科学哲学ニューズレター

No.12, October 1995

Book Review: F.Satoh's Science and Happiness (S.Uchii)


書評 
佐藤文隆著『科学と幸福』岩波書店、1995年9月刊――(内井惣七)


曽々束氏「ちょっと、この本のタイトルはいったい何や?佐藤せんせちゅうたら宇宙論のエライせんせとちゃうんか。いつから新興宗教の教祖になったんや?」
ロンリー警視「曽々束さん、言葉を逆転させてはダメですよ、『幸福と科学』でも『幸福の科学』でもありません!とはいえ、著者もこのタイトルはだいぶ気にして、『はしがき』と『あとがき』でも相当言い訳をしてますね。これは、おそらく出版社の方針で変えられなかったのでしょう。帯の宣伝文句もスゴイですよ!」
「なになに、――『正義の味方』をうたう『科学』に税金を献ぎ、生存と精神の幸福を託して大丈夫なのか?聖域の『裸の王様』を科学的精神で解剖する!――やて。もうちょっとマシな宣伝文句を考えられんのけ。いったい誰が科学が正義の味方やなんて思うとんのや。読者を馬鹿にしたらあかんがな。科学は価値中立や、ゆうて学校いっとる間じゅう教えられたで。おまけに、ワシは科学に精神の幸福託したいなんて夢にも思うとらへん。ワシは囲碁に幸福を託し、大阪弁で精神のバランスをとってんのや」
「マアマア、この文句も著者の責任とは違うでしょ。しかし、阪神大震災と地下鉄サリンの後ではいかにもタイミングの悪い文句ですね。新聞に出てくるおおかたの名士は、科学教育の欠陥が露呈したとか、科学技術の暗い面が見えた、とかいう論調でしたからね。いまや科学は悪者扱いですね」

「ま、表紙だけ見てイチャモンつけてもシャアないわ。いったいどんな中身になってますねん?」
「私にはけっこう面白かったですよ。所々、著者が過去に書いたものの抜き書き集みたいなところはありますが、制度としてのこれからの科学はいかにあるべきかという問題に対する、著者の物理学者としての体験をふまえた提言がなされてます。内井さんが本誌7号でも取り上げた村上陽一郎の『科学者とは何か』ともかなり重なるテーマですね」
「もったいつけんと、早よその提言とやらを教えてくらはい」
「そういう風に性急に科学の営みを薄っぺらに理解しようとしてはいけない、という提言も含まれてます。例えば、紋切り型の科学批判の一つに、『科学は核兵器を作り出した。しかし核兵器は悪である。したがって科学は悪に手を貸した』というたぐいの論法がありますね。しかし、著者は、子供心にも『原爆はすごい!』という感銘を受け、それが著者を物理学へと導いた原体験ではなかったかと正直に書いています。また、原爆に対する感銘は著者だけの個人的なものではなく、戦後しばらくの間、武谷三男ら多くの科学者が共有するものであったことも指摘しています。科学の成果が持つこういったプラスイメージを意識的・無意識的に無視した科学批判をやんわりとたしなめているわけです」
「なに、ほな科学はそういうプラスイメージを持っとるから人間の幸福に貢献するんや、いうことか?」

「またまた短絡思考です。原爆の開発が著者に与えたような感銘が、人々を科学に引き入れ、科学を推進させる情念になるということです。相対論やDNAの発見にも、核兵器の開発にも、同じ知への情念が働いていることには変わりがない。そこで、この情念を何らかの別の価値観で統御しなければならない、というのが著者の基本的な考えです(p.43)。ま、それがなければ人間の幸福にもつながらないということでしょうか」

「せやけど、その『別の価値観』はどっから持ってきますねん?」
「それがまさに問題ですね。この点について、著者は明快な回答を用意しているわけではなく、いろいろな素材をもとに多様な代替案をさぐってみようということでしょうか」
「素人考えやけど、科学が真理の探求を目指すんやったら、その目標に即して『採るべき道』が合理的に決まるんやないのけ?」
「そんなキレイごとはこの三十年ほど哲学者や科学史家に散々叩かれて通用しない、というのが大勢らしいですよ。著者もおおむねそれを認めているようですね。だから、『国家と科学』の関係(税金を使って大きなプロジェクトを進める)やら、『社会的要請に基づいて科学をガイドする』なんて可能性も考察されているわけです。私が面白かったのは、第2章で紹介されているアメリカでのビッグサイエンス叩きと、それに対するクレップナーという物理学者の反応の紹介です。彼は、大半の科学者の気分を代弁し、『科学の伝統的な目標が社会的に無責任であるという言説には同意しない』と頑張っている。したがって、社会的要請に応じた科学なんて考えは、長い目で見ると科学をダメにするというわけです(p.73)」
「たしか、さっき名前が出た村上陽一郎も、職能集団としての科学者は無責任態勢を改めて『外に向かって開かれた』研究態勢を作り、『未来に対しても責任ある』研究せなあかん、とか言うてましたな。せやけど、具体的にどないしたらええのか、結局ようわからんかったな。で、佐藤せんせはもっとマシな答えを用意しとるのけ?」

     

「うーん、私も理解がイマイチかもしれませんが、結論めいた提言は『職業としての科学を拡大する』ということらしいですね。念のために引用しましょうか。極端に言えば、科学を大きくするのは「役立つから」でも「実現する目的」があるからでもない。そうではなく人々に「善く生きる」場を与えるという社会政策である。(p.160)
この政策は、現在の科学界(理工医薬など)が自己の勢力圏拡大のような発想でやるべきではなく、シビリアン・コントロールの発想で行なえ(p.214)、と言ってます」
「ちょっと待ってえな。それやったら、『幸福になるために職業的科学者になれ』いう提言か?(プラトンやアリストテレスでは『善く生きること』すなわち『幸福』やで。知っとるけ?)それはいくらなんでも我田引水が過ぎるんとちゃうか。その手の提言なら、チトくそ真面目すぎるかもしれんけど、倫理学者ピーター・シンガーの『幸福になるためには倫理的な生き方をせえ』いうほうがまだしも説得力があるのとちゃうか?(『私たちはどう生きるべきか』法律文化社、1995)シビリアン・コントロールなんて横文字使うても、その基準を示さな無内容や。例えば、村上はんが提起した科学者の『職能倫理』の問題はどないなるんや。シンガーの提言やと、科学者も含めてみなに倫理的生き方勧めるわけやから、人間の倫理の一分野として職能倫理も当然含まれますわな。佐藤せんせの提言やと、ワシのカンでは、結果的には現在の科学界の勢力拡大にしかならんやろ」
「著者も科学者の職能倫理の共有ということは重視している(p.156)ようなのですが、その具体的規範と、それがどこから出てくるのかという肝心のことは何も教えてくれません。これをきちんと言うためには、結局『科学の分際』(p.78)をわきまえ、科学的アイデアの『飛躍と理詰めの検討』(p.156)をするといった科学的仕事のありかたを検討する科学哲学がいると思います。しかし、著者自身が、幾重にも重なる科学の重層構造のうち本書では一番外側(制度としての科学)しか問題にしなかったという自覚を持って書いたのだから、この本ではないものねだりかもしれません」

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「なに、そうすると結局この本は1500円出して買う値打ちあるんやないんや、どっちですねん」
「あり、です、もちろん[だから書評に取り上げてます――内井注]。全体としては魅力のある本で、読み始めたら引き入れられます。わざと挑発的なタイトルつけて読者を惑わしているので、私も言いたいこと言わせてもらいましたけど、ときにはノラリクラリと、ときには飄々と進める話の合間にズバスバッと鋭いコメントが入ってくるのは、やはりその道40年の貫禄ですかね。例えば、科学のジャーナリズムや社会教育の実態には手厳しいですよ。NHK大型企画の「宇宙銀河オデッセイ」については次のとおりです。

さらにまた、宇宙は身近に描こうとするのに、その一方でそれを支配する物理機構は宇宙独特の遠いものとして描く傾向がある。人々は地上ではわからない宇宙独特の法則に憧れるが、そんなものはない。宇宙創生に絡むベビーユニバースの話題さえ時空元の問題として、目の前の時空そのものを拡大すれば出てくる地上の物理の問題と一緒なのである。「ホーキング特集」の解説でテレビ出演した時に目の前にベビーユニバースがあるのだと言ったら、司会のアナウンサーが目をシロクロして本当に驚いた。(pp.192-193)

また、大阪市立科学館の展示のコンセプトを批判して次のように言ってます。


・・・「宇宙はビッグバンで始まった」などという知識は二束三文の値打ちもない。値打ちがあるのは「なぜ、そう考えられるか」である。この点は、ビッグバンとかクオークとか、五官的な存在ではなく、そこから何重もの概念の階梯を経由してつながっている存在の場合には特に注意を要する。(p.198)」

「へーえ、そら知らなんだなあ。やっぱりモチはモチ屋か。しかし、幸福は科学者の手には負えんちゅうことやな」

  


編集後記  来年度は当研究室にも修士課程ができる。入試は応急処置で「哲学専攻」の一分野として2月に行なう。ささやかな「勢力拡大」を期待したい。(95.10.3/内井)


Last modified Nov. 29, 2008.