科学哲学ニューズレター |
No.5, October 1994
S. Uchii, "From our Lectures: The development of the kinetic theory of gases"
本年の研究講義より
気体分子運動論の展開----最小二乗法から「衝突数の仮定」まで (内井惣七)
十九世紀の統計学において正規分布の概念と観測の最善値を求める最小二乗法が重要な役割を果たしたことはよく知られている。物理学においても、マクスウェルの気体分子運動論の展開はこれらの概念なくしては考えられない。彼がまだエディンバラ大学の学生だった1850年7月、『エディンバラ・レヴュー』
にジョン・ハーシェルによるケトレの著作の長大な書評が掲載された。そのなかで、ハーシェルは次の三つの前提から最小二乗法の原理を導く簡略な証明をスケッチして見せたのである(Herschel,
1850:398-400)。
(1) 二つの独立な事象がともに起きる確率は、それぞれの事象の確率の積で与えられる。
(2) 誤差の量と、その誤差が生じる確率との間にはある関数関係があり、前者が大きくなれば後者は小さくなる。この関数は、誤差の原因がどの場合にも等しく未知であるので、すべての場合に適用できるほどに一般的でなければならない。
(3) 誤差の量が等しければ、プラスの方向であろうがマイナスの方向であろうが、それが生じる確率も等しい。(換言すれば、確率を定める関数は誤差の2乗の関数である。)
話を具体的にするため、床の上の一つの的をめがけて一定の高さからボールが落とされるとしよう。このとき、実際にボールが落ちた位置とその的との距離が誤差に相当する。適当な直交座標を取れば、その距離はx成分とy成分に分解でき、もちろんxの2乗とyの2乗の和がその距離の2乗に等しい。ところが、同じ誤差は、x軸方向の誤差とy軸方向の誤差とが独立に生じてそれらが合成されたものと見ることができる。そうすると、(1)と(3)により、誤差の確率を定める関数
f は
f(x^2)f(y^2)=f(x^2+y^2)
という条件を満たさなければならない [HTML形式では2乗の肩文字が下に降りるので注意されたい。以下同様]。そのような関数は、exp(kx^2)のような指数関数しかない(kは定数)。そして(2)の条件を満たすためにはexp(−kx^2)のように反比例の形でなければならない。
以上より、誤差の2乗の和が最小になるとき、誤差の確率は最大になる(つまり、その誤差を伴う測定値が最も確からしい値である)ことが明らかである。
若きマクスウェルはこの論証を含むハーシェルの論文を読んで、強い感銘を受けたと思われる有力な証拠がある。それは、友人のルイス・キャンベル宛の1850年の手紙である。このなかでマクスウェルは「この世界の本当の論理は確率計算である」という主張を展開しているのである
(Campbell&Garnett, The Life of J.C.Maxwell, 143)。
熱現象を分子の運動から説明しようという気体分子運動論は、クラウジウスの1857年の論文「熱と呼ばれる運動の種類について」から本格的な歩みを始めるが、この理論に画期的な確率・統計的手法を導入したのはマクスウェルの1860年の論文である。このなかで彼は力学と確率論の大胆な併用を行なったのだが、この論文の核心とも言うべき問いとアイデアは次の命題で表現されている。
命題 IV 多数の同等の粒子間の多数の衝突後に、それらの速度が与えられた範囲内にある平均の粒子数を見いだすこと。
「平均の粒子数」という言葉でさりげなく述べられているように、マクスウェルは力学的にはまず解くのが不可能な問題を統計問題としてなら解きうると見当をつけたのである。もし非常に多数の同等の粒子が完全弾性容器の中で運動するならば、衝突が起こり、それら粒子の速度は衝突ごとに変わる。そこで、一定時間の後にはエネルギーは一定の法則に従って粒子に分配される。各粒子の速度は衝突ごとに変わるが、速度がある範囲内にある平均の粒子数は確かめうる。
この問題を解くために、マクスウェルは先のハーシェルとほとんど同じ論法を使っている。簡単に説明してみよう。各粒子の速度は三つの座標成分x, y,
zに分解して考えてよい。さて、任意のxを取ったとき、その近傍の一定の微小範囲内の速度を持つ粒子数がxの関数 f(x) (この範囲内に一個の粒子が入る確率を決める分布関数)によって決まると考えて、この関数の形を求めたい。そうすると、同じことはyとzについても言えるはずである。直交する三つの方向の成分は互いに独立なはずである(すぐわかるように、これは確率論的な独立性)。そこで、〈x,y,z〉の三成分を持つ速度から一定の微小範囲内の速度を持つ粒子数は、
f(x)f(y)f(z)
という積とその微小範囲の体積、および容器の中の全粒子数によって決定される。ところが、座標軸の方向はまったく任意に選べるのだからこの粒子数は原点からの距離
d のみに依存しなければならない(もちろん、d^2=x^2+y^2+z^2 である)。そこで、
f(x)f(y)f(z)=φ(x^2+y^2+z^2 )
という条件が得られる。これから f の形を決める推論は前述のハーシェルの推論とまったく同じである。このように、マクスウェルの論法はハーシェルの論法を2次元から3次元に拡張したにすぎない構造なのである(これは
C.C.Gillispieなどによって指摘されている)。
このように分布関数を求め、各成分方向につき一定範囲内の速度を持つ粒子数を分布関数に基づいて計算する。その結果、最小二乗法の理論において誤差が観測の各々に分配されるのと同じ法則(正規分布)に従って速度が粒子の各々に分配されることがわかる。この分布が、容器内の気体分子の速度分布、「マクスウェル分布」にほかならない(熱平衡状態に対応する)。
前論文での速度分布の導出に問題があるかもしれないと考えたマクスウェルは、「気体の動力学的理論について」(1866)という論文では次のような推論によって速度分布の関数を定めている。
一つの粒子の速度成分を考えるのではなく、二つの衝突する粒子を考えてそれらの速度が統計的に独立であると仮定する。つまり、一方が速度v、他方が速度v'を持つという分布の関数F(v,
v')を考え、この関数が二つの(独立)事象それぞれの確率の積f(v)f(v')になるはずだと見なすのである。平衡状態に達したときのこの関数を定めるためには、衝突前と衝突後の速度のペアを考えてみればよい。衝突前に〈v,v'〉だったペアが衝突後は〈w,w'〉になる数と、衝突前に〈w,w'〉だったペアが衝突後は〈v,v'〉になる数が等しければ平衡状態に達しているはずである。つまり、このとき
F(v,v')=F(w,w')
でなければならないはずである。この条件とエネルギー保存則等から、各粒子の速度分布を決める確率関数の形が導かれる(同論文、「任意の力の法則に従って互いに作用しあっている二つの系の分子の間の速度の最終分布について」の節。Brush,1976:
233-234 も参照)。結果はやはりマクスウェル分布となる。
4.
ボルツマンの推理
(1872)
ボルツマン「気体分子間の熱平衡についてのさらに進んだ研究」(1872、邦訳『統計力学』所収。以下邦訳のページ番号)は、エントロピーの力学的定義を示し、熱力学の第二法則にあたるH定理を証明した記念碑的論文である。このなかで、ボルツマンは分布関数を位置分布も含めるよう一般化した。そして、彼は次のような形で問題を提出する。
時間の始め、つまりt=0に、われわれの分子すべてについて位置、速度および速度の方向が与えられたとする。任意の時間tが経過したとき各分子の位置、速度および速度の方向はどうなるか、というのが問題である。(恒藤訳、同書32)
しかし、この問題は一般的な形では解けない。そこで、次にように「ほんの少し特殊な」形に制限する、とボルツマンは言う。
まず、非常に長い時間が経過した後では分子の速度の方向にとっては空間のあらゆる方向が等しい確率を持つであろうことは明かである。したがって、長時間後に成り立つ速度分布を見出すことだけを問題にするのならば、最初からすでにあらゆる速度の方向が等確率であると仮定することができる。(同、32−33)
第二の制限は速度分布が時間の最初にすでに一様なものであるということである。・・・すなわち、ある与えられた時間に数 f(x,t)dx が、空間r[単位体積を持つ小空間]を空間Rのどこに作ってもつねに等しい場合に、運動エネルギーの分布が時刻tに一様分布であると言う。(同、33)
この仮定(あるいはそれに含まれる仮定)は、「衝突数の仮定 Stosszahlansatz」と呼ばれる。エーレンフェスト夫妻は、この仮定が依存している統計的前提を次のように分析している。(この前提は、もちろん、確率概念を使って言い換えることもできる。しかし、この力学的文脈で、「確率」にどのような意味づけを与えることができるだろうか。これが大きな哲学的問題となって残る。)
単位体積当たりの分子の数は、分子が横切る空間が全空間中のどこであっても同じである。(Paul and Tatiana Ehrenfest, The Conceptual Foundations of the Statistical Approach in Mechanics, tr. by M.J. Moravcsik, Dover, 1990, p. 6)