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Between Genetics and Statistics---Galton's Eugenics

遺伝と統計のはざまで──ゴルトンの優生学

[これは、『科学の倫理学』(丸善、2002年4月)の一部原稿である。引用はウェッブ版ではなく前記の本よりされたい。]


遺伝と統計のはざまで──ゴルトンの優生学

これまでは主として物理学者や化学者の事例を多く取り上げてきたが、近年では生物学系や生命科学系の分野で種々の大きな進展があり、科学の倫理もそういった方面に関わりがある問題を多く抱えるようになってきた。しかし、歴史的には核開発より前に、遺伝学や進化生物学がらみで大きな倫理問題が一つ現れていた。それが、19世紀後半に出現し、20世紀初めから中葉にかけてとくに盛んだった「優生学」をめぐる問題である。これも、科学の倫理や科学者の倫理を考える上で避けて通れない事例なので、以下で少々立ち入ってみたい。

フランシス・ゴルトン

優生学の創始者として有名なのは、イギリスのジェントルマン科学者、フランシス・ゴルトン(1822-1911)であるが、彼はまた統計学の分野で大きな貢献をしたことでも知られる。チャールズ・ダーウィンの父親とフランシスの母親とは異母兄妹だから、チャールズとフランシスはいとこに当たる。フランシス・ゴルトンは医学の修行を少し行なった後、ケンブリッジで数学を学んだ(彼は、何事にも数を数えるのが好きだった)が、1844年に裕福だった彼の父親が亡くなり、大きな遺産を相続する。彼に大きな転機が訪れるのは、1850年に、王立地理学協会の後押しだが自費で南西アフリカの探検に出かけ、まだヨーロッパには知られていなかったこの地域の地理学的データを集めて1852年にイギリスへ帰国した後である。この貴重なデータにより、彼は同協会の金メダルを授与され、会員に推挙された。ここから、彼の「科学者」としてのキャリアが始まるのである。1859年に出た『種の起源』はゴルトンにも大きな影響を与えたようである。1860年代には、ヘンリーと同じように気象予報の可能性を求めて、気象学の研究にも手を着けた。

しかし、何といっても、ゴルトンの名を有名にしたのは1865年に『マクミランズ・マガジン』に二部に分けて発表された「遺伝的性質と才能」という論文である。この中で、後に彼が「優生学」と名づけた考え方の基本が初めて展開されたのである。この論文は、後に改訂されて『遺伝的天才』(1869)という書物になる。その後、彼の研究は、遺伝の法則を求めて、エンドウマメの栽培実験や、人間の身長(親子の身長の相関関係)の統計的な研究に向かう。かくして、遺伝の問題と、統計的な研究手法とが組み合わさるのである。生物の多くの形質がベル型カーブの分布(正規分布、図を参照)に従うことは19世紀の重要な発見の一つである。例えば、人間の身長あるいは胸囲の値を横軸にとり、特定の値をもつ個体数(人数あるいはパーセンテージ)を縦軸にとってグラフに描けば、調べた人数が多ければ多いほど、正規分布の曲線に近い形をとる。ゴルトンはこの正規分布がもついくつかの重要な性質を実験的に示すために、「クインカンクス」というパチンコ台に似た装置(1873-4年)を作ったのである。また統計的「相関」の重要性に気づいたのもゴルトンである。これらには追々触れていくとして、まず1865年の論文(二部に分かれているので、第一論文、第二論文と呼ぶことにする)の内容を見なければならない。

図 正規分布 (正規分布の曲線は、調べる標本の種類、値の取り方によってもちろん変わってくる。しかし、適当な数学的工夫を導入することによって「標準化」すれば、一つの曲線ですべての正規分布を代表させることができる。)


動物の育種から人間の才能改善へ

第一論文の冒頭の文章は暗示的である。

動物に対する人間の力は、人が好むどのような形態の変種でも作りだせるという点で、きわめて大きい。将来の世代の身体的構造は、あたかも粘土と同じように可塑的で、育種家の意のままに管理できるかのように見えるであろう。(Galton 1865)

これは、もちろん、家畜の品種改良などの経験から来た一般化である。ただし、これは経験的一般化であるから、背後にある遺伝の法則についてはよくわからないままの話である。そこで、ゴルトンは、身体的構造について成り立つことが心的能力についても成り立つだろうと外挿し、動物について成り立つことは人間についても成り立つはずだと推測し、さらに人間の才能についても同じようなことが言える、とつないでいくという、きわめて野心的な論旨を展開するのである。当然、遺伝の法則がわからないままの話では説得力に乏しいので、その法則についての研究を、不正確な常識レベルから数量的なデータで裏づけられる統計的な規則性のレベルにまで高めて検証しようという新しい試みの第一歩を提示する。

彼が最初に使ったデータは、人名辞典(サー・トマス・フィリップス編)からとられ、1453年から1853年までにわたる605人の著名人、才能や能力で名前を挙げた人々のリストである。これらのうち、102人が血縁関係にあることをゴルトンは見いだした。約、6に対する1の割合である。これに力を得て、ゴルトンは別のもっと大きな辞典に当たり、Mの項目に含まれる1141人を調べ、103が父子または兄弟であることを見いだす。これは11に対する1の割合である。こういった調子で、芸術家、科学者、法律家と分野を変えていろいろと統計をとってみても、多くの血縁関係が目に付くことを根拠にして、「才能には遺伝的影響が強くはたらく」ことは疑いがないとゴルトンは結論する。もちろん、この論文を練り上げて本にした『遺伝的天才』(1869)や、後年のゴルトンの研究は、もっと入念な分類に基づいた統計をとったり、このたぐいの調査をきちんとした形質を選んでもっと入念な統計的実験にかけ、統計的な相関の研究を洗練していくことに費やされる。しかし、この1865年の論文では、この予備的調査の後ですぐに次の「予想」が現れる。

才能の伝達は父親の側だけでなく母親の側からも生じることが疑いないので、もし卓越した女性が通例として卓越した男性と結婚するということが何世代にもわたって行なわれるなら、・・・彼らの子孫はいかに大きく改善されることであろうか!

いま紹介した、第一論文の推論の流れのうちに、ゴルトンの「優生学」のエッセンスは、荒削りだが、ほぼすべて含まれている。そして、同じメッセージは、第二論文の最初の段落最後でも別の言葉で確認される。

わたしが明らかにした諸事実と類推により、才能のある男たちが、彼らと同じ心的および肉体的性質を持つ才能のある女とめあわされ、これを何代も何代も続ければ、人間の改良品種を生み出すことができよう。これは、競走馬や狐狩り猟犬の確立した品種で示されると同程度に、より劣った祖先種に先祖がえりはしないはずである。

端的に言えば、家畜の品種改良と同じように、人間の品種改良も可能である。すでにふれた正規分布との関係でいえば、ある形質の平均値のまわりの山を、平均値より右側、数値の大きな方にずらせていく方策にゴルトンは強い関心を示した。平均値は彼にとって「凡庸」であり、優れた方の例外を目指したのである。事実、後の『遺伝的天才』では「平均からの偏差」の法則が言及される(Galton 1869, 22)が、これは正規分布での偏差の話であり、別名「誤差の法則」という形で多くの人々によって論じられたものにほかならない。この本で、ゴルトンは知性や各種の才能を含む人間の多くの性質が(平均値を中心に、劣った程度から優れた程度まで)正規分布するだろうと予想したのだが、後にはもっと用心深くなっていく。なぜなら、例えば知性の程度を数量的にはかる手段など、ゴルトンは持ち合わせていなかったので、きちんと測れる形質から始めて、統計的な分布を実証していく必要があったからである。こういった点では、彼は知的誠実さを備えていた。こういった測定や統計的な研究は、後にもっと若い専門家、カール・ピアーソンやウォルター・ウェルドンらの協力を得て、「生物測定学」という専門的研究に結実していく(この学派のジャーナル『バイオメトリカ』創刊は1902年)。

さて、人間能力の「改良」のための卓越性の基準は、ゴルトンにはおそらくはっきりしていた。肉体的に頑健で、知性が高く、芸術的感覚にも優れており、気質においても倫理的能力においても好ましい、国家や社会に大きく貢献できるような諸性質を備えていること。女には女にふさわしい形質も求められる。ゴルトンは、もちろん、これを人間の社会や国家にとって「よかれ」と考えて提唱しているのである。また、当時は「人種」についての考えも現代とは違っていたことを考慮しなければならない。現代では、「ホモ・サピエンス」は一つの種だと見なされる。しかし、「人種」という言葉が示唆するように、当時は人間にはいわば違う品種がたくさんあると考えられていたのである。


科学と価値判断

そういった事情はともかくとして、ここではっきりと確認しなければならないのは、「人間の卓越性の基準」は科学から引き出されたものではなく、ゴルトン個人の価値判断、あるいはゴルトンの時代のある社会階層で一般的だった価値判断から引き出されたものであるということである。これは、ほんの少しでも哲学的分析の訓練を積んだ者にはほとんど自明のことなのだが、近頃一部で流行の言説によれば、「科学と価値判断は切り離すことができなくなってきた」というたぐいの主張も見られるので、あえて角を立てて述べておきたい。わたしに言わせれば、「切り離すことができない」のではなく、そのような主張をする人たちが「切り離す努力をしようとしない」だけの話である。例えば、すでに見た「水爆開発」に際しての、オッペンハイマーらの判断で、科学的判断と人類やアメリカ国民に関わる価値判断とは切り離せなかっただろうか。そんなバカなことはない(わたしは関西人だから、「そんなアホな!」と言いたい)。彼らは、水爆開発をめぐる現状認識や予測と、水爆開発がもたらすであろう結果についての価値判断とを分けて考えていたはずである。「人類皆殺し」は誰にとっても「好ましくない」と見なされる──「好ましくない」というのは価値判断であり、これが「どうすべきか」という具体的指針を導き出すときの大前提となる。ところが、オッペンハイマーらの科学者としての予測によれば、水爆開発はこういった恐るべき結果をもたらす可能性がある。それゆえ、この好ましくない結果を避けるために、彼らは(ほかの事情も斟酌した上で)「水爆開発はすべきでない」と結論したのである。この結論は、価値判断と科学的予測とから導かれた派生的価値判断である。価値判断と科学的予測とをいったん切り離しておいても、具体的価値判断や実践のための指針はきちんと導き出すことができる。

ゴルトンの「優生政策」の判断もまったく同じ構造をとる。大前提となるのは、「しかじかの性質を備えた人間が増えることが望ましい」という、科学の外から提供された価値判断である。そして、「かくかくの手段をとれば、そういった目標を実現するのに効果的である」という、科学的知識を援用した予測や判断が行なわれる。ほかの事情も斟酌した上で、その手段が適当だということになれば、「かくかくすべきだ」という実践的指針にたどり着くわけである。現代人にとって、すでに見たゴルトン流の考え方で一番気になるのは、育種、人為淘汰には付き物のもう一つの側面に十分に目がいっていないということであろう。家畜の品種改良の場合、人間が設定した「卓越性」の基準にあわない個体は淘汰される。では、人間の品種改良に際してはどうするのだろうか。この点に関して早くから危惧を表明したのは、トマス・ヘンリー・ハクスリーだった。


ハクスリーの思考実験

トマス・ヘンリー・ハクスリー(1825-1895)は、「ダーウィンの番犬」という異名で知られる進化論擁護者である。彼は、若いときに、ダーウィンと同じように海軍の調査船に乗船し、オーストラリア海域を探検し、博物学の素養をつんだ。帰国後は、比較解剖学で名を上げるとともに、科学の普及のために講演、執筆活動を行なった。ダーウィンの『種の起源』が出ると、ダーウィン擁護の論争をみずから買って出たので先の異名がついたのである。そのハクスリーは、晩年、ゴルトンの『遺伝的天才』の第二版(1892)が出た翌年に、オックスフォード大学で「ロマネス講演」を行ない、そのなかで当時流行していた優生思想と、スペンサー流の「進化論に基づく、自由競争の倫理」に厳しい批判を浴びせた。

少し補足しておくなら、ハーバート・スペンサー(1820-1903)は、「最適者生存」のための競争を奨励して(経済的な)自由放任主義を擁護し、強い者が生き残ればよいのだとみなす「倫理」を唱えた、と理解されることの多い思想家である。実際は、彼の思想にはもう少し内容があり、通俗的に理解されるほど粗雑な内容の思想ではないのだが、通俗的な理解が「スペンサー主義」ないし「社会的ダーウィニズム」と称されて、一つの流行思潮となったことも事実である。彼の言う「進化」は、実は「進歩」を意味しているので(したがって、ダーウィンの「進化」とは意味が違う)、そこから「倫理的含意」が引き出されるという傾向が強い。それはともかく、ハクスリーは優生思想やスペンサー主義をどのように批判したのだろうか(以下ではかいつまんで解説するが、もっと詳細な議論は内井1996、2.8-2.14を参照)。

彼の批判は、自然の変化を生み出す「宇宙の過程」と、それに対抗する人間の介入によって維持されている「人為の状態」、ないしそれを維持するための「人為の過程」の対比を設定した上で行なわれる。人為の状態の一例として、ハクスリーが頻繁に取り上げるのは、園芸家によって管理された庭や畑である。この園芸家のアナロジーは、後に植民地管理にまで拡張されるが、そのポイントは、二種の過程を支配する原理が異なるというところにある。

宇宙の過程は無制限な繁殖を手段として使い、何百もの個体が一つの個体にふさわしいだけの場所と栄養を得るためにに争うように仕向ける。・・・ 他方、園芸家は繁殖を制限し、個々の植物に十分な場所と栄養を与える。・・・そして、他のすべての方法で、園芸家が思い描く有用性や美しさの基準に最も近い形態の植物が生き残るよう、生育の条件を整えようとするのである。(Nitecki & Nitecki 1993, 36-7. パラディス&ウィリアムズ1995の邦訳、96-7を参考にしたが、訳文は内井。)

つまり、自然の状態を支配する過程では自然淘汰の原理が働くのに対し、園芸のような人為の過程では、人間の好みによる人為淘汰が働く。また、人間の技術などを通じた自然への介入によって、人間は文化や文明を作り出し、自然を部分的に支配することにさえ成功してきた。人為の過程は、ある意味では宇宙の過程に対抗できる力まで備えてきたのである。自然と文化、自然と文明との対比は、ダーウィンやゴルトンも含め、この時代の多くの思想家が取り上げた話題である。

しかし、ハクスリーが次に言いたいのは、国家や社会を維持するための人為の過程では、社会の「あるべき状態」についての規範や価値判断が持ち込まれるが、やり方次第では人間にとって深刻な事態がもたらされるということである。かくして、明らかにゴルトン流の優生思想を念頭に置きつつ、ハクスリーは、人間をも家畜扱いできるほどの能力を備えた超人的な統治者が、ある野生の地で植民地作りを任されたという思考実験に読者を誘う。この統治者は、園芸家が自分の庭を管理するようにこの仕事を遂行するであろう。自然淘汰の過程に代わって、この統治者の基準に従って動植物が管理され、人間の生存闘争もできるだけ排除されて、法や統治者の理想実現に向けた手段で管理される。つまり、宇宙の過程は人為的な過程で置き換えられる。しかし、これで話が終わりではない。入植者にとって生存条件が改善されれば、人口増加が避けられない。これに対処するために、統治者が「純粋に科学的な考察」に従うなら、次のようになるだろう、とハクスリーは描いてみせる。

治癒の見込みがない病人、老衰した者、虚弱な心身あるいは欠陥のある心身を有する者、過剰な新生児などは、ちょうど園芸家が欠陥のある植物や過剰な植物を間引きし、飼育家が望ましくない家畜を屠殺するように、取り除かれることになろう。強くて健康な者、それもこの統治者の目的に最も適応するような子孫をつくるために注意深く縁組みされた者だけが一族を残すことを許されることになろう。(Nitecki & Nitecki 1993, 40. パラディス&ウィリアムズ1995、102。)

このように、ハクスリーは自然淘汰に代わる人為淘汰を人間が人間自身に行なうことの危険性をいち早く危惧していた。それだけではない。彼は、優生思想が政治と結びついた場合にどういうことが起こりうるか、ハクスリーの講演から数十年ほど後に生じることを予見していたかのような記述が見られる。

宇宙的進化の諸原理あるいはそのように想定されたものを社会や政治の問題に適用しようという数多くの試みが最近現れているが、そのなかでもより徹底した試みのうちの相当部分は、人間社会にはわたしが想像したような統治者を内部の人材のうちから提供できるだけの能力があるという考えに基づいている、とわたしには思える。・・・個人からなるものであれ集団的なものであれ、一つの専制政府に、途方もない知性と、途方もなく残忍だと多くの人が見なす手段とが与えられることになる。淘汰による改善という原理を何らかの仕方で徹底して──この方法の成功はその徹底ぶりに依存する──遂行するという目的のためには、そのような残忍さが要求されるのである。(Nitecki & Nitecki 1993, 40. パラディス&ウィリアムズ1995、103。)

さて、ハクスリー自身の立場はどういうところにあったのだろうか。彼は、人為的過程のうちでも、「倫理的過程」を重視した。これは、ヴィクトリア朝時代には当然だったかもしれない。人間には、反社会的な傾向性を抑制するための倫理的性向も備わっていて、これを行使して人間社会の問題を解決するよう努めるべきだというのがハクスリーの見解である。こういった努力が働く過程が倫理的過程にほならない。そこで、ハクスリーの提言は、自然の生存闘争を追認するのでもなく、また人為淘汰によってまねるのでもなく、倫理的過程によって、宇宙の過程が生み出す倫理的に望ましくない結果を改善するため、宇宙の過程を押さえ込めということになる(Nitecki & Nitecki 1993, 68. パラディス&ウィリアムズ1995、158)。


人種改良はなぜ望ましくないか、またなぜ難しいか

以上より、ハクスリーがゴルトンの提唱に反対であることは明白であろう。ゴルトンが人種改良の結果に着目し、その望ましさを強調したのに対し、ハクスリーはそのような結果に至る過程で何が生じるか、そのような過程を遂行するために何が必要かに着目し、結果の望ましさを打ち消してあまりあるほどの問題点があることを指摘したのである。ハクスリーの指摘は、次のようにまとめることができょう。(1)優生政策を成功させるためには、途方もない残忍な手段が要求されるので、これは倫理的に望ましくない。(2)人間に対する人為淘汰を行なうためには、人の性格や品性を、とくに幼年期のうちに見抜けるほど優れた観察力や知性を備えた判定者が必要であるが、そんな人間はいないので、適切な淘汰を行なうことが不可能である。さらに、(3)このような条件のもとで、つまり残忍な手段を用い、超人的な知性が要求されるという条件のもとで、このような政策を行なおうとすることは、社会の中で人々を結びつけている特有の絆を壊す危険性が高い、ということも指摘されている(Nitecki & Nitecki 1993, 41. パラディス&ウィリアムズ1995、104)。

ゴルトンの名誉のために言えば、ゴルトン自身が1869年以後に行った遺伝と統計についての研究によっても、65年の論文あるいは69年の著書で構想したような「人種改良」の試みにはきわめて大きな困難があることが明らかになってきた。1870年代の後半にゴルトンが行なったスイートピーの育種実験によって、第一世代の平均より重い種(の一グループ)から得られた第二世代の種も、重さの分布は正規分布に従うことがわかっただけでなく、その平均値は、その重いグループの平均値ではなく、もとの世代全体の平均値の方へ近づくという「先祖返り」あるいは「退化regression」を示すことが明らかになった。さらに、1880年代に入って、ゴルトンは人体測定研究所を開いて人間のデータを集め始めたが、両親の身長と、成人した子供の身長を比較した統計データからも、まったく同じような「退化」の傾向があることが明らかになった。つまり、身長の大きな両親から産まれた子供の平均身長も、両親の平均身長よりは一世代全体の平均値の方へ近づく(「退化する」)のである。数学的解析の結果わかったのは、これは遺伝とは直接関係がなく、統計的な操作がもつ数学的性質の一つだということであり、ゴルトンが「退化の係数」と呼んだものは「回帰reversion係数」と名づけ直されることになった。『遺伝的天才』の第二版(1892)の前書きでも、これは次のように説明されている。

ある集団でのある能力の分布は、もし子供が平均して両親に似るとすれば、一定に安定することは不可能である。もしそうなったとしたなら、巨人(心的あるいは肉体的形質のどれをとってもよい)は世代ごとにますます大きくなり、小人はますます小さくなるであろう。これに対抗する傾向性をわたしは「退化」と名づけた。子の中心は、親の中心より凡庸さの方に近い、つまり種の中心の方へ退化する。・・・

すべての変種はこういったものであるから、一つの種の自然的性質が、単なる変種の淘汰によって永続的に変えられるということは不可能である。(Galton 1892, xvii-xviii)

かくして、ゴルトンみずからの見解においても、1865年当時の楽天的な考えは、「科学的根拠」に関する限り、大幅に後退するのである。このあたり、「科学者としての」知的誠実さに関しては、いくら「悪名高い優生学」の創始者であるとはいえ、ゴルトンを評価する際に忘れてはいけない事実である。そこで、ゴルトンは、「将来における人間の改良という大きな問題は、現在のところ、学術的な関心の域を超えてはほとんど進んでいないと自認しなければならない」(Galton 1892, xx)、と認めるが、彼の理想を捨てるわけではない。人間の将来の形質が、間接的とはいえ、人間によって管理されうることはなお強調する(Galton 1892, xxvi-xxvii)。いわば、彼の「優生的理想」と、彼の「科学的業績」とは独立なのである。ゴルトンは、優生思想を一つの動機として彼の遺伝学および統計学の研究を進めたかもしれない。しかし、その研究の結果、優生思想を変えたわけでも、捨てたわけでもない。また、彼の研究結果が(現代の知見からすればいくつかの誤りが含まれているにしても)優生思想に合うように故意にねじ曲げられたわけでもない。


優生学と科学の倫理

さて、初期の優生学をめぐるいくつかの事実をきちんと把握する必要があったので、長々と紹介してきたのだが、科学の倫理というわれわれの観点からすれば、この事例はどのように評価すべきだろうか。取り上げた科学者は、百年以上前のゴルトンとハクスリー二人だけなので、彼らの言動を冷静に分析し、評価してみよう。すでに述べたように、二人の主張は、(1)科学の外から持ち込まれた価値判断と、(2)科学的な研究や判断の二つの側面に分けることができる。(1)の価値判断が妥当かどうか、説得力があるかどうかは、科学的な判断と無関係ではないが一応切り離すことのできる、倫理一般の話である。これに対し、(2)については、「科学者としての」見識、判断や配慮の妥当性が問題となり、科学の倫理あるいは科学者の倫理が第一義的に適用されるはずである。

まず、ゴルトンについては、彼が「好ましい人間像」について一定の見解をもっていたことが明らかであるが、その見解がわれわれ現代人が建前としてもっている見解と一致しないからといって、直ちに「倫理的に非難する」のは当たらない。とくに、現代社会では「思想信条の自由」は基本的人権の一つとして認められているはずである。ならば、ゴルトンの思想の自由も認められてしかるべきであろう。倫理的問題は、彼がそのような理想実現に向けて何らかの行動を起こしたときに生じる。例えば、政府に働きかけて「断種法」(好ましくない性質を持つ人の生殖を防ぐための手術を認可する)のような法律制定を画策する、一般向けの「啓蒙活動」を行なって優生主義を広めるなどの活動をする、とすればどうだろうか。こういった場合に広く認められているのは、ほぼ同時代のジョン・ステュアート・ミルが唱えた「危害原則」である。すなわち、「個人の自由が法的処罰あるいは世論による道徳的強制などの形で制限されてよいのは、他の人々への危害を防ぐ場合だけである」という原則である。そこで、ハクスリーの「優生学批判」は、この原則に照らしても十分に理解可能である。ハクスリーは、優生思想が広まることによって、ある基準からすれば「好ましくない」人々が差別を受け、不利益を被る(一種の危害である)ことを憂慮した。それゆえ、彼の時代には、まだ「断種法」などの動きはなかったが、先手を打って、こういった手段を示唆しかねない優生思想そのものを批判したのである。

すでに指摘したように、ゴルトンには優生政策が含意するこの負の側面に対する配慮が希薄だったことが言えるだろう。これは、「科学者として」、ハクスリーと同様に予測できることだったはずである。それどころか、ダーウィンの『人間の由来』(1871)でもこの側面が指摘されている。ダーウィンも、文明(弱者保護、医療など)がもたらしうる「弊害」について、次のような懸念を表明している。

かくして、文明社会での虚弱な成員はその数を増す。家畜の繁殖にたずさわってきた者なら誰でも、これが人類にとって大変有害であるにちがいないということを疑わない。(Darwin 1871, vol. 1, 168)

これは、生物学の見地から見た「有害」の判断であろう。そして、このたぐいの懸念が、多くの「優生学者」に共有されて、彼らを突き動かしている一つの顕著な動機だと考えられる。これは後に何度も形を変えて繰り返されるので、「ダーウィンの危惧」と名前をつけておきたい。これを、逆に楽天的な方向にひっくり返せば、ゴルトンの「人種改良」とつながることが明らかであろう。しかし、ダーウィンは、倫理的な観点からの判断を補うことを忘れない。

外科医が手術のとき無情に振舞ってよいのは、彼が患者の利益になることを行なっていると知っているからである。しかし、もしわれわれが弱くて無力な人々を意図的に見捨てたとしたならば、これは不確かな利益のために圧倒的に大きな悪を現在に為すことでしかないことになろう。したがって、われわれは、虚弱な者が生き残って数を増やしていくということの間違いなく悪い結果を耐えなければならない。しかし、その悪い結果を抑制する要因が少なくとも一つ、常に働いているように見える。というのは、社会の中の弱い劣った成員は、健康な者ほど自由には結婚しない。そして、この抑制は、心身の虚弱な者が結婚を控えることによって、限界なく強化されるかもしれない。ただし、これは、当然期待すべきことというよりは、希望にとどまる。(Darwin 1871, vol. 1, 169)

このように、ダーウィンは倫理的見地に踏みとどまった。ゴルトンの科学者としての知的誠実さについては、一般的に問題はないと考えられるが、彼のどこに非難されるところがあるのかは、ダーウィンと比較すれば明らかであろう。フランク・リポートで表明された「科学者の責任」(一般の人々に対する責任)に照らして言えば、ゴルトンは専門家として、優生政策のたぐいが人々に危害を及ぼしうることを予見できたにもかかわらず、その危険性を指摘せず、優生的理想を追求することの方を重視した(これは、ゴルトンがそれと指摘できる実際の被害に対して責任があるという意味ではない)。科学者としての倫理に関わりがあるのは、とくに「予見と警告」の部分である。ダーウィンとハクスリーにはこの点で落ち度はない。とくに、ハクスリーはこの警告を明瞭に力強く行なった点が、いまでも高く評価されるのである。こういった判断ができるのは、われわれもダーウィンやハクスリーとともに、倫理的価値とほかの価値とが衝突する場合には、倫理的価値の方を上に置くからである。フランク・リポートやロートブラットとともに、科学研究の価値の源として人類の福祉あるいは利益を前提するなら、そうなるのは当然である。そこで、ゴルトンの理想のような、本節冒頭(1)に分類した、科学の外から持ち込まれた価値判断についても、少なくとも間接的な影響が及ぶことになる。すなわち、ゴルトンのような理想をもつことは、それ自体としては思想の自由の枠内で許されることだが、その追求が人々の利益を損なう場合には歯止めがかけられるべきである。この判断は、科学の倫理の上の、一般的な倫理の見地からでてくる判断である。

しかし、いまから百年時代をさかのぼると、こういった判断は必ずしも多数の判断ではなかった(一級の科学者も含めて)ことを銘記しなければならない。二十世紀に入り、とくに20年代になると、優生思想は流行思想となり、欧米諸国で政策にも具体的に取り入れられてくるようになる。次章ではこれを見たい。


要約


(1) Whether or not you like, Galton's 1865 Paper is a "must" for discussing the problems of eugenics and related matters. Its first part may be required as an assignment. Many other materials in this connection is in my page on Sience and Society, part II. Notice that eugenics became quite popular in the 1920s and 30s.

Comments on the 3rd Assignment (June 13): Even though what is required is a short summary, your description reveals your perceptivity.

(1) When Galton wrote this paper, he did not have any method of "statistical test" (such as Neyman-Pearson test). But have you noticed such passages as this?:

we may be sure that there have been far more than a million students educated in Europe during the last four centuries, .... According to our list, about 330 of these, or only 1 to 3000, achieved eminent distinction: yet of those who didso, 1 in 12 was related to a distinguished man.

Most summaries mentioned only such figures as 1/12, 1/6, etc., without mentioning the overall background, shown in "1 to 3000", for instance.

(2) Galton is arguing on the background of the Darwinian selection; which includes competition between groups as well as competition among the individuals of a group. Thus you should notice such words as "the feeble nations ... are necessarily giving way before the nobler varieties", "of paramount interest to the State". Galton, and his supporters for that matter: they are not thinking merely "human civilization in general" but "civilization embodied in a certain nation"; you already know Pearson's version and Fisher's version of eugenic idea, and they all share this aspect of Galton's original idea. Eugenics became popular, for one thing, because this aspect appealed to many people, to many politicians in various countries. Most of you were quite insensitive to this aspect.

(2) Eugenics, statistics, and genetics were somehow related in their development, as a matter of historical fact. It is one of our tasks to clarify their relationship, and to separate scientific issues from social or ethical issues. Without this effort of separation, one can be easily led to say something like "science and values are after all inseparable".

(3) Ethical issues of eugenics, and those related with the ethics of science (scientists), can be discussed only after such an intellectual effort has been done. Since we have a rather clear example of Franck Report, it may be instructive to analyze the issues in comparison with the case of nuclear weapons.

(4) In order to discuss evolutionary ethics, you have to know essential features of Spencer's ethics propounded in his Data of Ethics; for this and other related topics, start from my brief review in "Darwinism and Ethics".

(5) Thomas Henry Huxley's Evolution and Ethics is not an easy book to understand. I presented my own reading in Uchii 1996; but if you want to examine his book, don't follow my reading, since your own purpose may be quite different from mine. You have got to struggle with Huxley himself, with his own words. Many students tend to do things like this: "check only those passages quoted by some writers--then use some of them for whatever purposes suitable for one's own paper". Warning: this is little different from plagiarism. If you sturuggle with the author, you can get more valuable things than this, improving your own ability to analyze, to interpret, and to criticize. See Evolution and Ethics (Romanes Lecture), and many other materials available at The Huxley File.


参考文献

内井惣七(1996)『進化論と倫理』世界思想社。

パラディス、J. &ウィリアムズ、G. C. 編(1995)『進化と倫理』産業図書。Huxley (1894) の邦訳を含む。

Darwin, C. (1871) The Descent of Man, 2 vols., Murray. Reprint ed., Princeton University Press, 1981.

Huxley, T. H. (1894) Evolution and Ethics, reprinted in Nitecki & Nitecki (1993).

Forrest, D. W. (1974) Francis Galton, Taplinger Publishing Co.

Galton, F. (1865) "Hereditary Character and Talent", Macmillan's Magazine 11, 157-166, 318-327, 1865. [See http://www.tld.jcu.edu.au/hist/stats/galton/macfull.htm]

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