科学哲学ニューズレター |
No. 38, January 29, 2001
The Graduation Theses and Master's Theses, 2001
Editor: Soshichi Uchii
本年度の卒業論文・修士論文特集
われらが京大文学研究科・文学部では、論文の締め切りも口頭試問の日程も年々早くなる傾向にあり、あわただしい。おまけに今年は昨年から持ち越しの不愉快な「噂の真相」究明(はようせなアカン!)まであるらしく、「自由と放縦」の京大でも、われわれの言動には「一段と」注意が必要とされている。筆者のようにポンポンと物を言う人間にとっては、まことに精神衛生によろしくない。かようなわけで、学生、院生諸君の苦心作の論文についても、「控え目」調でいくことにしよう。口頭試問は1月31日-2月2日、覚悟はエエか?(「王様の耳はロバの耳!!」)
卒業論文 Graduation Theses
高田崇司「公理的集合論による実数論展開」(Takashi Takada, Real Numbers in an Axiomatic Set Theory)
実数を定義するに当たっては、歴史的に二つの主要な方法が有名である。一つは「デデキントの切断」、もうひとつはカントールその他による無限数列を用いる方法である。これら二つの方法をインフォーマルに説明したあと、論者はツェルメロ-フレンケルの公理的集合論の中で二つを再構成できること、そして二つのやり方による実数の定義が同等であることが厳密に証明できることを示す。公理的集合論の中での実数論の展開については、すでに島内剛一氏その他の文献があるが、それらに依拠しつつも、卒論でここまで手際よくおさらいをした学生はこれまでいなかった。
国代尚章「ロバ−ト・ボイルの空気研究」 (Naoaki Kunishiro, Robert Boyle's Study on the Air)
「ボイルの法則」で知られるロバート・ボイルの実験哲学と粒子論との関係に焦点をあわせようとした研究。ボイルは、一方では「事実」の探求と「原因」に関する思弁とを分けて、前者に集中しようとする手法を用いたが、他方で「粒子哲学」によって空気の弾性を説明しようという思弁的考察も展開した。これら両面を、Shapin & Shaffer, Hunter, Westfall らの二次文献に依拠しつつ解説するのだが、これらの論者のアプローチの違いがほとんど考慮に入っていないチグハグさが気にかかる。結局、テーマとされた二面性については、「このような帰納と仮説のバランス」こそボイルに続く自然哲学者の特徴だったのだ、という結論で終わる。
山下幸宏「遺伝子から自己複製子へ」 (Yukihiro Yamashita, From Genes to Replicators)
ドーキンスは、進化生物学においてウィリアムズが提唱した「遺伝子成功」の考え方を、「利己的な遺伝子」というキャッチフレーズによって普及させた。この考え方の利点は、「個体の繁殖成功」やその他の概念を中心とする説と比べて、より多様な現象を包括的に扱うことができると見なされる点にある。しかし、論者は、利点に関するこの基準を採用するのであれば、遺伝子だけでなく、もっと一般的に「自己複製子」を認める考え方のほうがもっと包括的な説明を提供できるのではないかと論じる。遺伝子中心のドーキンスの考え方を、数人の論者の考えを援用していろいろな角度から批判し、次世代への「継承と伝播」が必ずしも遺伝子に依存しない形の「拡張された自己複製子」の理論を擁護しようとする論考。
修士論文 Master's Theses
網谷祐一「生物学的種概念(マイヤー説)の検討」 (Yuuiti Amitani, An Examination of Mayr's Concept of Biological Species)
自然界には「離散的な」グループ分けが成立しており、その最小単位が「種」とよばれ、生物学で重要な役割を果たしてきた。しかし、種とは何か、どのように定義するのが適切か?論者は、現代生物学の重鎮、マイヤーによる「生物学的種概念」の有効性と限界を検討する。その際、分類体系で用いられる、命名・整理のための道具としての種概念ではなく、進化学説の文脈で用いられる種概念をもっぱら問題にするというのが論者の方針である。種問題にかかわる文献渉猟はかなりのもの。
超人的と言えるほど長いキャリアを誇るマイヤーの当初の定義は、「種は、実際にあるいは潜在的に相互交配する自然集団のグループであり、他の同様な集団から生殖的に隔離されている」というものだった。この定義では、「生殖隔離」に特権的な重要性が与えられていると論者は言う。しかも、この定義にはまだ前提されている「想定」があり、それを検討しなければこの定義の有効性は十分には検討できない。マイヤーのいくつかの重要な主張から拾い出されるのは、次の「想定1」であり、1963年頃まではこれが維持されていたと論者は見る。
想定1 (a)遺伝子流動が生じる集団に属する個体間は形質の類似性が生じる。(b)もともとは一つの生殖共同体を形成していた集団で、遺伝子流動が起こらなくなった[そして複数のグループに分かれた]あとには、その時点で見られたグループ間の形質ギャップは拡大する。マイヤーにとって、種が存在することの(進化的)意味は、それ自体のうちで統合性を有し、環境に適応した遺伝子型の保存にある。そこで、生殖隔離によって区切られた集団は、遺伝子の組み替えが起きる場として維持され、この区切りを超えて新たな形質の変化は伝播しないと見なされている。
もちろん、このような考え方に基づいたマイヤー説にはいくつかの批判も提出され、マイヤーもそれらに答えてきた。そのやりとりを調べて論者が指摘するのは、種内の形質の「まとまり」を作り出す要因は、生殖隔離以外のものがあり、それらの方が生殖隔離よりも重要である場合があるのではないかという疑問である。難点を説明しようとするマイヤーの応答の過程で、「遺伝子間の相互作用」という新たな仮定が導入され、これによって表現型の変異の幅に限界があるのだとされる。例えば、遺伝子流動が途絶えた集団間で形質の分化が生じないのは、これに訴えて説明される。そこで、マイヤーの想定は、次のような、やや弱められた形に修正されたのだと論者は分析する。
想定2 (a)遺伝子流動が生じる集団に属する個体間では、形質の類似性が生じるか、あるいは少なくとも形質の差異は広がらない。(b)もともとは一つの生殖共同体を形成していた集団で、遺伝子流動が起こらなくなった[そして複数のグループに分かれた]あとには、その時点で見られたグループ間の形質ギャップは固定されるか、あるいは拡大する。論者の残りの議論は、この「想定2」の検討に当てられる。数多くの文献に言及した細かい点での反論や保留を省くなら、論者の結論は次の二つにまとめられる。(1)生殖隔離によって新たな形質の伝播が妨げられるというマイヤーの主張は正しい。しかし、(2)その区切りの中で個体がどのような形質を持つかは、様々な要因によって決まるはずであり、遺伝子流動が特権的な役割を果たすというマイヤーの従来の主張は維持しがたい。
瀬戸口明久「L. O. ハワードとアメリカにおける応用昆虫学の展開」 (Akihisa Setoguchi, L. O. Howard and the Development of Economic Entomology in the United States)
この論文では、19世紀末から1920年代にかけての応用昆虫学の展開と害虫防除技術の変化が扱われる。論者がねらいとするのは、レイチェル・カーソンが批判したような「化学殺虫剤によって自然を支配しようとする」考え方がどのようにしてアメリカで支配的となり、どのような人物、思想、あるいは技術がこの流れに力を貸したのかを明らかにすることにある。また、研究対象とする時期をこのように設定したのは、1945年に登場したDDTの普及の下地をきちんと理解しておかなければならないこと、また、化学殺虫剤の歴史を正しく理解しておかなければならない、という認識に基づく。この論文も、資料探索はなかなかのもの。
まず、「応用昆虫学economic entomology」という分野について、論者は「1870年代のロッキートビバッタの大発生によって」形成を促され、確立した分野だという。この分野の昆虫学者たちは、連邦農務省や州立農事試験場などの公的機関で害虫防除技術の開発や普及活動をおこなった。こういった活動の中心となっていくのが、当初地質調査局のうちに設置された「昆虫学委員会」であり、これは1880年には農務省の「昆虫部門」に移管され、1904年には「昆虫局」に昇格する。そして、本論文の主役となるのが、1894年に局長に就任以来、1926年まで在任したハワードである。長期にわたる在任と、政治的手腕および「昆虫との戦争」というレトリックによって、彼が害虫防除の研究体制と政策に大きな影響を与えてきたと論者は見る。ただし、ハワードのせいで化学的防除の方策が勝利を収めた、と論者は主張するわけではない。もちろん、化学的防除は強化されたが、それにもまして「害虫防除の規模の拡大」が重要であったと論者は言う。第一次大戦後の、飛行機による農薬散布の開始、連邦政府による防除の大規模なキャンペーン、そしてメディアを使った、教育と宣伝──これらがハワードの在任中に確立された。それが、冒頭で触れられた「自然を支配」しようとする体制の成立である。
論者の叙述は、多くの二次文献に依存するとはいえ、害虫被害と対策の多くの具体的な事例に立ち入って、なかなか興味深い。例えば、ロッキートビバッタは、アメリカ・インディアンにとっては食料ともなったが、開拓農民にとっては作物を食い荒らす「害虫」でしかなかった。以後登場してくる「脇役」(ホントは、ハワードを食って主役の座を奪いかねない?)は以下の通り。ハワードの(「深い」とは言えない)思想に比べて、これらの記述の方がはるかにおもしろい。
イセリアカイガラムシ(カリフォルニアの柑橘類に被害を与えたオーストラリア原産のカイガラムシ。これに対しては、天敵のベダリアテントウの導入が劇的に成功を収めた。このような技術は「生物的防除」とよばれる。)
マイマイガ(19世紀末にアメリカ東北部に侵入した森林害虫であり、当初殺虫剤が使われた──「化学的防除」とよばれる──が効果が薄く、ハワードは1905年以後生物的防除を試みたが、これもあまり成功しなかった。)
ワタミゾウムシ(南部の綿作地域全体に被害をもたらした。綿の実の中で生涯の大半をすごし、それゆえ殺虫剤の効果が期待できないこの虫対する方策として、ハワードの部下が「耕種的防除」、すなわち栽培方法を工夫したり変更することによって虫を駆除したり発生を抑える方策、を推奨したが、農民たちは受け入れなかった。やっと、1918年に砒酸石灰という薬剤が見つかり、薬剤散布の機械化と相まって被害を抑えられるようになった。)
ヨーロッパアワノメイガ(1917年にマサチューセッツで侵入が確認され、後に中西部の広大なトウモロコシ畑に被害が広がった。天敵の導入も効果が薄かったので、1927年に一千万ドルを費やし、ラジオ等を使ったキャンペーンも利用した、耕種的防除の事業がおこなわれたが、短期的に成功したのみで、結局は失敗に終わった。)
Last modified Nov. 30, 2008. (c) Soshichi Uchii