科学哲学ニューズレター |
No.3, June, 1994
S. Uchii, "Do you want to read such translations as this?----Kuhn's Copernican Revolution, tr. by K.Tsuneishi"
本年度の科学史演習(前期、内井)では、クーンの『コペルニクス革命』を取り上げている(副読本として、Toulmin & Goodfield,
The Fabric of the Heavens)。数週目にして明らかになったことは、常石敬一氏の翻訳(紀伊国屋書店、1976、講談社学術文庫に再版、1989)が信頼性に乏しく、学術的な使用にまったく耐えないということである。
(1)訳者は英語自体がろくに読めていない。小さな誤訳だけでなく、クーンの議論の基本的なところが逆に訳されたり支離滅裂なものにされているので始末が悪い。その結果、クーンの主張がたびたび理解できないものに変容している。
(2)クーンが引用しているコペルニクスの英訳文が、翻訳の際、基本的に矢島祐利氏の訳文(『天体の回転について』岩波文庫、1953。このタイトル自体が誤訳である。「天球の回転」でなければ原典の趣旨が伝わらない。)に置き換えられている。それによって、矢島氏のコペルニクス誤訳あるいは誤読がそっくりそのまま引き継がれており、より正確な英訳に依拠するクーンの議論を大いに損なうものになっている。なお、昨年末出版された『コペルニクス・天球回転論』(高橋憲一訳・解説、みすず書房)は、訳・解説ともに非常に優れたものであり、筆者は大いに敬服したことを付け加えておきたい。
筆者は科学史の専門家ではなく科学哲学を専攻するものであるが、その素人の判断によってさえ、常石訳は科学史の著作の翻訳としては失格であると断言せざるをえない。以上の主張を以下で実例により具体的に裏づけることにしたい(常石訳は講談社版、太字は誤訳該当箇所)。
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1[常石訳 p.29]エジプトの最北部では質的な変化も存在する。
[原書 p. 12] and in the southernmost parts of Egypt there is a qualitative
change as well.
[内井改訳]エジプトの最南部では
2[常石訳 p.114]しかしこれら選択肢は、すでに得られている観測結果を概ね許容する。それらは可能性のあるすべての観測結果に同一の説明を与えることはない。たとえばコペルニクスの体系は二つの球の宇宙とは次の点で違いがある。すなわち恒星の見かけの年周運動の予測、恒星天球の半径をもとずっと大きくしようという要請、そして(コペルニクスのものと一致はしないが)惑星の問題についての新しい種類の解法の示唆。このような(そしてそれ以外にも沢山ある)違いが出てくるのは、科学者が自分の体系を未知の領域の実り多い研究の案内役として信じるよりも前に、とにかく自分の体系を信頼してしまっている、という理由による。いろいろな選択肢のうち実在(reality)を表現できると考えられるのは一つだけであり、新しい領域を探求する科学者は、自分がそれを、あるいは最大限それに近いものを選んでいると確信しているにちがいない。しかし科学者のこうした一つの特定の選択肢の支持には、それ相応の犠牲がともなう。すなわち彼は誤りを犯している可能性がある。唯ひとつの観測結果でも彼の理論と矛盾するものがあるということは、彼が採った理論が完全に誤りだった、ということを示している。このとき彼の概念図式は棄てられそして取り代えられるはずだ。
[原書 p.75] But these alternatives agree principally about observations
that have already been made. They do not give identical accounts of all
possible observations. The Copernican system, for example, differs from
the two-sphere universe in predicting an apparent annual motion of the stars,
in demanding a much larger diameter for the stellar sphere, and in suggesting
(though not to Copernicus) a new sort of solution for the problem
of the planets. It is because of differences like these (and there are
many others besides) that a scientist must believe in his system before
he will trust it as a guide to fruitful investigations of the unknown.
Only one of the different alternatives can conceivably represent
reality, and the scientist exploring new territory must feel confident that
he has chosen that one or the closest of the available approximations to
it. But the scientist pays a price for this commitment to a particular alternative:
he may make mistakes. A single observation incompatible with his theory
demonstrates that he has been employing the wrong theory all along. His
conceptual scheme must then be abandoned and replaced.
[改訳]しかし、これらの選択肢は、主として、すでに得られている観測結果にかんして一致するのである。これらの選択肢は、すべての可能な観測にわたって同じ説明を与えることはない。例えば、コペルニクスの体系は、二つの球の宇宙体系とは次の点で異なる。すなわち、恒星の見かけの年周運動があると予測すること、また恒星天球の直径としてはるかに大きな値を要求すること、そして惑星の問題について新しい種類の解決を示唆する(コペルニクスに対して示唆したのではないが)ということである。このような違いがある(それ以外にも多くの違いがある)ゆえにこそ、科学者は未知のものにかんする実り豊かな探求の案内役として自分の体系を信頼するよりも前に、自分の体系をまず信じ込まなければならないのである。これらの選択肢のうちでおそらくただ一つだけが実在を再現していると考えうるのであり、新しい領域を探求しつつある科学者は、自分がその正しい選択肢を選んでいる、あるいは手に入る限りで最もそれに近いものを選んでいるという確信を感じなければならない。しかし、科学者が特定の選択肢にこのように賭けることには代償が伴う−−間違いを犯すかもしれないのである。彼の理論と矛盾するただ一つの観測結果によって、彼がずっと誤った理論を採用してきたのだということが証明される。このとき、彼の概念図式は放棄され、置き換えられなければならないのである。
3[常石訳 p.158]中世の学者の仕事は、遠近画法で描かれた歴史的視野のなかで見ると、非常に不自然なくらい複雑である。
[原書 p.103]The task of the medieval scholar was further and artificially
complicated by a foreshortened historical perspective.
[改訳]中世の学者の課題は、縮小して歪められた歴史的遠近法によって、さらに、そして人為的に複雑となった。
4[常石訳 p.171]それに反対することそれ自体がすでに驚くべきことである。すなわち、まず昇天はキリスト教史諸相のなかで種々の問題を提起した唯一のものであり、
[原書 p.111] It is the objections themselves that are astounding, particularly
since the Ascension is only one of the aspects of Christian history to present
problems
[改訳]これらの反論自体が驚くべきことなのである。というのは、とくに昇天はキリスト教史の諸相のうちで種々の問題を提起したもののうちの一つにすぎず、
5[常石訳 pp.171-172]しかし非常に詳細で博識な彼らの著作は、中世後半になって生まれた新しいキリスト教的宇宙論の全体的構造をおおい隠してしまった。
[原書 p.112]But the very detail and erudition of their works obscured the
over-all structure of the new Christian universe that was emerging late
in the Middle Ages.
[改訳]しかし、彼らの著作のまさに細部と博識とが、中世後期に出現しつつあった新しいキリスト教的宇宙の全体的構造をわかりにくくした。
6[常石訳 p.174]その復活という点においては中世思想のどの面よりも、人間の本性および運命という小宇宙を、宇宙の構造という大宇宙のなかに投影する象徴主義の方が困難である。
[原書 p.113]No aspect of medieval thought is more difficult to recapture
than the symbolism that mirrored the nature and fate of man, the microcosm,
in the structure of the universe, which was the macrocosm.
[改訳]人間という小宇宙の本性と運命を世界という大宇宙の構造のなかに写し出すという象徴主義は、中世思想のどの面よりも再現することがむずかしい。
7[常石訳 p.209]たとえば、より包括的な研究であればあるほど、それに対する反対はすぐに現れてくるだろう。
[原書 p.134]Opposition to a more comprehensible work might, for example,
have been marshaled sooner.
[改訳]例えば、より理解しやすい研究であったなら、それに対する反対はより速やかに用意されたかもしれないのである。
8[常石訳 p.220]しかし、あらわになった怪物に対する不満は「コペルニクス革命」への最初の一歩にすぎない。次にコペルニクスの序論的手紙の残りの部分に述べられていることをきっかけとして考察してみよう。
[原書 p.141]Discontent with a recognized moster was, however, only the first
step toward the Copernican Revolution. Next came a search whose beginnings
are described in the remaining portions of Copernicus' prefatory letter:
[改訳]次に探索が行なわれるのだが、その始まりはコペルニクスの序論の手紙の残りの部分で述べられている。
9[常石訳 p.222]コペルニクスはここで彼の体系とプトレマイオスのそれとの間の唯一の最も際立った相違を指摘している。コペルニクスの体系では各々が他の軌道を固定しているので、あるひとつの惑星の軌道を自由に縮めたり拡げたるすることはもはや不可能である。
[原書 p.142] Copernicus here points to the single most striking difference
between his system and Ptolemy's. In the Copernican system it is no longer
possible to shrink or expand the orbit of any one planet at will, holding
the others fixed.
[改訳]コペルニクスはここで彼の体系とプトレマイオスの体系との間の単一のものとしては最も際立った違いを指摘している。コペルニクスの体系では、任意の一つの惑星の軌道を、他のものを固定したときには、自由に縮めたり拡げたりすることはもはやできないのである。
10[常石訳 p.224]西洋思想の二、三の面にはコペルニクスの著作のもたらした結果の影響は長い間見られなかったが、その著作そのものは極めて技術的で専門的なものだった。
[原書 p.143]Though few aspects of Western thought were long unaffected
by the consequences of Copernicus' work, that work itself was narrowly
technical and professional.
[改訳]西洋思想のうちで、コペルニクスの仕事がもたらした帰結の影響を長い間まぬかれた側面はほとんどないのだが、その仕事そのものはきわめて技術的で専門的なものであった。
11[常石訳 p.226]しかし第一巻は重要ではない。
[原書 p.145]But the First Book is not unimportant.
[改訳]しかし、第一巻は重要でないわけではない。
12[常石訳 p.235]さしあたり第六章「地球の大きさに比べて天の無限なること」はとばし、
[原書 p.150]Omitting for the moment Chapter 6, Of the Vastness of
the Heavens compared with the Size of the Earth,
[改訳]さしあたり第六章「地球の大きさに比べて天の広大なること」はとばし、[コペルニクスでは宇宙はまだ有限であることに注意!この誤りは、コペルニクスの矢島訳を無批判に丸写ししたことによる。]
13[常石訳 p.243]そのあるべき場所から離れているわずかな物体は、その球と一緒に回転しつづけ、同時にそのあるべき場所へ向かう直線運動によってそこに戻っていくだろう。それは際立って調和を欠いた理論である(第六章でもっと詳しく示す)。そしてそのとくに調和を欠いている部分のほとんどが、どちらかというと彼独自のものではない。
[原書 p.154]A bit of matter separated from its natural position will
continue to rotate with its sphere, simultaneously returning to its natural
place by a rectilinear motion. It is a singularly incongruous theory (as
Chapter 6 will demonstrate in more detail), and, in all but its most
incongruous portions, it is a relatively unoriginal one.
[改訳]そのあるべき場所から離れている一片の物体は、・・・。そして、その最も不調和な部分を除いたすべての部分で、この理論はあまり独創的ではないのである。
14[常石訳 p.267]天文学者にとって、コペルニクスの体系とプトレマイオスの体系のいずれを選ぶかは、はじめは味覚の問題にすぎなかった。そして味覚の問題は、あらゆる問題の中で定義あるいは論争が最も困難なものである。
[原書 p.172]To astronomers the initial choice between Copernicus' system and
Ptolemy's could only be a matter of taste, and matters of taste
are the most difficult of all to define or debate.
[改訳]趣味の問題・・・[誤訳というよりも、アジの悪い冗談だろうか?]
15[常石訳 p.279]われわれはこの驚くべき秩序のなかに宇宙の調和と同時に、諸球の運動と大きさのある関係を見いだすのである。[コペルニクスからの引用文]
[原書 p.180]So we find under this ordination an admirable symmetry in the
Universe, and a clear bond of harmony in the motion and magnitude of the
Spheres such as can be discovered in no other wise.
[改訳]そこで、われわれはこの順序づけのもとに、宇宙の驚くべき均衡と、すべての天球の運動と大きさとの明らかな調和の絆を見いだすのである。[symmetryには、高橋訳にしたがって「均衡」という語を当てた。常石訳はクーンが採用している英訳を無視して矢島誤訳を丸写しにしたもの。]
16[常石訳 p.280]これらはすべて同一の理由から生ずるのであり、それは地球の運動である。
[原書 p.180]All these phenomena proceed from the same cause, namely
Earth's motion.
[改訳]これらの現象はすべて地球の運動という同一の原因から生じるのである。[常石訳はやはり矢島訳の踏襲。]
17[常石訳 p.280]この決定的に重要な第十章を貫いているコペルニクスの主張は、「驚くべき秩序」と「調和と同時に諸球の運動と大きさのある関係」であり、・・・[ここはクーン自身の文章]
[原書]Throughout this crucially important tenth chapter Copernucus' emphasis
is upon the "admirable symmetry" and the "clear bond of
harmony in the motion and magnitude of the Spheres" that . . .
[改訳]この決定的に重要な第十章全体を通じて、コペルニクスが強調しているのは「驚くべき均衡」と「すべての天球の運動と大きさとの明らかな調和の絆」である [原著者の言葉をまったく無視して別人が誤訳したフレーズを代入する常石氏の方針は、不可解であるというよりも明らかな詐欺である。二つ前の矢島訳を参照。]
18[常石訳 p.281]調和から引き出される証拠は、いくらあっても印象深いのもでなければ無いと同じである。
しかしおそらく、そうしたものはないであろう。
[原書 p.181]The sum of the evidence drawn from harmony is nothing if not
impressive.
But it may well be nothing.
[改訳]調和から引き出される証拠の総和は、印象深くなければ無に等しい。
しかし、実際無に等しいかもしれないのである。[常石氏は、おそらく二つの文のつながりが読めてないのである。]
19[常石訳 p.281]彼の論証は、たとえその論証を理解したとしても、より小さな天の調和をより大きな地上の不調和の代わりにしようとしない素人には、何の魅力もないものだった。彼の論証は必然的に天文学者の気に入るものでもなかった。
[原書 p.181]They had no appeal to laymen, who, even when they understood the
arguments, were unwilling to substitute minor celestial harmonies for
major terrestrial discord. They did not necessarily appeal to
astronomers, for
[改訳]彼の論証は、たとえそれを理解したとしても、地球上の大きな不調和という代償を払って天の小さな調和を得たいという用意のない素人にとっては、何の魅力もないものであった。彼の論証は、必ずしも天文学者の気に入るものでもなかった。
20[常石訳 p.283]これまでわれわれは、コペルニクス自身がそうであるのと同様、コペルニクスの革新の大きさを過小評価してきたが、それはいままでもっぱら破壊力を秘めた革新が、究極的にはそれ自身を壊してしまう伝統からどのようにして生まれえたのかを、見出すことにかかわっていたからである。
[原書 p.182]We have minimized, as Copernicus himself does, the extent of the Copernican innovation, because we have been concerned to discover how a potentially destructive innovation could be produced by the tradition that it was ultimately to destroy.
[改訳]われわれは、コペルニクス自身がそうしたように、コペルニクスの革新の範囲を最小にとってきた。なぜなら、われわれが見いだそうとしてきたのは、潜在的に破壊力を持った革新が、その革新によって最終的には壊されてしまうことになる伝統からどのようにして生み出されうるのか、ということだったからである。