科学哲学ニューズレター |
No.4, September 1994
Book Review: Japanese translation of C.R.Mollenhoff's Atanasoff: forgotten father of the computer by T.Saisho and Y.Matsumoto (S.Uchii)
コンピュータの歴史に少しでも関心のある者にとって、ENIACという名前は特別な意味を持つ。これは、Electronic
Numerical Integrator And Calculator の略称であり、第二次大戦中にアメリカ合衆国ペンシルヴェニア大学電気工学部
(ムア・スクール) で開発が始められ (1943年)、1946年に完成した汎用電子式の計算機を指す。この機械が世界最初のディジタル・コンピュータだと見なす説はしばらく前まで有力視されていたのである。このようにENIACは歴史的に重要な意義を持つ機械なので、解体された後もその一部が例えばスミッソニアン博物館やミシガン大学
(電気工学部) などで保存され展示されている。
このコンピュータを開発したのは、ジョン・W・モークリー (1907-1980) とJ・プレスパー・エッカート (1919-) を代表とする十人ほどの科学者グループであった。筆者の恩師、アーサー・W・バークス
(1915-) もこのグループの一員であった。また、「プログラム内蔵方式」という現在では常識となっているコンピュータ設計思想の提唱者として知られるフォン・ノイマンもENIACと間接的な関係を持ち、後に同じグループに加わって「プログラム内蔵方式」のEDVACの開発を始めた(1945年)。ちなみに、このグループは主導権争いから分裂し、モークリーとエッカートは大学を去って新しいコンピュータ会社を始め、フォン・ノイマンはプリンストンの高等研究所で別の機械の開発を始めた。このあたりのことは、コンピュータの歴史においては比較的よく知られた事実なのである。
前置きが長くなったが、今回邦訳が出たモレンホフ(1921-1991、アイオワ出身のジャーナリスト・法律家)の著書は、このENIACの栄光の陰に隠されていた科学者・技術者の醜い名誉欲、金銭欲と欺瞞とを見事に暴き、コンピュータ開発をめぐる競争と、巨大事業に成長したコンピュータ会社の金に糸目をつけない特許係争の実態とを迫力ある筆致で一気に読ませる秀作である。物語の(善玉)主人公はジョン・ヴィンセント・アタナソフ
(1903-) というブルガリア系アメリカ人である。以下、あらすじをかいつまんで紹介してみよう。
アタナソフは小さい頃から理数系の分野で才能を示した少年だった。彼は、フロリダ大学で電気工学を修めた後、アイオワ州立大学で修士号、ウィスコンシン大学でPh.D.
(1930年) を取得し、その後アイオワ州立大学で数学と物理学を教えていた。計算機に関する興味が芽生えたのは、Ph.D.論文となったヘリウムの誘電率の研究において近似解を求めるための長時間の計算(歯車式の計算機を使った)に悩まされたためである(同書34ページ)。
アタナソフがディジタル計算機のための決定的なアイデアを思いついたのは1937年の冬のことである。もう一年近くも考え続けているのに思わしい考えが浮かばないでイライラした彼は、研究室を出て愛車フォードに乗り、高速道路に出てぶっ飛ばした。寒い夜のハイウェイを200マイル
(320キロ)も走って、気がついてみるとミシシッピ河を渡ってイリノイ州に入るところだった。一休みして一杯やるために立ち寄った道路沿いの酒場のなかで、急にアイデアがまとまったのである(同書40ページ)。
(1) 電流を電子計算機の媒体とする
(2) 計算のために10進法ではなく2進法を採用する
(3)記憶するためにはコンデンサを使用し、電気が漏れて記憶が消滅しないように再生処理を繰り返し行なう
(4) アナログ計算機のように結果を積算していくのではなく、論理的な演算をその度に行なう。
その後計画を練ったアタナソフは、1939年の早春に計算機を開発するための予算申請を大学に出し、五月にそれが認可されて、研究助手として大学院生のクリフォード・ベリー(1918-1963)を雇い入れた。有能なベリーの助けを得て作業は順調に進み、1939年の10月にはアタナソフの基本的なアイデアを具体化した小規模な試作機が完成して展示されたのである(54ページ)。二進法の論理的演算による計算は、真空管を使った電子的回路で行なわれ、情報はコンデンサに記憶された。また、記憶を消えないように保つ記憶再生回路も組み込まれていた。
完璧に作動した試作機の出来ばえに勇気づけられて、アタナソフは29個の変数を持つ29元連立方程式を機械的手順に従って解く本格的な計算機を製作するプロジェクトにかかる。この機械は、アタナソフ・ベリー・コンピュータ(略してABCマシン)と後に呼ばれることになる。この機械の全般的な構造は1940年の秋までにはできていたのである。ところが、計算結果を二進法のパンチ・カードに出力するところに問題があった。当時の技術では10万回に1回ほどの割合でエラーが発生したのである。エラーの確率は低いが、高速の計算機にとってこれは重大な欠陥であった。アタナソフとベリーは、大学と交渉してABCマシンの特許申請を出す一方、この点を改良するためにその後努力を注ぐことになる。しかし、1941年12月に始まった太平洋戦争の影響が次第に大きくなり、アタナソフも1942年9月にはワシントンの海軍兵器研究所に移り、ABCマシンのプロジェクトは頓挫するのである。また、かなり後になってアタナソフにわかることなのだが、特許申請も大学当局に忘れ去られてしまったのである(同書74ページ)。
さて、ここから悪役の登場である。後にENIAC開発の中心人物の一人になったモークリーは、1940年の12月にアタナソフと出会うまで、ディジタル電子計算機の基本的アイデアは何も持っていなかったらしい(「らしい」というのは好意的判断である。彼は後のENIACの特許権をめぐる長期の裁判で、アタナソフに出会う以前にアイデアを持っていたという証拠を何一つ提出できなかった。同書18章、20章)。モークリーは、当時一種のアナログ型計算機を使って大量の気象データの解析を行なっており、それに興味を持ったアタナソフが学会で彼に声をかけたのである。このときの会話でアタナソフの機械に強い関心を示したモークリーは、翌1941年6月に非常識にも子連れでアイオワを訪ね、アタナソフの家に五泊も滞在してABCマシンを熱心に調べた。アタナソフとベリーは寛大にも特許申請前の機械の原理や作動を説明し、悪乗りしたモークリーは、アタナソフのこれまでの研究成果のエッセンスとも言うべき35ページの説明書を持ち帰ってよいかとまで尋ねる始末である。このときの訪問で、モークリーの子供を押し付けられて気分を害したアタナソフの(最初の)妻ルーラだけが、研究成果を盗用される心配をしている(同書6章)。
ペンシルヴェニアに帰ったモークリーは、1941年の秋にはムア・スクールに移り、「アタナソフの原理を使った計算機をここで開発してもよいか」という趣旨の手紙(9.30)を書いている。[家族をアーシナスに残していたモークリーは、この時期筆者の恩師バークスと同室であった。夏の電子工学の訓練コースにもともに参加していた。Burks&Burks,1981,
393.*] この手紙に対し、アタナソフは計算機の情報は極秘だと返事して二人の文通は途絶える。
* Annals of the Hist. of Computing 3
ところが、1943年の初めにモークリーは兵器研究所のアタナソフのところにひょっこり現れ、臨時の仕事の口はないかと頼み込む。この時期モークリーはすでにENIACのプロジェクトにかかわっているのだが、それについては口を閉ざしたままである。斡旋してやった仕事はおざなりにしかやらなかったモークリーは、1944年の初めになってやっとENIACの開発が陸軍のサポートで進行中であることをアタナソフに明かす。驚いたアタナソフは技術的な説明を求めるが、モークリーは「軍の機密だ」と冷たく言い放つ(7章、78ページ)。
ENIACは陸軍の弾道研究所のサポートを受け、巨額の資金 (50万ドル) を注ぎ込んで1946年に完成した(これに対し、ABCマシンにかかった費用は6000ドル)。そして、ENIACの特許はモークリーとエッカート二人の名前だけで1947年に申請された。この特許の内容は、ENIACが「自動電子式ディジタル計算機の原理」を具体化した最初の機械であるというものである。
このほかにも、後の裁判で争点となったエッカート・モークリーの「30A特許」(本書ではこの表現は出てこない) があり、こちらは再生記憶と二進法加算器を主たる内容として含む。いずれもABCマシンと深い関係を持つものである。
アタナソフの業績は、多額の特許料の支払いをめぐるコンピュータ会社の間での訴訟問題が生じなければ、おそらく埋もれて忘れ去られていたことであろう。モークリーとエッカートのENIAC特許(1964年に発効)はスペリーランド社が買い取り、他社から多額の特許料を徴収していたのだが、ハネウェル社だけがこれを拒否した。両社は互いに他を告訴し、種々の駆け引きがあった後、審理はミネアポリス地方裁判所で1971年に始まり、E・R・ラーソン判事の判決が出たのは1973年10月19日である。訴訟の費用は両社合わせて800万ドル以上かかったと見積もられている(係争の対象となった特許料は、数年間で数十億ドルにものぼる)。
この裁判で、モークリーはスペリーランド側、アタナソフはハネウェル側の証人として証言した。両者の証言の模様は本書の17章と18章で描かれている。結果は明白であった。アタナソフの記憶はしっかりしており、モークリーの手紙を初め、重要な資料はきちんとそろっていた。アタナソフの証言も見事であった。これに対しモークリーの記憶は定かでなく、証言も二転三転する有り様であった。彼は自分の決定的な主張を裏付ける証拠資料を何一つ示すことができなかった。
ラーソンの判決で、ENIACはその基本思想をABCマシンから受け継いでいると判断され、ENIAC特許は無効となった。この裁判は、個人の力ではとても不可能な、コンピュータ史の資料発掘を副産物としてもたらした。これだけの証拠に基づく判決にもかかわらず、ABCマシンに対する一方的で独断的な誹謗をくり返すモークリーとエッカートの姿は醜い(21章)。