Fra Filippo Lippi
フラ・フィリッポ・リッピ 
1406年?〜1469年

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 絵にあまり関心のない方でも、ルネサンスといえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、そしてラファエロに、あの「ヴィーナスの誕生」のボッティチェルリ、と名前を挙げるでしょうが、フィリッポ・リッピという素敵な画家がいたことも知っておいてください。まずは、代表作をどうぞ。ハイ、クリック→
 いかがでしたか? (この絵は修復後の画像かな?もっときれいだったように思うのですが)閉館間際のウフィッツィ美術館でこの絵に会えたときは思わず ニコッ、ドキドキ としました。たまたま近くに人がいなかったのでよけいです。

フィリッポ・リッピの生涯
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 フィリッポ・リッピはフィレンツェのカルミネ聖堂の近くに生まれました。ところが、出生直後に母親を、そして2才の時に父親を亡くし、早くから孤児となってしまいました。一時は伯母の家に引きとられますが、成長するにつれて、面倒見切れなくなり、ついに同聖堂修道院にあずけられてしまいます。あずかったカルミネ修道院としては何とか修行させてりっぱな修道士にしようとしたのですが、当の本人は全く勉強が嫌い、従って成績も悪い。ただ、絵を描くことには興味を持っていたようで、暇があれば同聖堂のブランカッチ礼拝堂にいりびたっていたようです。というのも、当時この礼拝堂では天才マザッチョが一連のフレスコ壁画を描いていました。フィリッポは日永一日飽きることなくそれを眺めていたんでしょう。やがて、彼はカルミネ聖堂のあちこちの壁に絵を描くようになり、修道士としてよりも画家として世に知られるようになりました。次第に絵の依頼も増え、天性の才にも磨きがかかりました。
ここで、ちょっと初期の作品を見てみましょう。

初期の作品
「謙遜の聖母(トリヴルツィオの聖母」
70×168 スフォルツァ城美術館
(ミラノ)
「聖母と天使たちおよび聖人たちと寄進者」49×38 チーニ・コッレクション(ヴェネツィア) 「玉座の聖母子と天使および聖人たち」44×34 コレッジャータ美術館(エンポリ)
凡そ1430年代前半のものと思われます。写真でだけでしか見てませんが、なんか泥臭いような、画面構成ももう一つ緊張感に描けているような気がして、これリッピのかな?なんて思ったりします。以前は他の画家の作だという説もあったようですが、現在ではフィリッポ・リッピの作として認められています。これらの作品の後1437年に「コルネート・タルクイニヤの聖母」、1438年頃にバルバドーリ祭壇画というすばらしい板絵を描きますが、この進歩、飛躍はナンでしょう!フィリッポに何が起きたんでしょう?

「聖母子」の図はだいたい立派な玉座に座っているものですが、右の絵はイエスを抱いて聖母が立ち上がっていますね。珍しいですね

「コルネート・タルクイアの聖母」
114×65 1437年 
バルベリーニ国立美術館(ローマ)
「聖母子と天使および聖人たち」(バルバドーリ祭壇画)
217×244 ルーブル美館(パリ

 さて、評判が高まると、各地から注文も来るようになり、フィレンツェを離れてヴェネツィアやパドヴァへ仕事にいったようですが、何をしたのか余りよく分かりません。また、フィリッポはムーア人の海賊に捕まり、奴隷として北アフリカへ連れて行かれたという話しもあります。海賊の頭領の肖像画を描いて気に入られ、18ヶ月ぶりに帰ってきたということですが、これはどうも眉唾です。しかしこの時期、フィッリポは新しい絵画様式を学び、絵画技術を向上させたということは事実のようです。「コルネート・タルクイニアの聖母」や「バルバドーリ祭壇画」はその結果生まれたものでしょう。

ヤコポ・ポントルモが描いたコジモ・デ・メディチ
当時のフィレンツエの権力者コジモ・デ・メディチがフィリッポの絵をおおいに気に入り、以後フィリッポに多くの絵をかかせることになります。フィリッポにとってはまことに頼りになるパトロンを得たことになります。というのも、フィリッポは修道士でありながら、同じ画僧で敬虔なるフラ・アンジェリコ(1396ころ〜1455)とは対照的にきわめて問題行動の多い修道士でした。特に女性とのスキャンダルは日常茶飯事。女好きだったのでしょう。一旦好きになったら絵なんか描いていられないという。
 ある時、コジモは注文した絵を描くことに専念させようとフィリッポを自分の邸の部屋にとじこめてしまったのですが、フィリッポは女のところに行きたい一心から夜中にシーツを切り裂きそれに伝わって窓から脱出したんです。コシモは一度は腹を立てて連れ戻したのですが、結局はあきらめて、それからは自由にさせたということです。こうしたスポンサーが付いたらいい仕事ができますね。
「聖ステパノ伝・聖人の葬儀」
        プラート大聖堂
絵の右の方に黒い服を着た修道士姿の二人がいますが、フィリッポリッピと弟子のフラ・ディアマンテスだそうです。

さて、当代随一の人気画家フラ・フィリッポ・リッピに1452年プラートの大聖堂の壁画制作が委嘱されることになりました。大仕事です。主題は「聖ステファノ伝」と「洗礼者聖ヨハネの生涯」です。フィリッポは弟子のフラ・ディアモンテとともにプラートに居を移し、10数年をかけて描き上げます。その間にも板絵など注文を受けたいくつかの作品も制作しています。また彼の放逸な生活も相変わらずで、プラートのサンタ・マルゲリータ尼僧院で聖母のモデルにした年若く美しい修道女ルクレツィア・ブーティにぞっこん惚れ込んでしまい、ついには駆け落ちまでしてしまいます。同院礼拝堂付司祭にも任じられていた50歳前後の修道士が30ほども若い修道女と駆け落ちするなど、これはもう、大変なスキャンダルです。この時もコジモ様のとりなしで特に厳しいおとがめもなく、ルクレツィアも尼僧院に戻ったようですが、その後ルクレツィアとのあいだに二人の子供が生まれていますが、これどうなっているのでしょうかね?教皇ピウス2世の許可を得て還俗し結婚したとかしなかったとか。よく分かりません。
  とにかく1457年に長男フィリッピーノが生まれます。後に有名な画家となり、父リッピが大きな影響を受けたマザッチオの壁画(カルミネ聖堂)の未完成部分を完成させています。そして1465年に娘アレッサンドロが生まれています。
先にも見ました、この「聖母子と二人の天使」はこのころの作です。この絵はリッピの作品の中でも優れているだけでなく、聖母子のモデルがルクレツィアとその子供だと言われたりして、特に有名です。
 1466年、スポレート大聖堂のフレスコ壁画の連作に取りかかりますが、多くを弟子ディアマンテおよびリッピ工房の手が入っています。そして、1469年10月その地で亡くなっております。死因は今で言う業務上の過労死だと思いますが、これにも女性問題のこじれから毒殺されたのだという説があり、何とも話題の多いルネサンス画家です。