Functional Explanation (1)
機能的説明(Functional Explanation)
1950年代の終わり頃から現在に至るまで、長い間哲学的論議の対象とされてきた一つの問題は、生物学や社会科学で用いられてきた「機能的説明」の分析と妥当性の問題である。この問題は、テキストで触れた目的論的説明と関係があるだけでなく、近年の社会科学の哲学でも一つの基本問題であると見なされている(see Merrilee Salmon, Phil. of Soc. Science, Outline 12, 13, 14, and 15)。
機能的説明の分析に入る前に、あるものにある機能を帰属させる典型的な事例を二、三確認し、素朴なレベルでの「説明」とのつながりを指摘しておきたい。まず、ヘンペルが1959年の古典的な論文 "The Logic of Functional Analysis" で取り上げた事例。
(1)脊椎動物における心臓の鼓動はその動物の身体における血液循環という機能を持つ。これは、現在では常識となっている「生理学的機能」の一例であるが、同じ内容は、「脊椎動物において、心臓は血液循環のはたらきをつかさどる」と言い換えることもできるし、もっとくだけた言い方では「脊椎動物において、心臓は血液循環のためにある」と言い換えられることもしばしばである。ところが、この最後の言い換えは、「なぜ心臓があるか?──血液循環のため」という、目的論的説明の文脈で使われうることが明らかであろう。ダーウィンやウォレス以来、生物学でも目的論的説明を避け、作用因のみによる説明で置き換えようという流れのなかでは、この一見したところ「目的論的」な説明パターンはどう分析されるべきだろうか。これが、50年代、60年代のいわゆる正統的科学哲学をになったヘンペルやネーゲルの問題意識であった。
二つ目の事例は、ネーゲルが彼の主著、The Structure of Science (1961) で用いた例。
(2)(緑色)植物における葉緑素は、光合成(水と二酸化炭素および太陽光によって澱粉を作る)の機能を持つ。この例も、先と同じような言い換えと、「目的論的説明」での使用とが可能である点では同じである。すなわち、「葉緑素は光合成のはたらきをつかさどる」と言ってもよいし、 「葉緑素は光合成のためにある」と言い換えてもよい。かくして、「なぜ葉緑素があるか?──光合成のため」という説明もよくなされるのである。
さて、説明のDNモデルに照らして機能的説明を分析しようとしたヘンペルは、まず(1)のような機能帰属の命題を、より正確には次のように分析すべきだと考えた。
(1a)脊椎動物における心臓の鼓動は、血液循環という結果をもたらし、それによってその動物の身体が適切にはたらくために必要な、一定の条件を満たす。つまり、目的因ではなく作用因の枠内で許容される「原因・結果」の言葉づかいがなされ、単なる結果ではなく、生物の生存と活動にある意味で本質的と見なされる結果をもって「機能」を特徴づけようとするのである。例えば、心臓の鼓動は「心拍音」も結果としてもたらすが、この音が心臓の「機能」だと見なす人はいないであろう。詳細は省くが、こういった考察を練り上げて(1a)を精密化し、一般化するのがヘンペルの分析の第一段階である。
彼の分析の第二段階は、(1a)のような機能帰属の分析から、彼のDNモデルの条件を満たすような説明が得られるかどうかの検討である(ヘンペルやネーゲルにとっては、これが説明の標準モデルであったことに注意)。ここで、ヘンペルは(そして、ネーゲルも)、何が説明されるべきことか(被説明項)について、素朴な目的論的説明のパターンを踏襲することに注意しなければならない。すなわち、「なぜ心臓があるか?」という問いが説明されるべき問題であると見なされる。もちろん、目的因ではなく作用因(普通の原因・結果のつながり)と、それに基づいて定義された「機能」を使って説明するというのがポイントとなる。また、脊椎動物における心臓の発生ではなく、心臓の存続(脊椎動物はなぜ心臓を持ち続けているのか?)が説明の主要課題だと見なされている。かくして、脊椎動物における心臓の存在を説明するDNモデルの候補として、次の推論パターンがまな板に載せられる。
(1b)(i) しかじかの条件Cの下で、脊椎動物の身体は適切にはたらいている。ところが、(ii) Cのもとでその身体が適切にはたらくためには、ある条件Nが必要である。ところで、(iii) もし心臓が脊椎動物の身体に備わっていたならば、(その機能の)結果として条件Nは満たされるであろう。したがって、(iv) 脊椎動物には心臓が備わっている。この推論では、目的因は排除されている(「ためには」という表現は、必要条件を述べる表現であって、目的因とは無関係である。下記の記号化を参照)。しかし、この推論の「したがって」は演繹的に妥当だろうか。もし妥当なら、これはDNモデルの条件を満たした説明の条件をクリアすることになる。しかし、残念ながら(1b)は妥当な推論ではない。推論の構造をわかりやすくするために、含まれている命題を
C: 条件 C は満たされているW: 身体は適切にはたらいているN: 必要条件Nは満たされているH: 心臓が身体に備わっていると記号で置き換えてみれば、(1b)の構造は
(1c)C&W; C&WならばN; HならばN; したがってHとなる。ポイントは、HがNの十分条件とされている(三番目の条件)というところにある。そのため、この推論は妥当ではなく、演繹的推論と見なされるなら、これは誤謬推理に他ならない。(論理学の初歩を知っている人なら、この推論のすべての前提を真とし、結論を偽とする真理表を書いて確認できるはずである。)この推論を妥当にし、かつ同じ結論を導くためには、例えばHがNの必要条件(つまり、「NならばH」が成り立つ)であることが言えればよいが、これは言えそうにない。なぜなら、血液循環という同じ機能を果たせる代替物(例えば人工心臓)がありうるので、HがNの十分条件であっても、必要条件であることまでは保証されないからである。
議論は繰り返さないが、例の(2)についても、まったく同じ事情であることは明らかであろう。かくして、ヘンペルの分析によれば、心臓の存在を心臓の機能に訴えることで説明しようとする(1b)の「機能的説明」の候補は、真正の説明にはなっていないと判定されるのである。ただし、ヘンペルは、機能帰属の分析や機能的説明の試みが、新たな探求や発見を助ける方法として有益であることを認めるにやぶさかではない。
ヘンペルの以上の分析に対して、「この難点は、説明のDNモデルという古い基準を適用したことに起因するのではないか」という反論が出されるかもしれない。しかし、ヘンペルが指摘した本質的な難点は、十分条件と必要条件との非対称性に基づくものであり、説明のモデルを、もっと新しい「因果説」や「統合説」あるいは(ファン・フラッセン流の)「実用説」で置き換えても再現できることを指摘しておきたい。例えば、ウェス・サモンの「説明の因果説」をとったとして、難点がどのように回避されるのか、まったく見通しはない。なぜなら、ヘンペルの分析もこのケースでは基本的に因果関係に焦点を合わせた分析になっているからである。したがって、これはDNモデル特有の難点になるとは考えられない。
ネーゲルは、ヘンペルが指摘した難点に気づいているが、論理的可能性と現実的制約の大きな違いを考慮すれば、かなりの程度難点が軽減できると考えているようである。例えば、(2)の葉緑素の例について、彼は次のように述べている。
植物において葉緑素が存在していることの上述の目的論的説明は、おそらく、ある決まった組織形態と決まった行動様式をもった生物──要するにいわゆる「緑色植物」──に [限定的に] かかわっている。したがって、葉緑素のはたらきを含むプロセスなしで存続できる生物(植物および動物)は抽象的にも物理的にも可能だが、緑色植物がそれらが実際にもつ組織様態の結果として有する限られた能力から見て、それらが葉緑素なしで生存できるという証拠はまったく見あたらない。(404)この指摘は、ある器官や形質の存在あるいは存続を説明するときに留意すべき一つの重要な点であると考えられるが、ヘンペルが定式化した(そしてネーゲルが実質的に支持する)(1b)のような「機能的説明」を擁護する根拠になるかどうかは疑問である(後述)。
わたし自身の見当は、ヘンペルとネーゲルの「機能的説明」分析自体の前提とされている、形質や器官の存在(存続)が説明されるべきことだという考え(先ほど太字で強調しておいた)に問題がないのか、というところにある。簡単に言えば、「機能的説明がめざすべき目標を取り違えていないかどうか」再検討する必要があるように思われる。なぜなら、生物の重要な器官や構造は、もちろん自然淘汰の影響を受けるにせよ、個体発生および系統発生の過程で適応とは無関係な制約を大きく受けるからである。形質や器官のはたらきの上での差異が子孫の再生産のところでフィードバックされる(それによって適応が生じる)ためには、差異のはたらく場となる形質や器官の「存在」はいわばすでに前提されている。それら自体までが、果たして機能的説明の対象となるのだろうか。ネーゲルの議論でとりわけ明らかなように、機能的説明の先行形態だった目的論的説明のある前提を引き継いだことに問題の一つの源があるのではないか。次回はこの疑問を少し追及してみたい。
文献
Hempel, Carl G. (1959) "The Logic of Functional Analysis", reprinted in his Aspects of Scientific Explanation, Free Press, 1965.
Nagel, E. (1961) The Structure of Science, Harcourt, Brace & World, 1961.
Nagel, E. (1979) Teleology Revisited, Columbia University Press, 1979.
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