立つ現象論と名づけたい。この現象論は事実の新しい描像を提供するので、また、できる限り多くの描像を持つことはもちろん有益なことであるので、この現象論は現行の形の原子論と並んで当然高い価値を持つ。わたしがエネルギー論的現象論と名づけたいもう一つの現象論については、後に触れる。現在、現象論的方法によって得られた描像のほうが原子論によって得られたものより本質的な理由によって優れている、という見解がしばしば表明されている。

このような一般的な哲学的問いは、専門分野での問題のように精確には把握されえず、またそれゆえ、それに対する答えは趣味の問題である傾向がより強いので、わたしは、そのような哲学的問いを、それが実際的な帰結を持たないかぎり、避けるのが常である。しかし、現在、原子論は、前述のようにほとんど確固たる理由もなく実質的に冷遇されているように思われる。そこで、わたしは、いま現象論がかつての原子論のようにドグマとして奉じられたなら科学に対してもたらされうるとわたしが危惧するような損失を防ぐために、わたしの務めを果たすべきであると考えたのである。

誤解を避けるため、まず最初に、以下での考察の目的は非常に明確な問いに対して答えを与えることにあるということを明記しておきたい。原子論が発展する過程で科学にもたらしてきた効用は、科学史に通じたいかなる公平な識者も疑いはしないだろうから、われわれはその問いを次のように定式化できよう。現在の形の原子論もまた、今日一般的な現象論よりも優れた長所を持っているのではないのか?現象論から、近い将来に、まさに原子論に特有のこの長所を同じように持つ理論が生じる、という何らかの見込みはあるのか?現在の原子論がいつか放棄されるという可能性と並んで、現象論がますます現在の原子論に吸収されていくという可能性もあるのではないか?最後に、もし現在の原子論の見解を今日においても現象論の見解と同様の熱意を持って育成しないとしたならば、これは科学にとって損失となるのではなかろうか?これらの問いに対する答えは原子論にとって好都合な形になるということを、以下での考察の結果として、ここであらかじめ明記しておきたい。

数学的-物理的現象論の微分方程式は、明らかに、数と幾何学的概念との結合を形成するための規則にほかならない。しかし、また、この微分方程式は、それに基づいて現象が予言されうる思考の描像にほかならないことも言える。まったく同じことが原子論の描像についても言えるので、この点に関して、わたしは両者の間にいささかの違いも見いだすことはできない。そもそも、ある広範な事実の領域について直接の記述など決して存在せず、常に思考の描像を作ることだけが可能であるとわたしには思える。それゆえ、われわれは、オストヴァルトとともに「描像を作るな」と言ってはならず、ただ「描像の中に恣意的な要素はできる限り入れるな」ということが許されるのみである。
数学的-物理的現象論は、方程式を優先することをしばしば原子論に対するある種の蔑視と結びつけている。わたしの考えでは、微分方程式のほうが原子論の最も一般的な形の見解よりも事実を超え出る程度が少ないという主張は、循環論法に基づいている。最初からすでに、われわれの知覚が連続体の描像によって表されているという見解を前提するなら、確かに微分方程式はこの前提された見解を超え出ていないが、原子論はこの前提を超え出ているということになろう。しかし、原子論的に考えることに慣れ親しんでいる人にとっては、事態はまったく異なり、逆に連続体の描像のほうが事実を超え出ていると見えることになる。

一例として、今では古典的なフーリエの熱伝導方程式の意味を一度分析してみようではないか!この方程式が表現しているのは、次の二つの部分からなる規則でしかない。

(1) 物体(あるいは、より一般的には、対応する限定された三次元多様体に規則的に配列されたもの)の内部において多数の小さな物(それらを要素粒子とか、より適切には、最も一般的な意味での元素あるいは原子と名づける)を考えてみよう。最初はそれら各々が任意の温度を持つものとする。ごく短い時間の経過後(または第四変数の微小増加の際)、各々の要素粒子の温度は、それを直接に取り囲んでいた要素粒子が最初に持っていた温度の算術平均になるものとしよう。次に同一の長さの時間が経過した後も同じ過程がくり返され、以下同様となる。
(2) 要素粒子および時間の微小増加分がますます小さくなり、それらの数が対応する比率に応じてますます大きくなると想定し、それ以上細分化してももはやはっきりとは結果に影響を及ぼさないような温度に達したなら、そこで細分化を止めよ。

同様に、微分方程式の解を表し、一般的にはただ機械的な求積法によってのみ計算される定積分も、また、最初に有限個の部分への分析を必要とするであろう。

しかし、連続体という言葉によって、あるいは微分方程式を書くことによって、連続体の明確な概念を得られたなどと思ってはならない!よく眺めてみると、微分方程式は、まず最初に有限数を考えてみなければならない―――これが第一の前提条件で、その後初めて、この有限数をそれ以上増大させてももはや影響を及ぼさないところまで大きくしなければならない―――ということの表現にすぎないのである。微分方程式を説明するときに、大きな有限数の個体を想定するという要件を使ってその方程式で表される値を定義したにもかかわらず、この同じ要件をいまや隠蔽しようとすることには一体どのような効用があるのだろうか?微分方程式によって原子論を脱却したと考えるような人は、いささか月並みな表現を許していただけるなら、木を見て森を見ていないのである。しかし、微分方程式をもっと複雑な、幾何学的または他の物理的概念によって説明することは、ますますもって、熱伝導方程式を直接的記述ではなく一つのアナロジーとしての姿で見せてくれるであろう。われわれは、実際には、隣接する諸部分を区別することができない。しかしながら、ある描像において、われわれが隣接する諸部分を最初から区別しないなら、この描像は漠然としているであろうし、われわれはこの描像に対して前述の算術的演算を行なうことなどできないであろう。

かくして、もしわたしが微分方程式、または定積分を含む方程式が最も目的にかなった描像であると宣言するなら、そしてそれによって原子論的な概念をわたしの思考の描像から取り除いたと信じるなら、わたしは幻想に陥っているのである。原子論的な概念なくして極限の概念は無意味である。わたしは、むしろ、さらに進んだ次の主張だけをしたい。われわれの観察手段がどれほど洗練されようとも、事実と極限値との差異は決して観察可能にはならないであろう。

それでは、非常に大きいが有限な数の要素粒子を前提する描像は、事実を同様に超え出ていないのだろうか?事態は逆転しなかったのか?かつては、一定の大きさを持つ原子という仮定は事実を恣意的に超え出る粗雑な描像であると見なされていたのに対し、現在ではこの仮定はまさにより自然なものに見える。そして、事実と極限値との差異は、そのようなものが今まで(おそらく、いかなる場合にも決して)発見されたことはなかったのだから、決して見いだされえないという主張は、この描像に何か新しい証明されてないものを付け加える。この後から付け加えられた主張によって、なぜこの描像がより明確、単純となり、より確からしくなりうるのか、わたしにはわからない。原子論は連続体の概念と不可分であるように見える。明らかに、ラプラス、ポワッソン、コーシーなどの人々は原子論的考察から出発していた。というのは、当時人々がまだ微分方程式は原子論的描像のための単なる記号であるという意識をより明確に持っており、それゆえその描像を簡明に形成する必要性をより強く感じていたからである。積分計算の記号に慣れることは cm sec-1のような記号に慣れることに似ているのに対して、わたしは、原子論の最初の形態を、古代の物理学者が名数量によって計算する代わりに採用した複雑な回り道になぞらえてみたい。しかし、もし秒による割り算[sec-1]に恣意的に与えられた意味を忘れてしまうなら、この記号によって達成された便宜は多くの誤った推論をもたらしかねないのである。

熱伝導方程式と同様に、弾性の基本方程式もまた、ある簡単な法則に従って互いに作用し合う有限個の要素粒子をまず最初に想定し、次にやはりその個数を増大させたときの極限値を求めることによってのみ、一般に解くことができる。かくして、この極限値は今度も基本方程式の本来の定義となり、大きいけれども有限な数を最初に前提する描像がやはりより単純であるように見えるのである。

このようにして、われわれは、問題となっている原子にある小さな事実領域を最も簡単に記述するために必要なだけの性質を与えることにより、このような小領域の各々に対して特殊な原子論を得ることができる。この特殊な原子論は、原子論と通常呼ばれているものと同様確かに直接的記述ではないが、恣意性をできるだけ排除した描像であるようにわたしには思える。

ここで、現象論は、これらすべての特殊な原子論を、現実の諸事実を描写するために―――つまりこれらの原子論に含まれた描像すべてをそれらの事実に適合させるために―――、前もって単純化することなく結合しようと試みる。ところが、これらの原子論は、それぞれの小さな現象領域から取り出されて互いにほとんど調和しない無数の概念を伴っており、種々のアナロジーにもかかわらずそれぞれがやはり多くの特殊性を有する無数の微分方程式をも伴っているので、われわれは、この描写が非常に複雑な形をとるにちがいないと最初から予想できる。実際、現象論は、二、三の小さな現象領域の相互連関をいつもほぼ定常的な過程にとどまっている場合に描写しようとするだけでも、すでに、まったく見通しの悪い、きわめて複雑な方程式を必要とすることがわかる(加熱や磁化などを伴う弾性的変形)。それに加えて、再び、(例えば、ギッブスに従って気体の分離を、プランクに従って電解質の分離を描写しようとすれば)事実を超え出るような仮説を導入しなければならないのである。

これに、さらに次のような事情が加わる―――現象論のすべての概念は、ほぼ定常的な現象から借用されたものであって、乱れた運動についてはもはや持ちこたえられない。例えば、静止した物体の温度は、それに挿入された温度計によって定義することができる。もしその物体が全体として運動するなら、温度計もともに運動するであろう。しかし、その物体の各々の体積要素が異なる運動を行なうなら、先の定義は根拠を失い、その場合には異なるエネルギー形態(何が熱であり、何が可視的な運動であるか、など)がもはや明確には区別できないという公算が大きいか、あるいは少なくともその可能性がある。

このこと、および、現象論が二、三の現象領域の相互連関を描写したわずかな事例でもすでに微分方程式が複雑になったことを考えると、化学変化をも伴う任意の乱れた現象をこの方法に従って―――そして、個々の事実領域に対応する原子論を、当然恣意的である単純化によって、あらかじめよりよく調和させることなく―――記述することがいかに困難であるか予想できるであろう。この目的のために要素粒子に与えられるはずの諸性質と比べてみれば、レムリーの分子は、単純性の真の摸範例であろう。

わたしが(最も広い意味で)エネルギー論的と形容したい特殊な現象論は、個々の現象領域に対応する別々の原子論を、すべての現象領域に共通するものをさらに追究することによって、互いにもっと近づけようと望んでいる。そのような共通の特性としては二種類が知られている。第一の種類には、エネルギー原理、エントロピー原理など、ある種の一般的な法則が含まれている。これらの法則は、一般的積分法則と名づけることができ、すべての現象領域において妥当なものである。第二の種類は、非常に異なった現象領域にわたっても成り立ちうるアナロジーよりなる。このアナロジーは、ある種の方程式がある程度の近似を求めたときにとらざるを得ない形式が同じであるということにのみ、しばしば根拠を持っているのだが、他方、このアナロジーはより細かな部分についてはしばしば成り立たなくなるように見える。(関数の微小変化は独立変数のそれに近似的に比例すること、近似的に定数の係数を持つ一次または二次の微分商[微分係数]が残ること、微小量に関する線形性と、それゆえ重ね合わせが成り立つこと。さまざまなエネルギー形態の振舞いにおけるアナロジーもまた、部分的にはこのような純粋に代数的な根拠を持つように見える。)しかし、積分法則(その一般的妥当性およびそれから生じる高い信頼性ゆえに)とアナロジー(計算上のさまざまな利点およびそれが提供する新しい視点ゆえに)とのきわめて大きな重要性にもかかわらず、積分法則もアナロジーも同様に、事実間のすべての関係のうちのただ小さな一部だけを提供しているにすぎない。したがって、個々の現象領域を正確に描写するためにさえ、まだ多くの特殊な描像を付け加えなければならない(問題になっている現象領域の自然誌)のだから、わたしがすでに他の場所で証明したと考えるように、これまで誰も、このような方法によって定常的な現象の一つの領域についてさえ一義的で包括的な記述を与えることにはいまだかつて成功していないのである。まして、乱れた現象をも含むすべての現象を見通すことなど論外である。それゆえ、このようなやり方でいつかは包括的な自然の描像を得ることに成功するのだろうかという問いは、当面純粋に学術的な価値しか持たない。

包括的な自然の描像という目的に近づくために、現在の原子論は、さまざまな事実領域に必要な原子の性質を、多くの領域を同時に描写することに役立つよう任意に補足し修正することによって、さまざまな現象論的原子論の基礎を互いに適合さようと試みている。現在の原子論は、個々の事実領域に必要な原子の性質を、いわば成分に分解して(注(4)を参照)、より多くの事実領域に適合させようとする。これは、明らかに、力を成分に分解するのと同様、事実を超え出るある種の恣意性なくしては可能ではない。しかしながら、原子論は、その代わりに、はるかに多くの事実を合わせた全体について単純で見通しのよい描像を与えられるという利点を達成するのである。

現象論が、重心運動や剛体の力学のために、弾性、流体力学などのために、すでに別々で互いにほとんど無関係な描像を必要とするのに対して、現在の原子論はすべての力学的現象について完全に合致する描像である。そして、この領域が完結して閉じていることからして、この領域の中でその描像の枠にはまらない現象がまだ発見されうるとは、ほとんど予想できない。この描像はさらに熱現象をも包括する。このことがそう確実に証明されないのは、ただ分子運動の計算がもたらす困難のためにすぎない。いずれにせよ、すべての本質的な事実は、われわれの描像のなかの一筆一筆のなかに再発見される。この描像は、結晶学的事実、化学結合における質量の定比例、化学的異性、偏光面の回転と化学的分子構造との関係等々の描写のためにも非常に有効であることが明らかになった。

しかも、原子論はさらに大きく発展することが可能である。原子については、任意の性質を与えられたより複雑な個体を考えることができる。例えば、注(4)で見たベクトル原子がその一例であり、これは現在のところ電磁気現象の最も単純な記述を与えるものである。

現象論でもってはまだまったく接近可能ではない乱れた現象に対して、現在の原子論はもちろん一定の先入見をもって立ち向かう。しかし、原子論は、そのような現象が一体どのように描写されうるのかということに関する貴重なヒントを与える―――それどころか、多くの場合にはまさに予言できるのである。かくして、気体[分子運動]理論は、気体のすべての力学的現象と熱現象の過程を乱れた運動の場合にも予言でき、また、これらの現象について温度や圧力などが定義されうるための根拠を与える。ところが、一連の事実を記述するために役立つ描像を、それから他の類似した事実の推移をも予言できるように形成することこそ、まさしく科学の主要な任務である。その予言がさらに実験によって検証されなければならないのは、もちろんのことである。その予言はおそらく部分的にしか確証されないであろう。そのとき、この描像が新しい事実にも合致するように、修正し完全なものにしていくことも期待できるわけである。(われわれは、原子の性質について新しい知見を得ていく。)

もちろん、「より広い現象領域を記述するために絶対に必要なものを超えては、描像に恣意的なもの(最も一般的なものに限られるべきである)を付け加えてはならない」という要求や、「描像を修正する心構えを常に持っていなければならない、それどころか、ある描像に代えてまったく新しい根本的に異なる描像をとるほうがよいことをいつか認識する可能性を心にとめておかなければならない」という要求は正当である。新しい描像の構成は、現象論の手つかずのまま残っている特殊な描像に基づいて行なわれるはずである、という理由からだけでも、現象論の描像も原子論の描像と並んで注意深く育成されなければならないのである。

最後に、わたしは、さらに進んで次のような主張をも敢えてしておきたいと思う。描像というものの本性からして、描写の目的のためには何らかの恣意的な一筆を付け加えなければならないし、また、厳密にいえば、ある一群の事実に適合した一つの描像からたった一つの新しい事実でも推論するやいなや、経験を超え出ているのである。すべての事実を描写するためには、フーリエの熱伝導方程式に代えてまったく別の方程式―――それは、これまで観察された事例についてのみフーリエ方程式に還元されるにすぎないので、任意の新しい観察については、直ちにフーリエ方程式の描像を完全に変え、それゆえ最も微小な部分間の熱交換の描像をも完全に変えなければならなくなる―――を持ってくる必要はない、というのは数学的に確かだろうか?例えば、これまで研究されたすべての物体が偶然にちょうどある種の規則性を示していたのであって、その規則性が脱落したところではフーリエ方程式は偽となる、ということもあるかもしれない。

フーリエが、比熱の法則と、二つの接触する物体の間の熱交換が温度差と比例するという事実とを最小の部分へ転用するのと同じように、気体理論は、力学の一般法則と、物体は接触した際には押しのけ合うがある程度以上の距離に離れるともはや互いに作用し合うことがないという事実とを最小の部分へ転用する。この最小の部分は、すでに述べたとおり、広がりのある物体を描写しようとするとそれなしではすますことができない。液体状または気体状の集合状態を描写するためには同一種類の最小部分を使うことで十分であるという仮定も、また、二つの状態の連続性からして、よく根拠づけられているようにわたしには見え、そしてその仮定のみが自然記述の単純性という要求に合致しているのである。しかし、これら二つの仮定の正当性を認めるならば、われわれは次の二つの帰結を決して逃れることはできない。一つは、それらの最小部分が目に見えない相対的な運動をしており、その運動は目に見える活力[運動エネルギー]を包含しており、そしてその運動がある種の神経によって知覚されうるということは確かにありそうにないことではないという帰結である(特殊な力学的熱理論)。もう一つは、非常に希薄な物体のなかではこれらの最小部分がたいていほとんど直線状の軌道を描くという帰結である(気体運動論)。われわれが力学的現象を表現する描像は、これらの帰結を省くことになれば、矛盾とは言わないまでも、より複雑になってしまうであろう。分子運動は止むことがないのに対し、励起された目に見える運動は徐々に分子運動に移行する、という新たな仮定は、同様に、一般に認められた力学法則と完全に一致している。

特殊な力学的熱理論からのすべての帰結は、非常に離れた領域に属していたかもしれないが、経験によって確証されてきた。それどころか、これらの帰結は最も繊細なニュアンスにいたるまで自然の鼓動との注目すべき一致を示してきた、とわたしは言いたい。
もちろん、熱伝導に関するフーリエの仮定はきわめて単純であり、それを用いてさらに計算されうる事実は観察によってすでに検証された事実とよく一致するので、フーリエの仮定や方程式が(第一近似として)絶対的に確実ではないと主張することは、おそらく、無益な穿鑿に見えるほどである。しかし、事実領域をそのように任意に狭く限定するや否や、本当に単純でもっともらしい仮定で間に合うので、確証された事例とは本質的に異なる仮定はまたすぐに消えてしまうのは、驚くには当たらないとわたしは思う。
もしも、現在の原子論と同様に包括的な理論を、フーリエの熱伝導理論と同様に明白で疑問の余地のない基礎の上に築くことにいつか成功するとしたなら、これは当然理想的であろう。このような成功が、前もって単純化されなかった現象論的方程式を後から統合することによってより早く可能になるのか、あるいは、現在の原子論の見方を絶えず経験的に適合させ確証していき、ついにはフーリエの理論が持つ明証性に漸近的に近づけることによってより早く可能になるのか、現在はまだまったく不確定であるようにわたしには見える。というのは、すでになされている観察―――そのとき、流動的な液体および気体中で分子運動が直接観察されたように見える―――が十分な証拠にはならないと考えられようとも、十分な証拠となる(つまり、確からしさを望む程度にまで大きくする)将来の観察の可能性は否定できないからである。それゆえ、特殊な力学的熱理論あるいは化学機構と結晶化の原子論的理論のような描像がいつかは科学から消滅するにちがいないと確信をもって主張することは、わたしには、まったく見当違いに思われる。問題となりうるのは、ただ、このような描像を育成することのうちに含まれている過度の性急さと、そのような描像を棄てるように勧める過度の慎重さのいずれが、科学にとってより大きな不利益かということだけである。

原子論の描像が、直観的わかりやすさと見通しのよさを促進することによって、物理学、化学、および結晶学にどれほどの利益をもたらしたかは、周知のことである。しかし、原子論の描像が現在よりまだ現象に適合する度合いがはるかに低く、形而上学的な視点から考察される機会がより多かった時代には、とくに、原子論の描像は阻害的な作用を及ぼしたし、若干の場合には無用の荷物のように見えたこともある。このことは否定されるべきでない。もしわれわれが、可能な限り確証された結果についての現象論を、統合に役立つ原子論の仮説から厳密に分離し、両者をともに不可欠なものとして等しく熱意をもって発展させていくなら、そして、現象論の長所を一方的に尊重して現象論がいずれにせよいつかは現在の原子論を駆逐するであろうなどと主張しないなら、見通しのよさを棄てることなく、確実さも失うことはないであろう。

たとえ現象論の描像を現在の原子論とは違うやり方で一つの包括的な理論に統合することが可能であるとしても、次のことはなお確かである。

(1)この理論は、個別的な各々の事実が一つの特別な記号で表示されているという意味での目録ではありえない。そのような目録に精通することは、これらの事実すべてを体験することと同じほど煩雑になってしまうであろう。かくして、この理論は、現在の原子論と同様に、世界の描像を構成するための一つの指針でしかありえないのである。
(2)微分方程式あるいは連続的に広がった量の意味について、人がいかなる幻想も持たないならば、この世界描像は、疑問の余地なく、本質的にやはり原子論的でなければならない―――すなわち、これは、おそらく三次元の多様体のうちに配列されたきわめて多数の事物の時間的変化を、一定の規則に従って考えるための指針なのである。これらの事物は、当然、同種のものでも異種のものでもありうるし、また不変のものでも可変のものでもありうる。この描像は、大きな有限数を仮定した場合に―――あるいは常に増大する数の場合にはその描像の極限値によって―――すべての現象を正しく描写するであろう。

すべてを包括するような世界描像が可能であり、その描像の一筆一筆がフーリエの熱伝導理論が持つのと同じ明証性を持つと考えてみよう。そのとき、この描像により容易にたどり着くには、現象論的方法に従うほうがよいのか、それとも今日の原子論の描像を着実に発展させ経験的に確証していくほうがよいのかは、まだ未決定のままである。そうすると、同様にまた、この同じ理想的な性質を持つ世界描像がいくつか複数個ありうるということも考えられるのである。



編集後記 昨年度の内井の研究講義でマクスウェル やボルツマンを取り上げたことが機会となって、ドイツ語が得意な井上さんはこの有名な論文の翻訳を試みてくれた。姫路在住の彼女は阪神大震災の影響をモロに受け、交通や郵便等の事情が悪くなったので、内井の手直しや改訂稿の何度かのやり取りにも思ったより時間がかかってしまった。しかし、翻訳そのものの出来栄えには、われわれはかなり自信を持っている。彼女のドイツ語の綿密なチェックに感謝したい。もちろん、この訳に対するご意見やご批判は大歓迎である。(95.4.1/内井惣七)

Last modified Nov. 29, 2008.