7 普遍化可能性と善の重みづけわたしは、厳密な普遍化可能性も、善の公平な重みづけも、ともに実質的な道徳原則であり、論理的条件や道徳性の定義から導こうとするのは誤りだと論じました。では、多くの人々が道徳性の中心的な条件だと見なすこれらの規範的原則は、進化倫理学ではどのように扱われるのでしょうか。 改善された合理性に基づく、合理的選択が正当化の基本条件です。この問題も、論文本体では論じられているはずですが、講演では時間の関係であまり触れることができませんでした。少々図式的になりすぎるきらいはありますが、次の図で概略を示したいと思います。倫理にもある種の階層性があり、倫理判断の正当化もある程度それに制限されるというのがポイントです。「道徳性」の正当化が還元主義の立場で為されたなら、もっと限定された倫理判断の正当化も還元主義で可能となります。
また、いずれの正当化も完璧である必要はありません。大半の人々に対して、倫理が問題になる大半のケースに成り立てば十分です。倫理とエゴイズムは共存するので、倫理が大勢を占めればよいというのが進化倫理学の見方です。
まず、普遍化可能性が事実広範に受け入れられているのはなぜか、という(前述 5の(1))問いには、山岸さんのシナリオを応用して答えられます。普遍化可能性は、信頼のような、開かれた関係のための一つの必要条件ですから、信頼関係が社会に一般的に行き渡るに応じて定着し、これを可能にする条件は、山岸説がいう条件とほぼ同じ(もう少し一般的にはなるが)だと考えられます。つまり、社会的環境のなかには、普遍化を受け入れることが利益になるような客観的条件がある、というのがわたしの推測です(Added Dec. 28, 1999: この「利益」は、自分の利益だけではありません。相互的利他性の文脈を忘れないでください)。この推測は、普遍化可能性が定着するための、いわば社会環境のなかでの「進化ゲーム」に即した「究極因」に関する仮説です。しかし、実際に普遍化可能性を受け入れている人が、なぜそうしているかという動機(つまり、至近因)は、この仮説が正しいとしても、「この利益を目指す」という動機である必要はないし、一般には全然違うと考えられます。(この点、奥野さんに対する答えでは十分明晰に述べられなかったので、以下で敷衍します。)
信頼関係を使いこなすのにたけた人々は、そのような利益を目指すという動機で、計算高いエゴイストとして振る舞うから成功するのではありません。そうではなく、みずからも信頼性を身につけ、社会的知性を身につけ、ひとまず他人を信用してみるという心性を身につけ、そういった性質に従って行動するので、結果的にうまくいくのでしょう。もちろん、山岸説を展開している「改善された合理性」の見地ではこの利益を指摘し、信頼行動がなぜうまくいくかの「理由」と「説明」とを与えることができます。そして、信頼行動の合理性を示して、なぜそうすべきかという規範的判断の正当化を与える(前述5の(2))ことさえできます。普遍化についてもまったく同じです。しかし、ある原則の「正当化の理由」や「説明」と、その原則をある人に受け入れさせ、それに従わせている動機(至近因)とを混同しては困ります。
一見パラドキシカルに見えるかもしれませんが、信頼行動や普遍化の正当化が、そのことから生じる利益(と選択の合理性)によって為されたとしても、この利益を(とくに個人の行動や選択の)動機のレベルに持ち込んでよい(それが正当化される)ということにはなりません。心ある幾人かの功利主義者は、このように短絡してはいけないと注意しています。なぜなら、これは動機づけのレベルで利己主義を奨励するか、あるいは過大な合理性を要求することになり、限定された合理性しかもたない個人の行動を誤らせることになる確率がきわめて大きくなると(経験的に)判断されるからです。この判断が信用できないという人は、自分でそのように実行してみてはいかがでしょうか。計算ずくで利益を目指そうとしたからではなく、信頼行動に必要な特性を身につけたからこそ、その人はうまくやってこれたのです。現に、『信頼の構造』で「解き放ち理論」を展開したからといって、山岸さんが利己主義に鞍替えしたという話は聞きません。
わたしも同じで、普遍化可能性の定着条件や、正当化のための条件として「客観的にあるはずの利益」を指摘したからといって、「その利益を目指すために普遍化せよ」という新たな行為原則を提唱しているわけではありません。普遍化の実行、あるいは偏らない「善の重みづけ」が仮にわたしの倫理的評判を上げて、わたしが学界や社会で成功した(これは反事実条件文です)としても、それはまさしく普遍化や重みづけに際して「自分の利害にとらわれない」という習慣を身につけたからそうした成功が得られたのでしょう(改善された合理性はそう教えてくれるわけです)。ある種の習慣として維持しうる原則でないと、道徳性の条件としては不的確であること(アリストテレスの洞察)を銘記してください。また、損得や不正に敏感な大多数の人が、うわべだけの言動に簡単に騙されるとは考えにくいのです。
まさに、この文脈において、「改善された合理性」であっても、なお「限定された合理性」でしかないという認識が重みを持ってくるはずです。ある段階の改善された合理性によってそのような利益が見通せたとしても、この利益を目指すという動機づけに切り替えて同じ利益を享受するために、ほかの事情を見通したり、動機づけが変わったことから生じる別の結果を考慮したり、あるいは自分自身の行動を的確にコントロールするだけの能力を、ほとんどの人は持ち合わせていません。その場合、動機の切り替えは有害でしかない公算が大きいのです。まったく同じ理由により、功利主義者の多くは、みずからの第一原理たる功利原理を個々の行為決定に直接適用することは、たいていの場合禁じるはずです。
講演では述べられず、論文本体でも十分には述べられなかったことにまで立ち入りましたが、コメンテイターからの刺激により、論点が少しでも明確になったのであれば幸いです。